「喪われた記憶とアイデンティティ。ビクトル・エリセが31年ぶりに問う「映画についての映画」。」瞳をとじて じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
喪われた記憶とアイデンティティ。ビクトル・エリセが31年ぶりに問う「映画についての映画」。
あのビクトル・エリセが、31年ぶりに新作を撮った!
そういわれて、さすがに行かないという選択肢はない。
僕は世代的に『ミツバチのささやき』と『エル・スール』の公開時には間に合っていない。物心ついたときには、両作とも既に「オールタイムベスト級の伝説的作品」として祀り上げられていて、自分はTSUTAYAで借りたVHSで視聴した。
それから、大学生のときに『マルメロの陽光』(92)が封切られた。
スペイン人画家アントニオ・ロペス・ガルシアの制作風景を収めたドキュメンタリーで、一般の映画ファンにはちょっと地味な題材だったかもしれないが、ちょうど1991年に東京高島屋で開催されたマドリッド・リアリズム(いわゆる「魔術的リアリズム」)の展覧会を鑑賞して、人生が変わるほどの激しい衝撃を受けた美術史学科の学生――僕としては、まさに「渡りに舟」のような映画だった。
それから30年。ビクトル・エリセは沈黙を守り続けた。
(本当は、いろいろと企画を立ててたけど何度も流れてしまっていたようなのだが。)
で、今度の『瞳をとじて』である。
まさか僕が生きている間に彼の新作が観られるとは、正直思ってもみなかった。
テーマは「老い」と「記憶」。
キャッチコピー通りでいうと「記憶を巡るヒューマン・ミステリー」とのことで、若干、警戒心を呼び起こすような前宣伝(笑)。
もしかして「今の感覚だともはや受け入れられないような退屈な映画」なのではないか。
若干の危惧を内心抱きながら、観に行ってみた。
いざ観だしたら、出だしこそかなり眠たかった(実際、ドキュメンタリー番組のスタジオ収録のあたりで、膨大な会話のやりとりを聞き流しながら、つい寝落ちしてしまった)が、主人公がアナに会いに行ったり、ロラに会いに行ったりし始めてからは、緊密な画面作りと知的な吸引力の強度でぐっと引き込まれ、海辺の家への帰宅から老人福祉施設訪問、ラストの映画館での上映と、最後まで集中力を切らさずに観ることが出来た。
いかにもビクトル・エリセらしい話法とモチーフで組み立てられながらも、『ミツバチのささやき』や『エル・スール』よりは今風の撮り方や照明の感覚をも取り入れている。思いのほか「旧来のエリセらしさを残した作風」を維持しているのに、「今の観客が観てもそれなりによく馴染む」映画に仕上がっていたと思う。80代の老人にしては、エリセにしても、宮崎駿にしても、作風を「保ちながらリファインする」清新さを持ち合わせているのは凄いことだ。
ここで言う「エリセらしさ」とは、以下のようなことを指す。
まず主たるテーマとして「父の不在」と「父娘の絆」について扱っている。
父親がきわめて父権的なキャラクターであること、娘のほうがもともと父親に対して抱いていたイメージの喪失が描かれることなど、彼の手による劇映画三作品は「語り口」からしてよく似ている。
今回の新作では、映画内映画である『別れのまなざし』のなかの王と王女、現実世界におけるフリオとアナの二組の「父娘」が、別れと不在~再会を体験することになる。
それから、二重・三重の「時制」の異なる物語がイレコ構造になっていて、過去への遡及的な言及が語り手のモチベーションとなっている点も「エリセらしい」。
本作では、「作中映画内の時制(1947年)」と「作中映画が撮られた過去完了時制(1990年)」と「映画内の現在時制(2012年)」が存在していて、お互いに影響しあっている。いずれの登場人物も「過去」に執着しながら現在を生きており、「俳優の失踪と完成しない作品」という「永続的な宙ぶらりんの状態」に今もからめとられている。
主人公のミゲル・ガライ監督は、不承不承ながらも過去と対峙する勇気を振り絞ることで、事態は思いもかけない新展開を迎えることになる。
映画の中に映画が登場し、その「映画を観る」ということ自体が作中で重大な意味を持つという点でも、三作品は共通している。特に今作の場合、明らかにビクトル・エリセ本人がモデルであろうと思われる映画監督が主人公として話を紡いでいくわけで、これはまさしく「映画を撮る」ということの意味と機能について考察する映画であるともいえる。
しかも、本作における「映画の効能」というのは、「映画の魅力」とか「映画の魔力」といった芸術的な次元の話ではない。「記憶を喪った俳優」がいて、「彼が主演している幻の作品の断片」が残っている。この映画を観せたなら、さすがに男の記憶も回復するのではないか? という、なんというかえらく明け透けで、直截的で、実利的な効能である。
要するに、本作において映画は何よりも「記録装置」であり、「記憶の形見」であり、「不確かな人間の脳を補完する映像の証拠」としてその姿を現すのだ(そういえば、形見箱に大事に取ってある「電車が近づいてくるパラパラ写真本」も、リュミエールによる「最初の映画」を容易に連想させる代物だ)。
エリセは、おそらく最後となるかもしれない自身の映画で、自分の人生そのものともいえる「映画」というメディアと直面し、「映画は人を動かせるか」という命題に真摯に向き合うなかで、その芸術性ではなく、あえて再現性と記録性に焦点を当て、愚直なまでにストレートに「映画の力」について問うてみせたのである。
スペイン絵画に伝統的な「魔術的リアリズム」を、映画を通じて継承する美学を有している点も、昔と変わらない(パンフに掲載されているビクトル・エリセのアー写は、どこからどう見てもディエゴ・ベラスケスの描く肖像画のパロディになっている!)。
今回の映画は、むしろマリア・モレーノを思わせるような「軽やかさ」まで身にまとっている感があるが、夜のシーンや室内のシーンになると、スペイン絵画特有の背後を埋め尽くす「薄闇」と、赤味を帯びた黄色灯で照らされて浮かび上がる人物というバロキッシュなハイライト表現が支配的になる。そこには間違いなく、ベラスケスやリベーラ、17世紀ボデゴン絵画、あるいは後年のゴヤから、現代のアントニオ・ロペス・ガルシアやミケル・バルセロに至るスペインの絵画史的伝統の反映と、それを引き継いでいこうと自覚的に模索するエリセの意志を見てとることができる。
今回特に印象的だったのは、ここぞというシーンでは、必ずシンメトリーのレイアウトが採用されていたことと、今時珍しい場面転換におけるフェイドが多用されていたことだ(最近だとギャスパー・ノエの『ヴォルテックス』が意図的にフェイドを用いていたけど)。
いずれも「単にやってみた」というだけでなく、きちんとした目的と意図があってのことで、たとえばシンメトリー構図は、ラスト近くの二つのシーンを最終的に際立たせるための布石だろう。すなわち、ミゲルとフリオによる漆喰塗りの共同作業のシーンと、老人福祉施設の門のところで二人が佇む、未来だか過去だかを鉄格子で封じられたようなショットの二つを「出来るだけ効果的に」見せたいがために、序盤からみっちりと「仕込んで」あるわけだ。
フェイドの多用にしても、アナの「私はアナよ」という問いかけからの「瞳をとじて」と、オーラスにおけるフリオの映画鑑賞からの「瞳をとじて」を成立させ、呼応させるための入念な下準備として、全編を通じて企図されていることがよくわかる。
(そういえば『ヴォルテックス』のフェイドも、ダリオ・アルジェントとフランソワーズ・ルブランがそれぞれ天に召されるシーンに最終的に焦点を合わせるための施策だった。)
二人を横並びに座らせるセッティングを多用しているのも、本作の「キモ」ともいえる演出で、あらゆるシーンで徹底的に「どのように座らせ、どのように視線を交わさせるか」が考え抜かれているのは、カール・テオドア・ドライヤーの演出技法を強く想起させるところだ(とくに『ゲアトルーズ 』(64))。この印象は、観ているうちにちゃんと答え合わせがあって、ミゲルの友人のマックスが、「ドライヤーの『奇跡』以降、映画はその魔法を喪った」といったことを述べるシーンが出てくる。すなわち、本作における「フレーミングと視線」に徹底的かつ執念深くこだわる演出術は、ドライヤー由来のものであることを、こういう言い方でしっかり「種明かし」してくれているわけだ。
ちなみに、ドライヤーの『奇跡』(54)は、そこまでずっとリアリスティックで抑制的な演出に徹してきた映画に、終盤になって唐突に「モンタージュとカット割り」が導入されることで、映画内でも「奇跡」の復活劇が引き起こされる(ことが認容される)という構造を持つ映画である。
本作のラスト近く、ミゲルは映画の断片を関係者向けに上映するにあたって、この映画において初めてといっていいくらい能動的に、生き生きと指示を皆に出しながら、映画館内での「二人の横並び」の座り方とその場所を綿密に「指定」してゆく。
映画監督が能動的に「演出」を施すことで、映像はその魔法を発動することができるという信念が、ここではドライヤーの『奇跡』を引用することで、改めて語られているのだ。
●引用といえば、この映画で最大級にびっくり仰天したのは、中で『リオ・ブラボー』(59)の主題歌「ライフルと愛馬」がフルコーラス(しかも替え歌で)歌われること。まんま映画のパロディなのだが、ビクトル・エリセってこんな生々しい楽屋落ちやるタイプだったっけ?? でも、パンフの濱口竜介監督によると、エリセはこのシーンについて「私が今まで撮ったなかで一番素晴らしいシーンだ」と言っていたらしい(笑)。
実は僕にとっても、『ライフルと愛馬』はカラオケの愛唱曲でして……いやあマジでびびった。
●楽屋落ちといえば、アナ・トレントに宛て書きで「アナ」の役をやらせて、映画の一番の決め所で「私はアナよ」と言わせるというのも、壮大な楽屋落ちで、これがやりたくて30年ぶりに映画を作ったといってもいいのかもしれない。
正直、あまりに「あからさま」な楽屋落ち過ぎて、僕個人としてはいまだ消化しきれていない部分がある。めちゃくちゃ堂々と正面からやってのけているから、これはこれでいいんだろうとは思うんだけど、こんなダサい自家撞着的なネタをやりたいがために、映画を一本作っちゃってホントに良かったんかいな?って疑念はどうしても頭から拭い去れない(笑)。
●「過去」と「記憶」を探求的に扱う本作では、「記憶」の欠片&断片として、カンカンの中やノートの栞など、さまざまな形で保管されてきた「スーヴェニア(想い出の品)」が大量に登場する。若き日の写真、パラパラ写真本、映画の小道具、フィルム、ひも、チェスのコマ、古本で見つけた自筆の恋の献辞、そして、二人だけが知る秘密の歌とメロディ。
ちなみに、本作で重要な役割を果たす「キングのコマ」に、エンドクレジットで映される「ヤヌス神」の像との明確な「形状的なアナロジー」があることは見逃せない。
過去と未来をつかさどる、双面の門番神ヤヌス。
フリオの心の内で閉ざされていた「門」の鍵は、果たして「映画の力」によって開いたのか? ヤヌス神が新たに指し示すのは、過去の記憶へといたる旅なのか、それとも(娘との)未来へといたる道程なのか。
映画は、あのラストシーンから先のことを描いていない。
果たして記憶は戻ったのか? 戻らなかったのか?
でも実のところ、僕はそこに関しては確信がある。
僕個人の映画観からすれば、あれで記憶が本当に戻ったりするような映画なら、それは明快にただの「駄作」だと思うからだ。
あそこで、フリオの記憶は戻らない。
ちゃんとした映画なら、戻るわけがない。
エリセの作品としても、戻ってほしくない。
でも、映像として残る記録を見せつけられて、外堀はたしかに埋め尽くされた。
それは厳然たる事実だ。
フリオの「心」は元に戻らなくても、フリオの「理性」は、自分がフリオであることを「確信せざるをえなくなる」。
その状況下で、フリオは一体どんな選択を下すのか。
そここそが、本作に残された真の「余韻」の部分――観客それぞれが考えなければならない部分なのではないかと思う。
1週間限定公開された「リオ・ブラボー」を観ました(何回目だ?レビューも上げました)。「ライフルと愛馬」を唄うシーンは、本当は敵にそなえて緊張するところですが、楽しいんですよね。
共感をありがとうございました。
監督への愛のある詳細なレビュー、沢山の知識に圧倒されました。
テーマに関して、私も同じようにとらえました。(私のレビューはあくまでも感覚的で薄く恥ずかしいくらいですが)そして、フリオのその後についても全く同感です。決してそれを観せることなく、彼らのこの先をほのかに感じさせるところに監督の人間愛、人生観が沁みてくるようです。素晴らしい作品でした。