「不幸の連鎖」あんのこと 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
不幸の連鎖
まず売春と薬物常習者である杏(河合優実)が描写される。底辺な生活環境と、母の春海(河井青葉)の毒親ぶりも併せて描かれる。
個人的に日本映画の壮絶人生描写には、はいはい悲惨ですね──という印象しかおぼえない。日本映画の、なんか衝撃を与えようとしてくるところが嫌だわ。
不幸な状況ほど淡々と描くべきだと思うが日本映画が100あると99は不幸盛り描写をしてくる。
この人物が不幸であることを否定するつもりはない。ただし不幸はたんたんと描かないと、凡百の日本映画に埋もれますよ。と言いたい。
が、本作はそれ以外のところは良かった。
刑事の多々羅(佐藤二朗)とジャーナリストの桐野(稲垣吾郎)と杏が、いっしょにラーメン屋やカラオケへ行って、束の間の楽しい時間を過ごすシーンがある。
そんな時の、杏の嬉しさの表しかたが、幼い頃から長期間に渡って、嬉しいことがあっても、それを毒親によって即座に粉砕されてきた人のそれだった。幸福な気分がすぐに粉砕されることが分かっている人は遠慮がちになって、はにかんでいるような嬉しがりかたをする。その儚さ(はかなさ)を表現した河合優実が巧くて切なくなった。
介護施設長の上間(盛隆二)が『あなたとお母さんは別々の人間だ、あなたが母親の問題を背負う必要はない、あなたはあなたが一番やりたいと思うことをやりなさい』と言ったのが、毒親の支配下で生きてきた杏の支えとなる。
人は「親がじぶんを大切に思ってくれているものだ」という錯覚をもっていると思う。もちろん、たいていの親が子を大切に思っているのは事実だが、じっさいのところ両者は他人どうしだ。血が繋がっていることで「絆」のようなものがあると思ってしまうことで子は苦しむ。
なぜなら親がわが子を好きになれない──なんてことはよくあることだから。それはわたしやあなたが誰かを好きだったり嫌いだったりするのと同じことだ。好きになれない親に従属した時、子は虐げられているのに逃げられない負の絆に囚われてしまう。それはとりわけ珍しい現象だとは思わない。
『この映画の原案は、2020年6月に朝日新聞で報じられた1人の女性の新聞記事である。記事によれば、その女性は幼少期からの虐待や薬物依存を乗り越え、夢であった介護福祉士になることができ、夜間中学で学ぶはずだったが、コロナ禍で前途を阻まれ、2020年春に自死したとあった。』
(ウィキペディア「あんのこと」より)
映画はまさに弱り目に祟り目という感じ、杏の人生に希望の光が見えたところで新型コロナウィルスがはじまる。
起と結にある基調イメージは杏が人気のない茫漠たる街を歩いているところで、それはちょうどパンデミックの初めの頃に「これは神がわたしに死ねと言っているのかもしれない」と悲嘆した気分を表していたと思う。だから映画のキャッチコピーの「彼女は、きっと、あなたのそばにいた」には共感した。
準主役の多々羅は悪い奴だが、話では両義性をもたせていた。
主宰する薬物更正施設の女たちを救済するふりをしながら食っていたわけだから二元論のヤフコメなら炎上まちがいなしの悪党だが佐藤二朗が演じているせいで多々羅のキャラクターにはなんとなくかわいげがあった。
ところで佐藤二朗はなんで演技賞とれないのかな。国内の映画賞なんて箔以外の価値はないが、コミカル路線だから賞対象にならないというのならそれが日本映画界の限界。佐藤二朗の監督業はひどいと思うが「さがす」もこれも演技には迫力と人間臭さがあった。(ただしつばを吐く癖は思いっきり不釣り合いだった。)
この映画はいやおうなしに新型コロナウィルス禍下のことを振り返らせた。
今、あれを振り返ると不思議な気分がこみあげてくる。
なくなった人もいるし、わたしも平穏な日常をうしなったから、決して大げさだったわけじゃない。だが振り返ってみるとあれはなんだったんだろうな、というアンチクライマックス(拍子抜けするような脱力)な気分しかない。
映画は救われない結末だが後味は悪くない。理知的な雰囲気の稲垣吾郎がそのバランスに貢献していたと思う。