「ギターと「孤独」と蒼い惑星」劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく! Re:Re: 映画読みさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5ギターと「孤独」と蒼い惑星

2024年8月11日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

総集編前編が終了している時点で、1~8話ぶんは終了している。
総集編後編は9~12話と、4話ぶん(96分)しかないものを新規カットを含めながら約77分に再編集となるので、何を残すかというよりもあえて何をカットするかという方向性の作りになる。

結果、本シリーズは、総集編前編の「みんなで1つの結束バンド」という具合から、総集編後編は「それぞれの(交わるとは限らない)道」というニュアンスが強調されるという、相変わらずの王道を外したロック具合が発揮される。

再編集&新規カットが追加されたOPは、アニメ版ではあった家族とのギャグ的なやりとりを省くことで「夏休み、本当に黙々と練習しているぼっちちゃん」と「夏休みを(一般的な高校生らしく)満喫している他3人」が強調されている。えぐい。これがスターリーでのライブをぼっちちゃんのワンマン力でなんとか逆転成功させた後だと思い出すと、とてもえぐい。後編は開幕からゴリゴリ来たなという印象。
総集編前半の「みんなで1つの結束バンド」のテンションなら、江ノ島に行く時のぼっちちゃんの「あ、でもこのあとの練習は…」が削られるかと思っていたが、ちゃんと残されていた。つまり、他3人は「善意から合わせ練習をキャンセルして4人で江ノ島に遊びにいった」ニュアンスもちゃんと保持。喜多ちゃんの「夏休みは毎日友達と遊ぶ予定が入ってて」も、逆説的に演奏には1日も打ち込んでいない証左になっている。つまり、スターリーでのライブ後、ぼっちと他3人の実力差はさらに開いてしまっているのだ。このバンドは、夏休みというまとまった自由時間にもっとも入門者である喜多が最も練習していなかった感じで、最も上手であるぼっちちゃんが最も練習していた感じのバンド…なのである。(スターリーの結果に対する反省があるなら、「一緒に練習しよう」ぐらいあっていい。そしてそれがあったなら、妹の「おねえちゃんの観察日記」にも書かれているはずだ)

江ノ島や文化祭の回は象徴的で、ぼっちちゃんは「みんなで遊ぶこと」に拒否感と憧れの両方を持っていたが、それは「そういう概念」に憧れを持っていただけで、実際にバンドメンバーに連れられても、心から楽しい、こういうのも最高…とはなっていない。みんなと遊ぶことになっても、長時間意識が飛んでいたり、メイド喫茶店員をさぼる口実にできると喜んだり、ぼっちちゃんの感想はその程度に終始している。ぼっちちゃんの「ロックスターとしての、自分の成功」という我欲はまったくブレず、「みんなで楽しくやっていけているこの瞬間が尊い」というような他3人とは明確に温度差がある。
きくりのライブを観に行った時も、他3人は「よかった」とメンバー同士の交流を深めていたが、ぼっちちゃんは「きくりのようになれる自信がない」とひとり落ち込んでいた。それは、無自覚的にきくりを「自分がなるべき相手」「これぐらいできないといけない目標」つまり同じレベルに立つ、または当然超えるべき相手として比較対象≒対戦相手にしているゆえの落ち込みだ。ファンは素晴らしい演奏を聴いたときにただ憧れるが、プロの同業者同士となると落ち込むのだ。ぼっちちゃんが進みたがっている「道」の苦楽を語り合えるのは、現在はきくりだけなのだ。
そういうぼっちの本心とメンバーの温度差は「夏休み、ずっと練習しながら妹にギターを教えていた」「(喜多が学友としているにもかかわらず)お金持ちになって退学したい」「文化祭でメイド衣装に一人だけ舞い上がっていない」「MCで『面白いこと』としてぱっと思いついたのはきくりのダイブ」「楽器店で他メンバーが装飾品に釘付けになったり実力誇示でのキャラ立てを目論む中、そういうのには目もくれずただ楽器を見ている」などなどで、わかる人にはわかるシビアさで表現されている。アニメ版では、配信者の収益として数十万が発覚したときにまず考えたことは「(他3人との居場所なのに)バイト辞められる!」だった。ぼっちちゃんが嫌なやつというよりは、「学校やバイトの時間が、心ゆくまで練習できない無駄な時間」という綺麗事抜きの事実を当然の肌感として持っていて、その優先順位にはまったく疑問を持たない思考で常に生きている。

その結果、この総集編後編のラストシーンに至るのだろう。
常人たちからすると、ぼっちちゃんのコミュ障具合は「生育の過程で、何か原因があったはず」という、理由があり、ならばそれを取り除く治療が可能であり、やがて寛解して自分らと同じノリになるであろうものとして捉えられる。虹夏たちはそう捉えていそうだ。
だが、作中で得た輝かしかったはずの青春は流れるようにフラッシュバックして消えていき、無表情とも言えるぼっちちゃんの根源にどっしりと座っているのは、物心ついて間もないぼっちちゃんのウルトラマイペースという事実だった。もしこれが友人を求めていた孤独なヒロインなら、ここの演出は「この半年、最高の日々を歩めてるな、私、前に進めてる、やった、喜多ちゃんがいる学校楽しみ、虹夏ちゃんとリョウさんがいるバイト楽しみ」と成長と幸せを噛みしめてハッピーエンドになるはずなのに、全然そうはなっていない。
つまりぼっちちゃんはどこかでうまくいかなかったり傷ついたりでこうなった人ではなく、「生まれながらにこういう人」という種明かし、ある意味他のメンバーと縮まらない溝の存在が、最後の最後で明かされている。
友達への憧れは「そういうものがないと恥ずかしい、みじめだろう」的な後天的なもので、何なら知った後なら「べつにそうでもないな」と捨てられる。12話版ではラストのセリフとなり総集編後編でもカットされていなかった「今日もバイトかぁ…」のセリフは、ぼっちちゃんがあれだけ拒否していたバイトに慣れたという成長を描くと同時に、「今日もバイトだ。みんなに会える!」ではなく「(練習時間が食われて)めんどうくさいな…」ぐらいである。つまり先天的には「友達なんていなくてもいい、それよりもやりたいことを心ゆくまでやりたい」を貫ける人種だというのが漏れてしまっている上手なセリフだ。アニメ版のOPの意味深なラストカット(学校の放課後の賑わいに憧れも疎外感もないぼっちちゃんが、ひとりで学校を出ていく)がどういうテンションだったのかの種明かしでもある。
『花の慶事』には前田慶次の「虎はなにゆえ強いと思う? もともと強いからよ」という名言があるが、ぼっちちゃんは一芸を極める系の人の多くが持つ「練習魔・追求魔」という求道者の精神性(先を目指さずにはいられない貪欲な執着と、頑張ればまだまだ自分は上達できるはずだというエゴ)を持っており、他の3人は持っていない。
つまり「ぼっち・ざ・ろっく」は、「みんなが仲良くなっていって、欠けたものを影響し合い侵食しあい標準化されていって、幸せになる」という、きらら漫画の王道“ではない”というロックっぷりをぶちかまして、この総集編シリーズは終わる。
ロックの天才をテーマにしているアニメが、ありきたりなこと、皆にすんなりとわかることをハッピーに表現して許されるわけないだろ? やりすぎ? いや、
「バカなんかじゃねーさ! 『初めて買ったギターは真っ白いフライングVで、買ったその日にケンカで叩き壊しました!』 …ロックンローラーなんてそれでいいんだよ。 お前…カッコイイぜ」…の世界だろ?
という、万々歳でまとめておけばいいのにあえて不穏にも思える終わり方をぶちこむのが、ロックを扱うアニメ作品としての制作側の矜持だったのだろう。
実際、公式アルバム『結束バンド』(※Reの方ではない)を聞くと、ぼっちが作詞したであろう曲の歌詞のほとんどは、アニメ版で表出するぼっちのキャラ性をずっと超えて昏くて凶暴なものが多い。ぼっちは「叫ぶような歌の方が当然本心が出る」ロックンローラーなのだから、この子は本当に虎として生まれてしまった猛獣なのである。楽曲『あのバンド』ひとつとっても、市井の人気バンドに勇気や憧れをもらうどころか「勝手に背中を押すなよ」「乗客は私“ひとり”だけ」「他に何も聞きたくない 私が放つ音以外いらない」と言い切る。この歌詞は…浮かんでも、普通は使用するのをためらう。余りにも、常人の小市民的な感性を否定しているからだ。でも、作ってバンドメンバーに見せ、スターリーライブで演奏している。もうこれはブレーキが壊れているというか存在していない、虎なのである。業界と呼ばれる場所のエースが進む花道は、虎でないと走り続けられない獣道なのだ。

おどけたキャラ性や軽快なギャグでテーマを深刻には見せず、大衆向け作品のヒット性を満たしつつ、実はそのメッセージは内容的にもメタ的にも蛮勇じみて奥深い。小利口・お利口ならここまでの冒険をする必要はない。特にヒットが見えた後の総集編劇場版では。
しかしこれはぼっちざろっくなのだからぼっちでロックなのだと、攻める。とんでもないバランスの作品であると思う。2期もこの全球勝負球感で投げ続けるのか、プロデュース側や制作側がひよらずにそんなことができるのか、試みは成功するのか失敗するのか、もう怖い物見たさである。

ロックンローラーなんてそれでいいんだよ。お前…カッコイイぜ。

映画読み
映画読みさんのコメント
2024年8月28日

>Mさん
ありがとうございます。

映画読み
Mさんのコメント
2024年8月27日

レビュー、とてもおもしろかったです。

M