めくらやなぎと眠る女のレビュー・感想・評価
全62件中、1~20件目を表示
村上春樹とアニメーション、相性良し
村上春樹の短編作品のいくつかを再構成して一本の物語へと仕立て直している。舞台は震災後の日本で、震災ニュースを延々と見続ける妻が突然失踪し失意の中にいる男と、その同僚である日突然巨大なカエルに自身を止めて東京を救えと言われる冴えない男を中心に、シュールで不可思議な人間模様を描く作品だ。村上春樹のシュール系の短編はアニメーションとこんなに相性いいのかと思わされた。ゆらゆらと不確かな実存に悩む人々の物語と言えるが、その不確かさがアニメーションという固定的な形状を持たなくて良い媒体で、映像として巧みに表現されていて面白い。
やっぱり「かえるくん、東京を救う」のエピソードは面白い。奇妙なカエルが突然目の前に現れて喋り出すだけでもシュールだが、そのシュールさに違和感も何も感じさせないのは、このアートスタイルだからか。
白昼夢を見ているかのような、奇妙な感覚に心地よさを感じさせる作品だ。
こういう企画は日本のアニメではなかなか成立できない。そういう意味でも貴重。
異なる言語文化と表現の不確かなキャッチボール
村上春樹作品の一愛読者として、近年映画化のペースが上がっていることは単純に喜ばしい。作家自身が映画「風の歌を聴け」の出来に失望して以来映像化のオファーのほとんどを断っていると何かで読んだ記憶があるが、年齢とともに映像化に寛容になってきたのだろうか。2018年の「ハナレイ・ベイ」と「バーニング」、2021年の「ドライブ・マイ・カー」、そして村上作品初のアニメ映画化が本作「めくらやなぎと眠る女」だ。
監督・脚本のピエール・フォルデスは、1990年代に映画音楽やCM曲の作曲家としてキャリアをスタートさせ、その後ドローイングやアニメ・実写の短編をいくつか発表してきた(自身のサイトpierrefoldes.comで過去の作品群や、「めくらやなぎと眠る女」のスケッチなども公開しているので、興味がある方はぜひ)。
フォルデス監督は米国出身だがパリで育ち音楽もフランスで学んだので、仏語・英語のバイリンガルと察せられる。本作の制作過程もなかなかユニークで、まずカナダで英語話者のカナダ人俳優たちを用いて実写撮影・録音し、その映像をベースにアニメーションを制作。このアニメ映像に合わせてフランス語の台詞を収録したものが公式のフランス映画になり、さらに深田晃司監督が演出した日本語版(翻訳協力は柴田元幸)が作られた、という流れだ。
言語と表現形式の変遷に注目すると、日本語の小説の翻訳から英語の脚本が書かれ、英語話者が演じた実写映像からアニメーションが制作され、さらに台詞をフランス語で収録した公式版、日本語で収録したバージョンがそれぞれ作られた。文化的背景の異なる日本語圏、英語圏、仏語圏の表現者たちがいわば作品をキャッチボールしたわけで、翻訳の過程で生じるわずかな表現のズレが映画そのものの奇妙な不確かさにつながっているように感じられ、それが個人的には楽しめるポイントの1つでもあった。
フォルデス監督のキャラクター造形からは、欧米の白人の目には東アジアの黄色人種がこんな風に見えているんだなというのが伝わってくる。これも文化を行き来した作品の妙味だろう。小村の風貌は、原作(「UFOが釧路に降りる」)ではハンサムでほっそりとした長身の設定だが、アニメの作画では村上春樹本人に寄せた気がする。
白昼夢にも似た夢と現の越境感が独特の余韻を残す
以前、ある監督から「長編の村上文学は許可が下りにくい。短編小説の方がまだ可能性がある」と聞いたことがある。ただし、短編には短編で、長編とは違う特殊な持ち味があるため、結局のところ映画作家には斬新なアプローチが必要となるという。本作はまさにその言葉を裏付ける一筋縄ではいかない一作だ。6本の短編小説を緩やかに融合させている時点でかなり大胆というか恐れ知らずだが、もともと実写で撮られた映像をアニメーションへと変化させる過程で生じた、さながら白昼夢のような夢と現との越境感が独特な印象を刻む。極めて実験的、尚且つ出口のなかなか見えない作品であるため、見る者を選ぶ作品ではあるものの、小説でも映像でも変わらず「かえるくん」が愛らしく、一方、小説「かいつぶり」を基にした「長くて暗いトンネルをひたすら歩く」というイメージが、それそのものというよりは、主役らの心理模様として機能しているのが効果的で余韻を残す。
To Be a Ghost in this Vision Called World
This lucid French-directed anime is a talky musing on the descent into middle age life, a revisit to Linklater's Waking Life with the psycho-spiritual elements of a Miyazaki film. It was actually shot and animated similarly to the former, and instead of one character visiting different dreams, it's an anthology film based on Murakami's short stories. A welcome reflection on life's mundanity.
めくらやなぎと眠る女
村上春樹氏の映画化された作品は、
「ノルウェイ」「ドライブマイ」「バーニング」に続いて、本作4本目。
煮えきれぬ男性が主人公なのが、
共感を得るようだ。
今どきの若者を、うまく捉えてる感じがした。
自分は、あの冴えないおじさん側だな〜
とか思いながら笑
おじさんが東京を救うと言う部分が
シュールだ。アニメにした甲斐があったと思う。
いくつか感じた違和感
村上春樹はかなり好きな作家で、原作の短編も読んだことがあります。そのため、映画そのものを見てというより、自分の原作の感触と比べるようにして見た感想になってしまったので、かなり個人的な偏りが出てしまいました。以下、内容にも簡単に触れてレビューします。
この原作の一つ、「かえるくん、東京を救う」は村上春樹の中でもかなり気に入っている作品なので、期待半分、不安半分で見始めました。しかし、様々なところに自分の抱いていた原作の感触との違和感を感じることになって、結局最後まであまり楽しむことが出来ませんでした。いくつかその点を挙げたいと思います。
まず大きな違和感を抱いたのは、中心的人物の一人である「片桐」のキャラクター性でした。映画の中での片桐は、中年の眼鏡をかけた小太りの自信のない中年の男性であり、みみずくんとの戦いに巻き込まれるかたちで協力することになるわけですが、かえるくんの協力をうける描写から感じられるキャラクター性に違和感を抱きました。
原作では、東京信用金庫で歌舞伎町のかなり危険な世界を相手に金の取り立て業をしているのですが、片桐はそこで出くわす危険な場面に対して別に怖いとも思わないような人物として描かれています。これは勇気や使命感のようなものにあふれているためでは決してなくて、自分の人生に対して妙に達観したというべきところがあるためです。他者の期待や、簡単な希望や、脅しや、評価といったことが大して意味を持たないような、自らの人生を孤独に自らの力で、タフなありかたで送っている人物であるためです。ここで論理的には飛躍しますが、そのような、目立たないが本当は稀有な人物であったからこそ、このような未曾有のとんでもない暴力が噴出することを抑えるというかえるくんの使命を助けられたのだと、原作を読んでいて感じていました。片桐はヒーロー的な人物ではありません。けれどタフに人生を送っています。だから「あなたのような人でなくてはならない」とかえるくんは言ったのではないでしょうか。このように考えていたため、映画において「一般に日の目を見ない(どこにでもいるような)人物の、奮い起こした勇気が助けになる」のような話として、片桐が配置されていることに違和感がありました。
ものすごく細かい部分ですが、かえるくんがどのようにして片桐が自分を助けたのか語る場面の描写にこうした片桐像の差が現れているように思います。原作では「足踏みの発電機」を片桐が持ち込んでその場を照らすのですが、ここで要だと思っているのは、片桐がみみずくんのような圧倒的な暴力と戦うためにちっぽけな「足踏み」の発電機を持ち込むことです。この圧倒的なものに対して、(どう考えたってすりつぶされて終わるような戦いに)それでもタフに力の限りを込めて文字通り「踏みしめ」ながら自らの存在を保とうとし続けるような生のありかたの、諦念のまじったような哀しさ(?)とどこかユーモラスな感じが、この「足踏み発電機」には込められているのではないでしょうか。それは、あくまでみずからの力で踏みしめなければなりません。こんな絶望的な戦いをやり抜きえる人間だったからこそ、片桐は、圧倒的な暴力に対する文字通り身を賭したかえるくんの戦いの助けになりえたのです。(そこに大げさに言えば人間の営みの尊さがあるのだと、なんとなく感じています。そこまで感じさせるような短編だと思います。)しかし、映画では片桐はまるでかえるくんという(サムライじみた)ヒーローにスポットライトを当てることが役割のような描写に感じられました。これでは「なぜ片桐だったのか」ということに納得がいきません。
このように、自分にとっての軸と思っていた部分に違和感があると、どうもいろいろな部分がすんなり受け取れなくなってしまいます。
例えば、日本の描写の甘さも気になります。片桐の家も日本のワンルームではないし(玄関やキッチン等)、バスも日本のバスではないです(一度東京にでも取材にくればわかることでは?と少々意地悪く思ってしまいます)。また、このような目線で見てしまっているためか、ここに出てくる人間の動作(例えばしぐさ、歩く際の方の揺れ方、顔の傾け方等)がどうも日本人っぽい動きではないように感じてしまいます。しょっぱなのキョウコの動きもどぎまぎするほどリアルですが、雑な言い方をすれば、「海外のドラマにでてくるどうしようもないおばさん」を見ている感じがしました。「欧米圏のリアルさ」に「欧米圏の生活からイメージするリアルな日本」を接ぎ木してる、という印象をうけました。(別に現実の日本を再現しようとしているわけではないと思われるため、本質的な違和感ではないのでしょうが、日本で生きている以上、どうしても気になってしまいます。そして、気になると本筋にもなんとなく入り込みづらいです。)
また、キャラクター性の違いでいえば、シマオさんの媚態にも違和感がありました。映画ではシマオさんは尻軽の若い女の子のような雰囲気で描かれていましたが、原作では、決して節操観念の堅い人ではないとはいえ(村上春樹の他の女性たちと同様に)、どこか無機質というか、この世とは違う所にちょっとだけ接していて妙に現実感がなくある種純粋な部分があるというか、そのような感触がある人物だと思うのです。だから、原作での「中身を渡してしまった」というジョークには、どこか予言めいた凄みがあったわけです。そこには「震災」というよくわからない圧倒的な暴力が、何かよくわからない仕方で、主人公にもどうしようもなく直接関係してしまっているという予言的な響きがあります。おそらく、そのために主人公は急に、(シマオさんに対する)どこかから押し寄せるような圧倒的な暴力の瀬戸際に立たされるのでしょう。しかし映画のシマオさんは少々俗っぽすぎて、このジョークは「ただ考えもない女の迂闊な一言が、主人公の傷をえぐってしまった」という文脈で受け取られてしまいます。(このジョークの「意味深さ」は、それが主人公の本当の痛みを表しているからに過ぎないわけです。)こうなると、主人公の空虚はただ「妻が出ていった」という事実によって日常的なレベルで理解可能なものになってしまい、このシマオさんとのシーンは、「なぜか知らないが震災にショックを受けて妻が出ていき(それは結局、結婚生活において「自分らしくいきる」みたいな意味に照らし合わせた時に、妻の中でうまくいっていなかった部分が、震災という(あくまで)「きっかけ」によって触発されたためか?)、それに(気づかぬうちに)傷ついた主人公が、尻軽の女と寝ようとしてできなくて、その女の不用意なジョークにその喪失感が抉り出されてめちゃくちゃおこっちゃった」、という話にしか感じられません。これでは、意味深なことは言っているけれど、結局は女に捨てられた男の話に終始してしまうじゃないか、と少々誇張して思ってしまいます。もちろん、原作(「UFOが釧路に降りる」)もそういう話として読むことが出来ますが、やはりそこには還元しきれない味わいがあります。その味わいとは、漠然とはしていますが、「よくわからないこの世界にすりつぶされたり、翻弄されざるをえなかったりする「生きる」ということのありかた」が描かれている点だと思います。しかし、この映画はいろいろ意味深な言葉をちりばめているものの、最終的にはゴシップ的なレベルの話に還元しきれてしまう気がして、そうした「感じ」があまり感じられませんでした。少々アンフェアには思いますが、そのために残念でした。
ただ、村上春樹の世界とあっているかは別としても映像自体の雰囲気はかなり好きでしたし、かえるくんの感じは(字幕も、吹き替えも)確かにこの感じだ、という納得感がありました。(その納得感と、村上春樹作品の映像化の可能性をそれでも感じたために、自分の中ではこのような評価になりました。)
ここまで色々と書きましたがこれは個人的な感想です。もし多少なりとも気になったのであれば、原作でも、映画でも、ぜひ触れてみてほしいです。
村上春樹、やっぱり、つまんない
ああ村上春樹、やっぱりつまらない。
韓国映画『バーニング 劇場版』や『ドライブ・マイ・カー』はなんとか観られたが面白いかと問われたら、
つまらなかった
としか応えない。
『ノルウェイの森』はトラン・アン・ユン監督の作品だと思えない程スカスカだった。
原因は原作の村上春樹によるものでしかないと思う。
(僕は村上龍の方がまだ読める読者で、村上春樹信者から説教されてもミーハー達のように分かったフリはしなかった。
村上春樹やその信者は、胡散臭さの臭さが消えない。
本作もそうかもしれない。)
本作はアニメーションとして奇抜な作風で気味悪く、
村上春樹の世界観にピッタリ、なのかもしれない。
僕は村上春樹の作品の登場人物に嫌悪感しかなく、
それは性別問わず、全く好きにはなれない。
女性は、なんでこんな非魅力的なキャラクターを主人公にするのか悩むほど理解ができない。
(本作も皆さんキライなキャラばかり。)
理解したいとも思わない。
完璧、僕とは合わない作家なんだと思うし、
それで片付けて深く考えなくてもいいだろう。
なにゆえに
地震のあとで
「かえるくん、東京を救う」「バースデイ・ガール」「かいつぶり」「ねじまき鳥と火曜日の女たち」「UFOが釧路に降りる」「めくらやなぎと眠る女」ハルキムラカミの短編6編をうまく融合させた本アニメの構成は、濵口竜介監督の『ドライブ・マイカー』と同じだ。ついでに言わせていただければ、上記6編とも2011年前に上梓されているにも関わらず、このフランス人アニメーターは東北大震災直後の日本を舞台にした物語にわざわざ置き換えている。濵口が『ドライブ・マイカー』の後半舞台を“ヒロシマ”に設定した意図を真似てのことだろう。
ハルキ文学の場合映画化権をNHKががっちり握っているらしく、どうも短編作品の方が許可が降りやすいという裏事情もあるらしいのだ。作家がノーベル文学賞を意識しだして以降、特に🇮🇱を口撃する左翼的発言が増えたものの、根はノンポリ志向であり、本アニメの主人公小村(磯村勇斗)同様“空気のかたまり”のごとく中身は空っぽなのである。ピエール・フォルデスにしても濵口竜介にしても、複数の短編エピソードを接着させる要として、日本人の深層トラウマに今尚影響を与え続ける震災や原爆が必要不可欠と考えたのではないだろうか。
銀行に勤める小村は上司からリストラ対象であることを告げられ、その妻キョウコ(玄理)は震災ニュースを5日間テレビで見続けた後突然失踪する。小村と同じ銀行に勤めるさえない中年男片桐(塚本晋也)は、仕事に忙殺される毎日を過ごす典型的社畜行員である。その片桐のマンション部屋に突如として現れたカエルくん(古舘寛治)から、東京を救うため大地震を起こそうとしている怒れるミミズに対して一緒に戦ってくれないかと依頼を受ける片桐だったが....
カエルくんが煮え切らない片桐に対して、ニーチェやアンナ・カレーニナ、ヘミングウェイを引用して、ちょいズレ説得をするシークエンスが実に面白い。古代ギリシャを起源とする哲学やヨーロッパ文学に関して作家はほとんど素人レベルだそうなのだが、小学校から哲学を教わっているフランス人らしいエスプリの効いた突っ込みであろう。原作短編では「闇の中でみみずくんと闘いながらドストエフスキーの『白夜』のことをふと思いだしました」とカエルくんは言ったらしいのだが、本当に読んだことあるの?とカエルくんならずとも作家に訊ねたくなるのだ。
私はハルキムラカミの原作短編を読んだことがないのでなんともいえないのだが、原作同様に登場人物たちに与えられたミッションの中身が謎のまま放置されているのではないだろうか。友人から小村が預かった“小箱の中身”、キョウコがレストランのオーナー(柄本明)に叶えてもらった“望みの内容”、焦げ付きそうになった7億円の回収に成功した片桐が上司から告げられた“ご褒美”とは一体なんだったのだろう?普通の小説のようにあえて明らかにしないところにハルキ文学の良さがあるのさ、とハルキストはそれを評価するのかもしれない。
監督ピエール・フォルデスは、主要登場人物以外のエキストラを半透明の幽霊として描写することによって、そういった物事の核心からあえて目をそらそうとする戦後日本人の病理を描こうとしたのではないか。あえてオチを着けないストーリーテリングによって、(ハルキストに代表される)核心周縁の些事にばかり執着する日本人の性癖を鋭くついているのである。重要なことは“目に見えない”ではなく、“見えているのに見えないふりをしているうちに本当に見えなくなってしまった”メンヘラ気質の国民性を評して、本アニメを“めくらやなぎと眠る女”とタイトリングしたのではないだろうか。フランス人らしいまこと辛辣なタイトルである。
シュールで奇妙な味わい
妻に逃げられた小村。巨大なカエル男、カエルくんに取りつかれた片桐。ふたりの銀行員を主役に6本のストーリーで綴られるオムニバス作品。
村上春樹の短編小説(未読)をフランスでアニメーション化したという大変珍しい作品である。オフビートでシュールな事象が次々と出てきて、まるでコント集のような感じで面白く観ることが出来た。
とりわけ小村の妻キョウコが話す”めくらやなぎと眠る女”の逸話は意味深で印象深い。耳の中に蠅が潜り込んで脳を喰うという何ともおぞましい話で、デヴィッド・リンチ監督の「ブルー・ベルベット」を連想した。
また、小村が同僚に頼まれて北海道まで謎の小箱を届けるエピソードも面白かった。これもリンチの「マルホランド・ドライブ」に出てきた青い箱を連想した。
他にも今作にはグロテスクなエピソードが幾つか登場してくる。小村が終盤で出会う少女はかなり不気味だったし、片桐が見る悪夢もダークで捉えどころのない気味悪さを覚えた。時代設定が東日本大震災直後なので、社会全体を包み込む不安な空気感が再現されているのかもしれない。
そんな重苦しい雰囲気の中、片桐とカエルくんのやり取りを描く一連のシークエンスは終始ユーモラスで楽しく観れた。個人的に今作で最も好きなのはこの部分である。カエルくんのとぼけたキャラがユニークだし、平凡で冴えない中年男、片桐に大地震阻止という大きな使命が託されるのも馬鹿げていて可笑しい。
一方で、中にはどう解釈していいのか分からないエピソードもあり、このあたりは自分自身もう少し咀嚼が必要である。
例えば、小村と聴覚障害の少年のエピソード、小村と北海道で出会う女のエピソードは、何を言いたかったのかよく分からなかった。これらは会話劇主体の作りになっており、言葉の意味を探っていくと夫々に退屈はしないのだが、何とも捉えどころのないエピソードとなっている。
映像については、日本やディズニーの作品に比べると決してクオリティは高いとは言えない。特に美術背景はかなり雑な個所があり残念だった。ただ、キャラクターの動きは非常に生々しく奇妙な味わいが感じられる。後で調べて分かったが、一度実写で撮影してから、それをトレースして作画したということだ。ロトスコープのような手法と言えばいいだろうか。これが独特の味わいをもたらしている。
手っ取り早く村上春樹の世界観を知るにはちょうどいい
村上春樹の作品をほぼ読破しているけれど(翻訳本は除き)、彼の世界を表現するならアニメだよな〜、と常々思っていた。なぜなら人間でどうにかするには無理なシーンが多々あるから。(今作で言えばかえるくん)
この映画はその人間では対応しきれない部分まで見事に表現したアニメーション作品だと思う。
ストーリー自体はいくつかの村上春樹の短編を上手く繋ぎ合わせて、原作を忠実にアニメーション化している。
本来、異なる作品をつなぎ合わせれば違和感が残る所が出てくると思うけど、村上ワールドの力なのか作品者の構成力なのか違和感なくつなぎ合わされている。
フランス人が作ったものなので、日本の街並みや室内の描写で色々ツッコミどころはあるけれど、そこはご愛嬌かな。
タイトルにもある通り、本を読むのは骨が折れるけれど村上春樹ってどんな感じなの?って知りたい人には丁度いいかも。
村上春樹の作品を「翻案」して作成したというこの作品、フランスの風味と独特な雰囲気が感じられる作品に仕上がっています。一見の価値ありです。
村上春樹+フランス+アニメ作品。さて、どんな作品? と
作品紹介を読んでとても気になってしまいました。 ・_・
”すずめの戸締り”鑑賞後に教えて頂いた ” かえるくん ” も
登場するというので、ますます気になり鑑賞です。
というわけで、鑑賞してきた訳なのですが…
村上春樹の原作を少ししか知らないのに、この作品に関して
あれこれと書くのもおこがましいかなぁ…と、そんな気分にも
なって、レビュー書く筆がなかなか進みませんでした。はい。
ですが、そういう立場で鑑賞した者のレビューというのも、
それはそれで有りかな と思いなおしてupします。
鑑賞済みの人だったり、これから鑑賞する人だったり
何らかの参考(タシ?)になれば良いのですが…。 ・_・;
◇
原作となった短編小説が6作品あると、作品紹介文にありました。
それを、フランス人の監督が翻案してこの作品を作ったとの事。
翻案ということは、必ずしも原作通りには作ってませんよ との
事なのでしょう。
で、原作となった6作品は、以下の通りです。
どの作品が何の本に載っているかも調べたので、一応書いておきます。
…まあ、自分のためでもあります ・∇・ すぐ忘れるので…
※ここに書いた本以外にも掲載先はあるかと思います
6つの作品の中で、読んだことある作品は★をつけた3つです。
★「かえるくん、東京を救う」
(「神の子どもたちはみな踊る」新潮文庫)
「バースデイ・ガール」
(「バースデイ・ストーリーズ」中央公論)
★「かいつぶり」
(「カンガルー日和」 講談社文庫)
「ねじまき鳥と火曜日の女たち」
(「パン屋再襲撃」文春文庫)
★「UFOが釧路に降りる」
(「神の子どもたちはみな踊る」新潮文庫)
「めくらやなぎと、眠る女」
(「レキシントンの幽霊」文春文庫)
それぞれの短編を元にしたオムニバス形式のの作品であれば
読んだことの無い3作品が原案の分は理解できなくなるかな と
そんな心配をしていたのですが、杞憂でした。
杞憂というか、なんといいますか。
a「このストーリーはこの小説からだ」と分かる部分があって
b「その作品のその後の話は無かったハズ」と ”? ” な部分があって
c「全く知らない登場人物が登場した」となった部分もあって
aとbとcの各ストーリーが、分からないなりに「繋がる」感覚が
ずっと最後まで続いた感じがします。 なんか不思議な感覚。・-・
■「かえるくん」の原作では、かえるくんと共に闘った(ハズ)
の片桐の「その後」は描かれていません。(…よね? ←弱気)
その部分のストーリーが、監督の「翻案」の部分なのかと思って
いるのですが、ここだけの話、その膨らませた部分のおかげで
「納得感」が膨らんだストーリーになっていると感じました。
■「UFOが釧路に」も同様に、話が膨らんでいるようです。
小村の妻の話。原作では大地震(たぶん「阪神・淡路大震災」)
の後に様子が奇怪しくなり、実家に戻ってしまい離婚を切り出す
女性として登場します。
それがこの作品では、二十歳の頃のレストランで働くエピソード
が描かれます。これが原作には無いと思うのですが、その過去の
お話を追加して描いたことで、お話全体の奥行きも広がったよう
に感じます。
妻の過去の「願いごと」が何だったかは謎のまま終わりましたが、
それも含めてこの物語の世界が広がったような気がします。
※↑ 小村の妻の物語、私の未読の3作品の中に原案があったら
的外れです。その時はゴメンなさいです。
■「かいつぶり」は、どの部分がこの作品の原案に採用されている
のだろうと悩むくらい、ストーリーに関係無さそうに思えましたが
何か重要な部分を見落としていないだろうかと気になって仕方あり
ません。
◇
これは味読の3作品も読んでみないと、この作品の正しい感想は
書けないかも。そんなことを感じています。・_・;
※なので残り3作品の本も購入しました
で、この作品そのものが面白かったかどうか なのですが。独特の
キャラクターデザインとアニメーション演出もあって、飽きずに鑑賞
することができました。村上春樹の世界観のようなものを味わえた気
にはなっています。
観てどうだった? と訊かれれば
観て良かったですよ との回答になります。
◇あれこれ
■フランス風デザインのキャラクター
キャラクターのデザインはフランス風味なのに、お話の舞台が日本
であることに、終始微妙な違和感を感じながら鑑賞しました。・△・
けれど、見慣れた日本風のキャラクターが登場していたらそれも違
和感ありな気がします。
いっそのこと、舞台をフランスに移したらどうなるかな? なんてこ
とも考えてみたりしました。フランスに釧路はありませんが、北の
港町とでもすれば、それなりに辻褄は合うような気もします。
(いやいや、やはりダメかも)
■作品タイトル(原作含めて)
この作品のタイトル、というか原作のタイトルの先頭三文字。
差別用語に当たらないのか と心配したのですが、問題無しという
認識で問題ないのでしょうか。うーん。
それを調べる過程で、このタイトルの作品は「ノルウェイの森」と
深く関連しているらしいと知りました。これも未読です・∇・;;
原案となっている作品の残り3作品とノルウェイとを読んでから
この作品を観たら、また違った感想になるのでしょうか。
村上春樹は奥が深そうです。はい。
◇最後に
作品タイトルは「めくらやなぎと眠る女」な訳ですが゜ボスターに
登場している緑色の方、どうみても「かえる」です。
真の主役はぼくたちさ と、片桐とかえるさんが主張しているような
そんな気がしてきました。
あっ ” かえるくん ” です。 えへ
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
海外から見た日本観に共感できないパターン
ハリウッド映画でも何ちゃって日本が描かれるとゲンナリしてしまうのですが、
今回もフランスはじめいろいろな国の合作アニメーションで、
案の定ゲンナリしました。
まずもって絵柄が全員おっさんくさいキャラクターになっていて全然感情移入できず
話も入ってきづらいんですよね。
何となく新しいアプローチのアニメーションだなぁというのはわかるのですが、
それと内容とは別ですね。
話としてはファンタジー軸なんですよね。
小村とキョウコ、かえる🐸くんと片桐、基本この2本のストーリーなのですが、
いずれもファンタジーです。
かえるくんはマジでわかりづらいというか、ファンタジーと割り切らないと頭に入ってこないですし、
小村とキョウコも現代ファンタジーですから、割り切らないとよくわからないです。
キョウコが職場であるレストランのオーナーにどんな望みを言ったのか、結局わからなかったりしますしね。
村上春樹の原作は読んでおりませんが、
割と期待していただけに、ゲンナリ感がハンパなく大きかったです。
しかしながら、日本語版の俳優陣はすごく豪華なんですよね。
これだけでも観た甲斐はあったかなと思います。
非日常感強めの日常系
村上春樹氏の6本の短編小説を集約し、1本の映像作品に落とし込んだアニメ映画。原作者の作風をうまく現した作品だと思う。
日常系の作品のようにエピソードが次々と発生して消化されていくが、発生する出来事のインパクトが比較的大きいため、日常系とも非日常系とも取れるような微妙なバランスになっている。
元々は別の小説に登場する別の人物を同じ人物として描いているためか、ややキャラクター性に整合性が取れていないように感じる箇所もあった。
気持ちよい残尿感
村上春樹さんの短編6作をモチーフに、外国人監督が制作した野心的アニメーションです。嘗ては、映像化困難と言われて来た村上作品も『ハナレイ・ベイ』(2018)、『バーニング(納屋を焼く)』(2018)、『ドライブマイカー』(2021)等、短編を中心に映画化作が少しずつ増えて来ましたが、アニメ化は初めてです。
現実と薄皮一枚隔てた様などこか不思議な世界の説明不能な事物・人物。その一つ一つに意味がある様な無い様な、切ないような希望を抱けるような、でも一つ一つが妙に頭に残り、「あれは何なんだろう」と暫く考えてしまいます。そんな村上春樹ワールドの表現にはアニメこそがピッタリでした。そもそも、「かえるくん」なんて実写化出来る筈もありません。短編をモチーフにしたのも正解です。
観終えて、やはり何だかモヤモヤが頭に残り原作本を手にしてしまいました。今回は貴重な日本語字幕版で鑑賞。深田晃司さんが演出を務めた日本語吹き替え版もこりゃあ観なくちゃだな。
地震とカエル
海外制作による村上春樹の小説のアニメ映画化って事で、オリジナルの英語版か吹き替えの日本語版か迷った末、日本語版を観ました。
日本が舞台で登場人物も日本人、なのに日本人同士が英語で会話してるのって変でしょ(笑)
以前『アニマトリックス』を観た時に、日本人同士が英語で会話してて変だったんですよ(笑)
その違和感を覚えてて、違和感を感じずに観たかったので日本語版。
でも、リアル日本人からすると違和感を感じるとこが少しあって、
ニュースのテロップが英語で表示されてたり、新聞が英語で書かれてたり、アメリカの新聞配達のように新聞が投げて配達されたり(笑)
まあ、でも許容範囲(笑)
話の内容に関しては、けっこう難解で考察を要するけど、まあ面白い。
僕は、あまり理解できてなくて、もう1回観たい。
アニメだけど子供向けじゃなく大人向け、露骨な性的表現も有します。
原作も読んでみたくなった。
迷ってる方、オススメですよ。
全62件中、1~20件目を表示












