水平線のレビュー・感想・評価
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今年の日本映画のベストの一本となる傑作
名古屋での上映初日に観た。
激しく感動した。
福島県の港町、震災で妻を、そして母を失った父娘。彼らの悲しみが風化することはない。
漁師をやめて散骨業を営む父。
高齢者や生活困窮者を相手に散骨を請け負う父。
黙々と骨を砕く父。
成人し水産加工場で働く娘。
母の代わりに生き残ったという罪の意識に縛られる娘。
妻の、そして母の骨はなかった。
通り魔殺人事件の犯人の遺骨が持ち込まれたことにより大きな選択を迫られることに。
マスコミや遺族からのバッシング、娘からの懇願、風評被害を恐れる漁師たちからの圧力。
骨の行き場はなかった。
果たして犯人の骨をまくことで海がけがれるのか。
あり得ない行為なのか。
ラスト、父の選択が好きだった。
丁寧に骨を砕く父の姿に涙した。
涙が止まらなかった。
上映後、監督をされた小林且弥さんとジャーナリスト役の足立智充さんの舞台挨拶があった。瀧さんの話題がメチャ楽しかった。
そう、瀧さん、ホント素晴らしかった。
堂々の主演男優賞候補だ。
散骨対象者と土地の関係性によって議論にならずに終わりそう
2024.3.11(アップリンク京都)
2024年の日本映画(119分、G)
散骨業を営む男が訳あり遺骨に巻き込まれる様子を描いたヒューマンドラマ
監督は小林且弥
脚本は齋藤孝
物語の舞台は、福島県南相馬市
そこで散骨業を営む井口真吾(ピエール瀧)は、妻を震災で亡くしていたが、いまだに遺体は上がっていなかった
彼は娘の奈生(栗林藍希)と二人暮らしをしているが、その仲は犬猿に近いものだった
真吾の散骨は、地元の漁師・清一(渡辺哲)に船を出してもらっていたが、漁業組合の隼斗(清水優)からは「風評被害が出たらどう責任を取るのか!」と反対されていた
ある日、真吾の元に東京から松山(遊屋慎太郎)という男が兄の遺骨の散骨依頼に訪れた
埋葬許可証を忘れたために後日郵送するという約束で真吾は遺骨を預かることになったが、その遺骨は東京で連続殺人を起こした男のもので、それを嗅ぎつけたジャーナリストの江田(足立智充)は「多くの人がまだ眠っているこの海に殺人犯の遺骨を撒くのか?」と凄んでくる
さらに江田は、カメラマンの城島(高橋良輔)と被害者遺族の淺川(田中里衣)を連れてきて、「どうするのか?」の答えを引き出そうとするのである
この事態は奈生の耳にも入り、真吾に突っかかってくる
真吾は「関係ない」と突き放すものの、母が眠っている海への散骨には反対で、慎吾の「ただの骨だろう」という言葉に対して、「ゴミを捨てるような気持ちでやっていたの?」とブチ切れるのである
映画は、風評被害に苛まれてきた福島がさらにその対象になるのではと恐れる地元民との対立を描いていて、そんな中でも散骨を強行する慎吾を描いていく
江田の計らいで依頼者を見つけるものの、「弟が何かをしたのか?」という自問があり、突き返すことを辞めてしまう
そして、江田を巻いた挙句、深夜に船を借りて、沖合にて散骨を済ますのである
江田は「散骨したのか?」と詰め寄るものの、真吾は一切答えず、さらに被災者を代弁するという江田に一括する
真吾は「風化しても良い」と思っている人もいて、江田がやっていることは墓荒らしと同じだと断罪する
忘れたい人もいれば、忘れたくない人もいて、それは各個人の問題であり、部外者が立ち入って代弁をするなどもっての他であるというのである
映画は、ジャーナリズムの負の側面を強調し、再出発をしようと奮闘する人々をネタにする悪どさを描いていく
江田の行動は正義感に駆られているように見えても、実際には自分の食い扶持を稼ぐためのネタでしかなく、それは同業者からも蔑まれている
劇中で登場する被害者遺族も本物かはわからず、彼の性格を考えるとどこかの劇団員に金を積ませてやりそうな感じがして、彼女の論理も結構無茶な感じになっている
犯人が火葬された段階で、彼の血肉は空気中に放出されているわけで、海に散骨されたら「海を見るたびに思い出して苦しむ」というのなら、空を見るたび、空気を吸うために苦しむことになる
こんな遺族がいるのかはわからず、極形になって、刑まで執行された(劇中では犯人がどのように死んだかはわからないが)その先までも執着を持っているというのは余程のことだと思う
ここにリアリティのラインがあるように思えて、ジャーナリストを悪と断罪するなら、仕込みだったぐらいまで突っ込んでも良かったように思えた
いずれにせよ、ピエール瀧の復帰の主演作となっていて、少しばかりメタ構造があるのは事実だろう
あること無いことを書かれて、過去をほじくり返された経験もあると思うのだが、今回の場合は震災を取り扱っているので、さらに悪質なジャーナリズムのように感じられる
映画が震災から何年経っているのかなどは正確にはわからないが、放射能を測定する機械に対して「撤去するタイミングが分からなかったのだろう」と語られるように、相当の年月が経っているように思える
そんな中で、どのように情報を得たのか分からないジャーナリストがわざわざ代弁をするというのは意味不明な行動に見える
依頼者も兄の遺骨を真吾のところに持ち込んだ理由をもっと明確に伝えていれば良かったのだが、犯人と土地との関係性があるのか無いのかでもかなり印象が違ってくると思う
犯人の故郷が被災地であるなら理解もされるが、そこなら汚しても良いという感覚で持ち込んでいるならナンセンスとしか言いようがない
そのあたりがもう少し明確なら議論の余地はないのだが、本作では「議論にするためにわざとぼかしている」ところがあるので、それで良いのかは微妙かな、と感じた
弔いは誰のためにあるのか?
この映画の主人公は東日本大震災の津波で妻を亡くし、その遺体は見つかっていない。震災以前は漁師だったが、今は一人娘と一軒家で暮らしながら海に遺骨を撒く散骨業を営んでいる。
海洋散骨は10数年前と比べると随分と一般的になったと感じる。少子高齢化や格差拡大のせいで、お墓を維持するための費用や家族がない方も多く、主人公もそんな人達を主な客としているようだ。
人が亡くなると様々な儀式が行われる。通夜・葬儀・告別式・初七日・四十九日・納骨・新盆・一周忌etc。今ではすべてを行うことは少ないが、実に細かく決められている。
5,6年前、仙台から気仙沼までの海辺を旅行した。途中に寄った南三陸町では、造成工事されたまま雑草もない剝き出しの土が広がる横で、大型重機が河口の護岸工事を進めていた。
津波で家族を亡くした人は葬儀や法要も満足にはできなかっただろう。生活も立ち行かないなか、家族の遺体も見つからず、大切な思い出の品や場所がすべて流されてしまった人も沢山いたはずだ。
葬送儀礼ではよく、故人も喜んでいるという表現を使う。しかし、弔いとは残された者達のためにあり、彼らの人生に区切りをつけるためにある。それゆえ、少しづつ切り離すための儀式を行っていく必要があるのだ。
遺骨を返しに行くものの、除染作業を行う姿をみて引き返すシーンが印象に残った。松山も殺人犯の弟として辛い思いをしたのだろう。集う墓のない海へと遺骨を撒けば、いくらかは呪縛から逃れられる。
区切りをつけ自分の人生を生きる。思い出すことと囚われることは違う、それが目の前で為すべきことなのだ。
主人公曰く、亡くなった人は星になる。毎晩夜空に集まって楽しく過ごし、夜明けとともに水平線の先へ帰っていき次の夜を待つ。
静かに佇み作業をする主人公の顔は、窓から入る日差しに照らされている。
水平線とは、清濁併せ呑む海と星の棲む空が溶け合うところ。
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