「監督、脚本家、役者、それぞれがそれぞれを損ねない程度にやりたいことが全部出来ている、そんな作品 マジすげぇの一言」王国(あるいはその家について) Gingaさんの映画レビュー(感想・評価)
監督、脚本家、役者、それぞれがそれぞれを損ねない程度にやりたいことが全部出来ている、そんな作品 マジすげぇの一言
脚本に関して
包摂と排除の話
自分にとって重要な意味を持つ相手との関係性はときに人を惑わせる
アキが嫉妬したノドカとナオトの関係、たしかにアキの視点、映画の観客の視点からは破綻したかのようにも見える
(多分既に崩壊してたのに)アキが来たことによって崩壊したかのように見せるミスリード、(特に布を買いに行く車内からのナオトの激怒、東京に行ってしまってブチ切れたのかと中盤までずーっとミスリードされてたのにまさかのノドカの煙草!?)ファミレス、小川沿いの道での車内、アキに子どもを預ける
ノドカはお嬢様を演じてきたのか、???
子どもの無邪気さがアキを狂わせる
無邪気さはときに領域を破壊する
関係を拡張しようとするナオトの試み、野心は破綻を招く
嫉妬と後悔、あるいは認めたくなかった事実の正しさ
あるいは時間のようなものかも、
冒頭のアキの言葉
現代における基本的な刑罰である自由刑とは犯罪者から身体の自由を奪う
身体の自由を奪うことはつまるところ人間の活動を思想活動、思考に縛り付けることであり、裁きのもたらす償いとは経験の強制的な反芻であるということ
アキが裁きは済んだ、と発言したのは自らの中でそうした思考の反芻が無数に行われた、という意図の発言
繰り返し演技を振り返ることは役の内面化であり、それは思考の反芻なのだろう
監督に関して
役者が何度も繰り返し演技を繰り返すことを観客にさらされることは屈辱的なことであろう
役者はそうした恥を重ねる一方で監督は何の代償も負っていない様に一見してしまう。OKを出すのは監督であり、果たしてそれが脚本が描き出す最大値なのか、それは疑わしい。これが最大値なのだと、迷いを振り払う役割、それこそが監督に求められた負い目
もし役者からやっぱりこうじゃないと思う、とでも告げられればそれは一種の失敗だと言える。そういうシーンも欲しかったといえば欲しかった
しかし、なんといってもこの構想を思いついた時点で今回の大スターは監督であり全てを帳消しにする大功績でしょう
映画が文章と決定的に異なる点は制作側が思い描いたモノを観客とかなりの精度で共有できるという点である。小説が基本的に読者の経験に依拠するのに対して、映像を用いれば同じ絵を共有できる。解釈の余地を狭めることになるとしばしば批判の的にされるがそれは間違いなく映画が持つ強みであり、観客が体験したことのない情景を忠実に共有できるのである。この映画はそのメリットをしっかり理解していて観客と共有したい景色については映像のカットが差し込まれるのである。
青い橋、田舎の商店街を抜けてモールへと続く道、駅、庭。
素晴らしい、、、
役者に関して
何もないところに何かを生み出すこと、それをこんなに完璧にこなしてしまうの本当にすごい
同じ台詞をあんなに演じ分けられるのは、、、
そうした努力は完成品としては(シナリオとしての映画)は結実しないと知りながらあれだけ真摯に取り組めるのも本当に脱帽
一度見つけた正解を見失いつつもまたそこに戻って来る、そして、それ以上を見つける素晴らしさ
見ている観客的にはこれ正解じゃね?と思ったらその上があった
軽率な称賛を馬鹿にされた感じ笑笑
出直します
やはりプロはすごい
シナリオブック、買えば良かったかな。
いや、知らないほうが幸せなこともあるパターンだと信じて諦めよう
脚本に関して長々書きすぎたが、やはりなんといっても魅力は映画としての手法だろう。色んな映画をこれで再考してほしい笑笑