「タイトルも内容も意味不明、三島監督やけっぱち」一月の声に歓びを刻め クニオさんの映画レビュー(感想・評価)
タイトルも内容も意味不明、三島監督やけっぱち
3話のオムニバスだが、その順番からして何らかの意図があるでしょうが、まるで見えない。何やら強引に共通項をはめ込むような愚は避けたい。だから短編映画を3本観たと認識する。
白眉は北海道・洞爺湖畔での家族の有り様の第1話でしょう。母は亡くなり、妹も幼くして事故で命を落とした。残された父親は突然性転換し女になってもう随分と経つ。お正月だから久しぶりに実家に帰った姉一家のエピソード。相当に突飛な設定ですが、その内実のごくフツーな描写が圧巻なのである。
雪深い老婆の一人住まいに正月だからと娘一家がやって来る。いそいそと弾む気持ちでおせち料理を作る姿は、指先に塗った深紅のマニュキュアを除けばごくフツーの親の心情風景です。やがて娘の口から「お父さん」と呼ばれ、彼女がトランスジェンダーだと分かる仕掛け。この役をあのカルーセル麻紀が演ずるのが凄い。よくぞ彼女を引っ張り出し、極寒の雪の中を歩かせたもので、監督の強い意志が伝わってくる。
性同一性障害とは近頃言わなくなったけれど、心の性と体の性の不一致が不幸にして生まれながらに生じてしまう、多分一定の割合で起きてしまう事実である。いわゆるLGBТQの「Т」に該当する。カルーセル麻紀ご本人がそうであるように、成長とともに性の不一致が顕在化し、心の性に変えられる法整備以前から彼女は実践し、当時は大きなニュースになったものです。まさに変態でも見るかのような好奇にさらさらながら耐え、派手なパフォーマンスでしっぺ返しを食らわせる鋼のタフさでここまで来た。まさに本作に完璧と言うべきキャスティングです。ただ、本作の父親は多分、世間体に従い不一致を封印し結婚に踏み切り、子まで授かったものの、やはりで転換に踏み切った。単なる女装家とは全然異なり、今は完全に女性なのです。
それを娘一家がどう受け止めるか、その微妙な狭間で彼女自身の慟哭と心象風景が描かれる。帰り際に娘がサラリと言う「帰省も今年で最後にするわ」と。年老いた「父親」山荘のようなところでひとりぼっちでいいのか? 何も彼女は悪い事をしたわけでなく、瑕疵すらもないのに。明確にしなければならないのは、好きで心と体の性が別々にしたわけではサラサラなく、あくまでも先天的だと言う点。心ならず十字架を背負わされた苦悩の深さは底知れぬ。そこまで三島有紀子は理解しているのか少し不安になってくるが。
第2話の八丈島での父と娘の再会は、ああそうですかで終わってしまう、退屈なパートでした。
そして我儘ぶっきら棒な前田敦子の第3話大阪・堂島編は何故かモノクロで、しかも都会のど真ん中で展開される。この前田敦子は私のお気に入り女優で天性の女優感を内包する稀有な存在です。監督もその辺り百も承知のようで、かなり前田の自由にやらせているように見える。後半につれ不機嫌な理由が少しずつ明らかにされるが、それまでの傲慢な振る舞いが実に嫌らしい。そうやって観客を苛つかせる範疇としての芝居をこの女はごく自然に難なくやってしまう。
どうやら幼少期に変質者に性的被害にあった過去が傲慢な振る舞いの理由のようで、心の傷の深さは計り知れない。と、男である私は想像するだけで、女性の立場のコアなところは判らずじまいでしょう。流石に三島監督は判っているようで、金魚草を引きちぎる描写の激しさを以って納得するしかない、私は。ただ、男だから女だからの仕分け以上にジャニーズ問題によって明らかにされた通り、性差は本来なく、性的虐待そのものが問題だと言う事。それは弱きものが強者による虐待と同義であれば、ここでの主人公は弱きものとしてではなく、金で男を買った強きものを試みたわけで、しかし目論見通りには行かなかったのですね。
聞くところによると第3話は監督ご自身の実体験に基づくと、であれば本作を以って何かを変えられたのでしょうか? そんな余白の部分を観客は鑑賞後に思いめぐらせて頂ければ映画芸術としての存在価値はあったわけで。
第1話での夫役の宇野祥平の漠とした雰囲気、そこでのポジションを十分に分かっての空気感が素晴らしい。娘役の片岡礼子は近頃頻繁の登場で、ややこしい環境を自然体で乗り切りたいけれど・・って寂寥が上手い。また第3話でのガサツな母親役のとよた真帆の不干渉ぶりも画になってますね。
1章は、ぎこちない親子関係とあえてリズムを悪くした演出との連動が見事でした。
個人的には、マキはトランスジェンダーではないと考えています。
娘を自死に追いやった性加害者と同じ“男”であることに耐えられなくなったのかな、と。
あくまで一つの解釈ですので、悪しからず…