「脚本を見つめ続けるだけではね」一月の声に歓びを刻め imaxmaxさんの映画レビュー(感想・評価)
脚本を見つめ続けるだけではね
第一章 :過去に何が起きたのはわかるが、おせち料理を長時間かけて紹介するが、映画的には丁寧に世界観を表現しているというよりは単に間延びしているだけ。洞爺湖の舞台も厳しい大自然という意味でもなさそう。
第二章:八丈島と太鼓の関連は説明していたが、この映画で太鼓なんて耳が痛くなるだけ。音が大きくてうるさいだけでなく不快。娘の妊娠と手紙を知って鉄パイプ。この章の主演者の過去作から連想してしまうので、エッ!だよな。
第三章:この場面のみモノクロ。主人公(前田敦子)は役名「れいこ」。第一章のマキの亡くなった娘と同じ。でも年代が違うので同一人物ではなさそう。映画だから役名設定は自由。これで映画の関係性や統一感を持たせようとしているのか?
幼少期に起きた悲しい花の強烈な色の記憶を強調するためにこの章をモノクロにし、その部分だけを鮮明なパートカラーにして、強いトラウマを表現するのかと思ったが全く違ったね。
最終章:今までの繋がりが無かった各章が結び付くのか?
残り時間5分では無理だった。一章のマキは嘆くだけ。三章のれいこはネックレスを投げ捨て過去との決別ができたとでも言いたいのだろうか?
章立てにするのなら、各章の同一のテーマを提示するのか、各章の事柄を最終章でまとめなければ一つの映画とは言えない。単なるオムニバス映画。
映画のホームページには、『"ある事件"と"れいこ"を探す心の旅』を書いてある。
しかし、"ある事件"はぼんやり分かるだけ。どうやって心を探す旅に出られるの?
映画の色々なあの場面その場面それぞれの場面が有る理由が、私には分からない。無駄な場面の連続。120分の映画の内、三章をもっと長くしても(100分位)良かったと思った。
前田敦子の演技は良かったと思うので、それだけで「大きな加点」をしました。
1章の「間延び」は、親子関係のぎこちなさの表現かな、とも思ったのですが…
“状態”を深堀りしても“内容”が深まるとは限らないのですよね。
前田敦子の慟哭は素晴らしかっただけに、仰るように3章を膨らませてほしかった。
ほんとまとまりのない映画でしたね。3つの章を通して何が描きたかったのだろう?そんな単純な疑問に製作段階で物申す人はいなかったんでしょうか?
47年前の娘の不遇が重荷の父親とおせちに集う他の家族との関係。相手もよくわからない娘の彼氏と鉄パイプの関係。レンタル彼氏と一夜を共にしたあとの花をちぎりまくる行為。どこに共通した何かをみつければ良かったのでしょう?なぜ3つの章で同じ映画にしたのでしょう?一月の声とはいったい?
監督やプロデューサーの独りよがりの世界観で出来上がってしまい、有名人主導で売る映画。自分もなんだかな〜でした。日本映画界レベル低いですね。