劇場公開日 2024年2月9日

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「誰しもが持つつらい現実と立ち向かうための勇気の作品」一月の声に歓びを刻め 南波克行さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0誰しもが持つつらい現実と立ち向かうための勇気の作品

2024年1月13日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会

 オリジナル作品であれ、原作ものであれ、三島有紀子監督作品の舞台は、それが当人たちにとって、他に代えがたい生活空間となっている。
 『しあわせのパン』(12)の宿、『繕い断つ人』(15)の作業場、『ビブリア古書堂の事件手帖』(18)の古書店など、どれもがそうした場所だ。
 『幼な子われらに生まれ』(17)や『Red』(20)の家庭も、それに準じる空間と言えるかもしれない。だから懸命に守ろうとする。

 だからそこは、洗練を極めた、多くの場合すばらしく趣味のいい、そこに住む者の人間性も浮き彫りにするような空間で、三島監督はその空間の造形に、全力を注いでいるように感じることがある。
 そこは彼らが死守すべき「聖域」とも言える場所で、ある種の「繭」のようにも感じられる。そしてそのような場所を必要とする人たちは、必ず心の奥に深い闇をたたえていて、繭の中に閉ざされたその外壁に、小さな(ときに大きな)亀裂が入って、そこから闇がこぼれおちるとき、三島作品のドラマが発動する。

 それが全面展開したのが、コロナ禍で室内での生活を余儀なくされた人々の日常を見つめたドキュメンタリー『東京組曲2020』(23)だった。その意味でこの作品は、三島監督の狙いが凝縮された感があって、その室内空間からあふれんとする住人たちの情念を見つめる監督の、あたたかくも冷徹なまなざしが、恐ろしいほどだった。

 けれど、そうした映画内空間、いや映画製作そのものこそ、三島監督にとっての「繭」だったのかもしれない。
 新作『一月の声に歓びを刻め』(24)を見て、そう思わずにいられなかった。前作『東京組曲2020』が、その繭の外壁に入った”ひび”ならば、今作はその”ひび”からこぼれ落ちた、映画監督 三島有紀子の闇ではないかと。
 登場人物ひとりひとりの、目には見えないはずの心の奥を凝視し、見ている者を釘付けせずにはおかない、三島作品のすべては、今作を構成するためのパーツだったのかとさえ思ったほどだ。

 『一月の声に歓びを刻め』は自主資金で製作されたという。それも監督自身の体験した性暴力事件を直視することで生まれたとのことだ。それだけに、とてもデリケートな作品ともいえる。が、そこを強調しすぎると、どうしても作品外の事情に引っ張られてしまう。ただしそのことは、作品理解に欠かせぬ立脚点でもあるだろう。
 それだけに今作は、人の神経すなわち五感に、直接作用するかのように触れてくる。風や水、すべての生活音や、足音に至るまで聴覚を刺激し、画面に映るものは、視覚はもちろん、嗅覚、触覚、味覚すべてに働きかけてくる。

 3話からなる今作の第1章は、カルーセル麻紀の主演による。ここで登場する室内や調理されるおせち料理は、これも最高度に洗練されていて、どこか『しあわせのパン』の宿や料理に通じるものがある(実際どちらも伊丹十三『タンポポ』に参加したフードスタイリスト 石森いずみが関わっている)。けれどそこからどっとあふれ出す過去の闇。

 その闇を可能な限りポジティブなものに転換すべく、生命のエネルギーがほとばしる第二章。ここでは哀川翔が愛娘との関係性で、複雑な心情を描く。
 そして前田敦子主演による第三章は、作品中もっとも赤裸々に、成長してなお残る性被害の傷口を押し広げる。
 第三章の前田敦子だけは、自分だけの“繭“を作りそびれており、それだけに生身のまま、無防備に、丸腰で世界と向き合ってきた、そんな姿を描き出している。

 全話いずれも、監督と俳優陣がまともにぶつかり合って、心の奥底を引きずり出したような、フィクションでありながらノンフィクションのような手触りを持っている。
 映画は精神分析の道具でもなければ、まして治療の役には立たないと思う。けれど生きている限りはどうしても向き合わねばならない現実への抵抗力、一種のワクチンとしては機能すると信じている。
 『一月の声に歓びを刻め』は、人の心のもっとも痛々しい内面を描きながら、ちっとも見る者にストレスや後ろめたさを感じさせず、物語の力で“現実”を見つめる勇気を与えてくれる。
 ベートーヴェンが9つめの交響曲で刻んだような、まさに「歓びの歌」とも言える作品だった。

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南波克行