年少日記のレビュー・感想・評価
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スケープゴート
チェン先生は左利きなのに、子役は右利きでおかしいなと思っていたら、弟のほうだったのか。そういえば先生の人相も弟の方にそっくり。
「映画.com」の解説(映画を見てから読みました)には、
『「私はどうでもいい存在だ」という言葉は、少年時代のチェンが日記につづったものと同じだった。』
とあるが、これは映画の内容と違う。兄弟の姓は一緒だから、というのは苦しい。
オフィシャルサイトでは、このあたりを巧みに隠しています。
兄はこの一家のスケープゴート。
兄を共通のサンドバックにすることで纏まっているのがこの家庭だ。
一家に君臨するエリート弁護士で外面が良いDV男の父親が元凶。
責められたくない、殴られたくないので母親までが何かあると兄のせいにする。
学校に勝手に寄付をしたと殴られれば「子供が勝手に書いた用紙にサインしただけ」、あげくは「離婚されたらお前のせい」と大声をあげて兄を責める。
何かと兄の罪悪感を煽るのが、この母親の嫌らしいところ。「そんな危険なところに連れて行って弟に何かあったらどうするの」って、言われた兄は、二重に傷つきます。
自分一人のことなら耐えるが、自分がいることで周囲に災いをもたらし苦しめている、なのでこれ以上生きているわけにはいかない。
兄は追い詰められてそれ以外に道がなくなってしまった。
妻に出ていかれ、自慢の息子にも背かれ、今際の際に「あの子はいつも『ごめんなさい』と言っていた」と言って泣く父。ここで一家崩壊した自分の不幸を嘆くようだともやもやするが、自分の過ちを一生かけて悔いることになった自業自得ぶりで納得した。それでも愛人作ってそれなりに生きているんだから、穏やかに人生を終われない位の代償は払って当然でしょう。
兄の短い人生は、良いことなんか無いか、あってもすぐ取り上げられる、苦しいだけのものだったのだ。
そんな人生を送る為に生まれて来たとは。
弟も、兄を一家の一員と認めていなかった、見下していた自分を悔いている。
荒れて父に反抗しまくり、何事も優秀な天才少年だった自分を崩壊させる。
弟も結局、大人になったらただの人だった。
兄への罪悪感と自分の中にある非情さ、非道ぶりが恐ろしく、愛する妻との間に子供を作ることを躊躇する。トラウマのよう。
母はどう思っているか分からないが、夫の顔色を伺う生活と別れを告げる決心はした。
いやらしく罪悪感を煽る性格から、もしかしてすべて夫のせいと、自分も加害者だったことは頭から追い出して被害者ぶっているかもしれないなとも思う。実際夫のせいではあるけれど。
そして、兄がこの悲しい決断をしなかったら、一家は反省することもなく、延々兄を叩き続けただろう。
教師と生徒は友達になれる、というチェン先生の言葉に、当初はきれいごとを押しつけて越に入るウンザリ教師かと思ったが、実はそうありたい、と心から願っている人だったよう。
チェン先生を兄と思わせて実は、とか、きれいごと押し付け教師かと思わせて実は、とか、ほどほどにトリッキーな作りは上手い。
シンプルな話で、それぞれ因果応報なので収まりは悪くないが、兄がただただかわいそう。
自分などどうでも良い存在だ、と書いたのは、虐められていた彼じゃない子だったが、勇気を出して声を上げた彼をしっかり受け止めていそうなチェン先生、それが亡くなった兄への贖罪でもあるのだろう。
今の彼なら、よりを戻した妻とささやかに幸せを築いても良いのではないかと思った。
日本の先生はどうだろうか、生徒を思っていても教育以外の雑務に追われ、モンペ対策もあり、生徒の話を聞こうにも接し方でハラスメントと言われそう、特に女子生徒と2人話すのはリスクがある。
今の先生は大変です。なり手がないのも分かります。
ワン〇ースのパクリありありのマンガの名前が「パイレーツ」。
すばらしいネーミングセンスで、そこだけ笑いそうになった。
自らを名乗ってるじゃないの。偶然でしょうけど。海賊版。
多くは語れない気分
巧みな構成による兄弟の愛情の深さの表現
ハッと気付かされる展開が面白く徐々に引き込まれるストーリー
序盤は多かれ少なかれ現実としてあるだろう光景に心をギュッとされ辛く耐えがたい場面。躾という名の虐待に直面してきた過去がある教師が、悩みは違えど、もがき苦しんでいる生徒に対してどう接していくのか。映画の中の他人事と分かりつつ自分の子供と重ね合わせてしまい胸が熱くなった。
人は心の中を覗けるわけでははなく、過去を開示しているわけではないので、何を思って行動しているのか知るハズもない。
劇中では描かれてないが虐待をしていた父親もまた幼少期に虐待されて育った被害者かもしれない。
子供のことを愛していない親はいない。ただ競争社会において躾や教育が過度に加熱して本質を見失わせて結果不幸にさせてしまうことがある。悪循環のループにハマって後戻り出来なくなる前に、お前は大丈夫か!?本質を見失ってないか?と言うメッセージに聞こえた。
子供に対して、パートナーに、部下に、友人に、他人に対して一方的な主観から正義をぶつけて自分の都合が良い様に仕向ける。そしてそれを強い言葉や腕力でねじ伏せようとする稚拙で格好悪い大人にならない為のメッセージを思えた。
物語後半から点と点が繋がり最後にはホッこりとさせられたる終わり方で救われる良い映画でした。
違和感の答えを探して。
近代の悩み映画
切なくて優しい話、そういう事か、、
宣伝の内容はフェアではないと思います
とても悲しい映画。
でも淡々としていて、割りとありきたりなお話しなので、中盤で少し気絶してしまいました。
後半になると話が急転換して「へー、なるほどね」と一旦は感心はさせられるのだけれど、それでこの映画の面白さが大きく変わる訳ではなく。
映画の宣伝内容は意図的にミスリード。というよりも明確に嘘をついています。
配給の仕方としてフェアではなく、これはどうなんですかね、と思う。
製作者の意図が何処まで反映しているのかは知らないけれど。
結局、残念ですが、良くも悪くも印象に残るのはそのことだけ、という感じでした。
あの日の君を探して
重荷は一人で背負い込むよりもより多くの人と分かち合った方が楽になれる。
どのような境遇で生まれてくるかは誰も選べない。誰しもが自分の生まれながらの宿命を背負って生きていかなきゃあならない。
毒親の下で生まれてくるか、障害を持って生まれてくるか、こればかりはどうしようもない。
じゃあ、周りの人間がしてあげられることはなんだろうか。自分の生まれながらの境遇に苦しみ誰にも助けを求められない子供たち。自分で背負いきれないほどの重荷を背負わされた子供たちはいずれはその重荷に耐えられなくなって、自ら命を絶ってしまう。
それを防ぐにはその背負った重荷を少しでも軽くしてあげるしかないんだろう。重い荷物を少しでも軽くしてあげれば、共に重荷を背負ってあげれば少しは軽くなるだろうし、気持ちも楽になれるはずだ。そんな重荷をより多くの人が皆で分かち合って背負えばそのぶん世の中のみんなが楽に生きていけるだろう。
主人公のチェンは兄の意志を受け継いで教師になったものの、自分自身の子供の頃のつらい記憶に縛られていてなかなか生徒たちに心を開けないでいた。それは愛する妻に対しても同じだった。
ある日生徒が書いたと思われる遺書を見つけたことから彼はそれを書いた生徒を探し出そうとする。それは彼の悲しい記憶をたどる旅でもあった。その遺書に書かれていた同じ文言をかつて書いた人物を知っていたからだった。それは日記に書かれた文言だった。
「私はどうでもいい存在だ」それはこの世のすべてに絶望し、そして自分自身に絶望した人間から絞り出された文言だった。
あの時書かれた日記。あれから何年後かの今になり再び甦る記憶。日記をめくりその記憶をたどることは自分自身の忌まわしき過去と向き合うことだった。否が応でも自分自身の封印した過去、過去の自分自身と向き合うことだった。
遺書を見つけたのをきっかけに自分の人生の過去をたどりそこで甦ったのは彼の兄の存在。彼には一つ上の兄がいた。十二歳でこの世を去った兄。なぜそんな幼い子供が自ら命を絶たねばならなかったのか。
それは彼の家庭に原因があった。そしてチェン自身もその原因の一つだった。その事実に向き合いたくないがために記憶を封印したのだった。家族全員がその事実を記憶から消し去った。
しかしこの遺書によりいやがうえにも過去と対峙せざるを得なくなった。そして自分自身の人生とも。
あの時、兄の気持ちに寄り添えなかった自分、彼の気持ちを聞いてやれなかった、彼の重荷を共に背負ってあげられなかった。罪悪感に駆られて封印した思いが蘇る。チェン自身がそのつらい記憶が重荷となりそれを一人で背負いこんでいた。
自分自身がその重荷を人に預けることができないのにどうして苦しんでいる生徒たちの重荷を共に背負うことができるだろうか。
彼の悲しい記憶をたどることであの頃の兄と再会してチェンは気づけたのかもしれない。そして彼は愛する妻に自分の過去を告白する。彼はやっと自分一人で背負ってきた重荷を妻に預けることができた。
チェンは学級を終える生徒たちに自分の身の上を話す。今まで他人には話さなかった自分の生い立ちを。そして言う。つらいことがあれば話してほしい。重荷を共に背負って行こうと。
香港は日本以上の資本主義社会で子供たちは生まれた時から競争にさらされてるそうだ。幼稚園でも宿題が出るというくらい。
小学校は日本と同じ義務教育だが留年がある学校もあるという。未成年者の自殺率は高い。
先日亡くなったホセ・ムヒカ氏が残した日本の子供たちへのメッセージが思い出された。「子供たちよ、君たちは今人生で一番幸せな時間にいる。経済的価値のある人材になるための勉強ばかりをして早く大人になろうと急がないで。遊んで、遊んで、子供でいる幸せを味わっておくれ。子供たちよ、精一杯遊びなさい。」
チェンの父親が子供の頃にこう言ってくれる大人たちがいたなら、こんな悲しいことは起きなかっただろうに。
本作はまったく前情報を入れずに鑑賞したので後半に思いもよらぬ仕掛けがなされていて驚かされた。
ストーリーテリング力は大したもんだと思う。その展開を見せられて劇場は鼻をすする音の大合唱になっていた。
ただ扱っている題材が題材なだけに素直に上手いとは言い切れない自分がいた。確かに見せ方はうまい、でも感心していいもんだろうかという気持ちが自分の中にあり周りの観客よりかは冷静だった。なんせ子供の自殺を扱う作品でうまい話だとは言いづらいものがある。でもいい作品なのは間違いない。映像、音楽共に素晴らしかった。
あまり注目されておらず行きつけの劇場もロングランにはなりそうもない。宣伝へたくそなのかな。多くの人に見てもらいたい作品。
「ルフィ」になれなかった「まことちゃん」😭
兄弟間差別、教育虐待が描かれるのだが、成長した教師が兄のほうなのか、弟なのか、中盤まで迷った。顔(目)からは絶対弟だとは思ったけれど。残された日記自体がアンネの日記よろしく、イマジナリーフレンドに語りかけるようでもあり、漫画パイレーツ(もろにワンピース)に想いを馳せ、現実逃避するシーンが映るたびに、ワンピース、ゲームボーイ世代ではなく、ガキデカ世代のわたしは楳図先生の「まことちゃん」を思い出していた。
兄弟差別の元凶は母親だと思った。
そして、終盤にそれがわかる。
病床で焼売で詫びる父親の気持ちもわかるお年頃になってしまった。
それにしても、あのオヤジ役、いろいろヒドい。
中国は長く【ひとりっ子政策】だったので、彼らの置かれた家庭環境は一人の子供の分裂したキャラクターとも受け止められる。
「まことちゃん」は幼くして葬られてしまった主人公のもうひとつの分身なのかも。
苦しくてしかたがない。
のだが、尾田栄一郎を勝手に殺さないでもらいたい💢
パクリ大国チャイナの悪い面が出てた。
それがなけりゃ☆5あげてもいい😎
実はオイラもピアノ教室に1日だけ行ったことがある。その当時は、ピアノよりも泥団子作りのほうが楽しかったので、全く集中できず、匙を投げられた。
だから、なおさら、まことちゃんに贔屓してしまうのだ😭
ピアノの女の先生はマリア様だった。
同級生の妹の女優さんは石野陽子似できれいだった。
最後は命の電話。
ますます、学校の先生にはプレッシャーがかかる映画でもあった。
主演のロー・ジャンイップ(盧鎮業)さん、群馬県知事になった山本一太さん似。
まさかの、そっち目線だったのね〜涙活女子集合!
恵比寿や武蔵野館でやってそうなコレ系は苦手なジャンル。塾のバイトしてるので、参考になるかと行きました。思ったより重めだった。
口コミで、親の体罰云々あったからどんなに酷いのかと思いきや大した事ない。
不出来な兄を軸に描かれる前半で、子役似てなって思いきや、出来の良い弟が、亡き兄の意思をついで教師になるも亡き兄の影を追い求めメンヘラ気味になるって話。。。
教師が弟と分かってからの伏線回収は、なかなか良いし、折檻してた父も病床で亡き兄を思ってたって良い話、、、ではなーく、父にも秘書愛人がいたり、母は出てくし身勝手な大人に振り回される兄弟。自殺の直前、弟に助けを求めるが弟は睡魔に勝てずあしらってずっとトラウマ。
結局、ゴミ箱の自殺手紙は、まんまいじめられメンズだったというドンデン返しもないし、担任外れる頃に電話かいて、相談してねーっていうオチも泣くほどではなかった。仕事に疲れた女子の涙活ムービーだった。ピアノのダメ女子大先生が1番良い先生だったという所は良かったー。愛を知らない先生だからこそ、もっと愛を紡いで欲しかったなあー。エンドロールの曲の歌詞がうまくリンクしてよかったけど、淡々とハッピーエンドなの?な終わり方で重め。デートムービーではなかった!!
勘違い?してたから余計に泣けた
現在の学校の教師としての自分と子供時代の自分とを交錯させながら進んでいきます。
壮絶な子供時代の境遇が、いかに人生において大きな影響を与えていくのか。
優秀な弟と不出来な兄。親や周りの大人が兄に対して厳しく、一緒に暮らしているものの拠り所はなかったんだなあとなんとも辛い。「避難場所」となっていた漫画の作者が自殺をするというこれまたなんとも辛い内容。死、とりわけ自殺というのがポイントとなるこの映画。香港でも自殺というのは社会問題なんですね。
一つ、私自身が勘違い?していたからか、余計に涙が出てきてしまいました。そっちだったのか〜。これは監督の狙いだったのか。他の方もレビューに書いていたのでそういうことなのかと思いました。だからこそ余計に涙が出てしまいました。
弟の進んだ道は、まだ人生途中ですが間違っていない。幼少時代に、兄に対しては見下してるようなところはあったのですが大人になってからの生き様でそうでもなかったんだよと示してくれてる気がします。
チェン先生が、ずっと星野源に見えてました。
「最大の悲劇は善意の人の沈黙と無関心」(マーティン・ルーサー・キング)
高校教師のチェンの勤務校のゴミ箱から生徒が自殺をほのめかす文章がみつかる。その中に「私はどうでもいい存在だ」という言葉を見つけがく然とする。それが長いこと封印していた幼少期の日記(年少日記)に記していた言葉とまったく同じだったことにショックを受ける…という場面から物語は始まり、子ども時代の体験やトラウマを引きづりながら成長する過程などがフラッシュバックとして描かれていく。
監督のインタビューによれば、香港の学生の自殺問題をきっかけに本作を撮ろうと思ったそうで、学業や家族、社会からのプレッシャーに直面する子どもたちへの理解を促進したいとのことだ。
この問題は当然ながら対岸の火事ではなく、2024年度の小中高生の自殺数は、厚生労働省の統計によれば、前年度比で16人多い529人で、1980年に統計を取り始めて以来最大数になっているとのこと。その原因のトップ3は「学校問題」「健康問題」「家庭問題」で、本作での課題とも重なる部分は大きい。
エンドロールの Special Thanks にいろいろな学校や先生たちの名前が多数列挙されていることから、かなり多くの取材を丁寧に重ねてから作ったのだろうことがうかがい知れる。
日本では少子化に伴い、かつての「受験戦争」と言われていた時代よりは競争が緩和されているのかも知れないが、逆に一人の子どもに対する親の期待とプレッシャーは従来とは比べ物にならないはず。そこに誰がどのように寄り添えるのか、それこそが子どもたちを救う唯一の道かも知れない。
そのように考えると、「負の連鎖」を生まないためにも、子育てをしている人や、教育関係者・子どもと関わる仕事をしている人は観ておくべき作品だと言えるだろう。
なお、兄弟間の出来・不出来の差が父親の愛情の示し方の違いになって表れる物語は古くは聖書の「カインとアベル」の逸話にまで遡れるし、それを基にした(映画化もされた)スタインベックの『エデンの東』も当然そうだ。これも世界中で普遍的な課題なのであろう。
事前に「泣ける話」だという評判を聞いていたのだが、いろいろな意味で胸に刺さり過ぎて、自分には「泣く」という感情が逆に生じてこなかった。(ハンカチ持っていったのに…)
余談だが、広東語の「はい(yes)」は「はい(漢字で書くと「係」)」って言うんだ!というのが今回一番驚いた発見。笑
傍観の否定
世界中の子供達を優しく抱きしめる作品、と同時に昔子供だった世界中の大人達を許し癒してくれる作品でした。
本作は親から虐待され続けた兄の視点、そして親から虐待される兄を傍観し続けてきた弟チェンの視点、このふたつの視点が前半・後半とに分けて語られていくので、両者の気持ちに入りこみやすかったです。単純ではないストーリー構成が巧みでした。
チェンが「僕は優秀だったから、優秀でなかった兄を無視し続けた。でも、僕は結局、優秀でも何でもない普通の人になった。」みたいなことを語っていましたが、これほど現在社会の本質を語るセリフはないと思います。賢い人間ぶって暴力を傍観することの罪深さですよね。胸に残りました。
チェンは、彼のその後の人生も変えてしまうほどに、家族の中で傍観者でい続けたことに対して傷つき悔いています。
しかしこれは家族間の話だけではなく、社会全体の話なのではないかと、途中から気付かされた私がいました。私も今の社会に存在するあらゆる暴力に対して傍観者でいるのではないだろうかと。改めなくてはいけないなと。
だから、チェンが生徒と友達になり彼らの話しを受け入れるラストシーンには、人として見習うべきところがたくさんあって優しく柔らかな気持ちになりました。
チェンからは、恐らくチェンの父親も親から受けていたであろう暴力の連鎖を、チェンの所で止めよう、傍観するのは止めようという強い意志を感じられました。それは、世界中のあらゆる暴力への否定、傍観への否定にも感じられます。全ての人達に観て欲しい作品です。
重すぎた。そして良かった。 時代、環境、家庭。 多分これがピンとこ...
生涯ベスト級、父と息子・兄弟の話、驚きの展開
涙が止まらなかった。劇場内の周りも同じ様子だった。
自分も映画と同じ、兄弟の兄で父とうまくいかない時期があったので、とても心に響いた。
中盤に驚きの展開があったのが、この映画を生涯ベスト級に引き揚げた要因。
加油!
子供の心の壊し方
一人の少年の日記を通して、親の体罰によって、人生に前向きだったはずの心が少しずつ壊れていく衝撃的な物語。
Yahoo!ニュースで教師による体罰のニュースが出ると、コメント欄には教師を擁護し、体罰を肯定する意見が少なくない。
そうした人々がよく口にするのは、「自分も体罰を受けて育ち、それが成長につながった」というもの。
この映画に出てくる浅野忠信似の父親も同じようなことを言っていた。
彼らはこの映画を観ても、同じ意見のままなのだろうか。
もし体罰で成長する人間がいるとしても、その陰で命を絶つ人間がいても許されるというのだろうか。
人は誰しも得意不得意がある。
親の役目は、子供の得意なことを見つけ、学ばせ、伸ばし、社会で活躍させることだと思う。
しかし、世の中には、自分の理想を子供に押し付け、うまくいかなければ子供を責め、結果として生きることに絶望を感じさせてしまう親も少なくない。
この映画の兄弟がまさにそうだが、向いている子は体罰がなくても結果を出すし、向いていない子供は、いくら体罰を与えても結果を出すのは難しい。
体罰を振るう大人は、子供が思い通りにならないことにイライラし、その感情をぶつけているようにしか見えない。
それを「子供の成長のため」と言うのは、あまりにも卑劣だと感じる。
確かに、努力を怠り、結果を出せていない子供も多くいる。
そういう場合、勉強するようになれば飛躍的に結果を出すことも珍しくない。
『ビリギャル』の主人公がその典型。
しかし、この映画の主人公は違う。
次のテストで良い点を取ればどんな望みも叶えると言われ、彼は今までの人生で最も勉強したはず。
それであの結果だった。
この時点で、親であれば別の道を考えるべきだった。
子供をさらに傷つけ、結果を出させようとするのは、人間としてあるまじき行為ではないだろうか。
物語の途中に出てくる若い女性のピアノ教師は、性別や年齢は違えど、普段の自分を見ているようだった。
自分も人に物を教えるときは、あのような感じなので。
だからこそ、子供に結果を出させてあげられない彼女の苦しみが痛いほどよく分かる気がした。
葬儀場での彼女の姿を見て、涙が止まらなかった。
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