「「作って提供する人々」の日々は、明確な言葉のやり取りでできていた。」至福のレストラン 三つ星トロワグロ chappieさんの映画レビュー(感想・評価)
「作って提供する人々」の日々は、明確な言葉のやり取りでできていた。
公式サイトの動画で料理人三國清三氏が言う。
「探求しつづけなければオリジナリティは出せない。それを50年続けられるか。三つ星を守るのはそれしかない。彼らはそれを飽きずに、毎日ちょこちょこちょこちょこやっているのです」
「料理人や、ソムリエや、サービスマンが、何のために仕事をしているのかがよくわかる」
その言葉通り、このドキュメンタリーはひたすら仕事場での彼ら彼女らとその言葉を撮り続ける。インタビューはほとんど(ひょっとすると、まったく)ない。微妙な表情の変化を追うアップもほとんど(あるいは、まったく)ない。見えたもの、言葉にされたことだけが、つながれている。
映画の中の言葉は、冒頭と最後のタイトル以外は、すべて仕事仲間に向けられたものか、レストランやオーベルジュのゲストに向けられたものか、どこかに書かれているものだ。それらの言葉は、意味がはっきりとしていて率直だ。
「私はそんなに辛くないと思います、気になりません」
「いや、この量をすべて食べると口の中に熱さが残る。それ以外は問題ない」
「料理は映画じゃない現実なんだ、と教わったのです」
「ラルースとエスコフィエ。知りたいことはこの2冊にぜんぶ書いてある」
「昨日、厨房で暴言があった。職場を監視するつもりはない。しかし、仲間は守らなければならない」
「まだ若いときに日本に行って日本料理を体験できたのは幸運だった。帰ってから何度もつくってみた」
何かを作り、提供する側にいる人であれば、思い当たる場面の連続ではないかと思う。
経営、シェフ、料理人、サービス、ソムリエ、チーズ担当、予約管理、生産者、常連客、団体客、一見客。登場人物は多いが、説明書き無しに彼らの役割が分かるようにつながれているのは見事。
それらの言葉が事務机の並んだオフィスではなく、フランスの美しい田園地帯の中のガラス張りのレストランの中で、色鮮やかな食材と美しく盛られた料理とワインとチーズの映像にオーバーラップするので、心地よいのは当たり前だ。
休憩を挟んでの4時間は長いけれど、眠くなる瞬間も寝落ちる時間もあるけれど、それもまた心地よく、「至福」であった。