「私が私であるための」TATAMI kazuさんの映画レビュー(感想・評価)
私が私であるための
写されてはいるが、描かれていないものがある。それは、この女が、何故戦い抜くかの理由だ。
夫と子供、両親を危険に晒し、信頼を寄せていた監督にも見放され糾弾される。そんな境遇に突如として陥ってなお、闘おうたするのは何故か、その根底にあるだろうことが語られていない。
語られず、闘い挑み続ける姿のみが写されることによって、この「何故か」の問が、より私達に迫ってくる。
国を追われ、最愛のものたちを危険に晒し、試合に臨むことを監督は「意地っ張り」と称した。そうだと思う。そして、その意地はあまり役に立ちそうもないエゴに思える。
たかだかスポーツ。決まったルールの中で、安全な小さなスペースで、ちょこまか投げ飛ばす、ただそれだけのことじゃないか。
だが、自らが、自らを保つためには、その「たかが」の中で闘わねばならなかったのだろう。自分との鬩ぎ合いは、たかが、というものすごく小さな領域で展開され、その小さな領域は国家や宗教を凌駕することもある。
最後の試合で、髪を覆うマスクを脱ぎ捨てて、髪をあらわにして結うシーンがある。
これが、私だ。国家でもなく、妻でもなく、宗教上のオンナでもない、という表れ。ケン・ローチの私はダニエルブレイクと重なるシーンだった。
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