「あの世とこの世の狭間に・・・」わたくしどもは。 mark108helloさんの映画レビュー(感想・評価)
あの世とこの世の狭間に・・・
ロベール・ブレッソンの映像表現手法に強い影響を受けていると一部のマニアの間で評判に・・・急速に上映館数が減っている中、新宿にホテル取っての鑑賞なれど、近場に車停めれる駐車場が見当たらず30分遅れで入館したため、夕方の上映を待ってのナントほぼ2度観😅(朝早くと夕方の2回上映)
この作品、お薦めできるかとかなり微妙ではありますが、ある種の能のような趣のある作品でした。この作品が49日をテーマとしている事、また現世と来世の狭間の時空を佐渡の金山や清水寺(せいすいじ)の雰囲気、特に後者の持つ圧倒的な異空間さに重ねての表現。そしてこれこそがブレッソン的と言われる点であると思うが、役者による感情を押し殺した非演技的表現、ブレッソンは演技を否定するために一般人を使い静止画の挿入の様なカットを随所に盛り込むあたり、確かにとても雰囲気を感じる事が出来た。この作品、出演者の豪華さに驚かされるが、ブレッソンと逆で演技を否定した演技を求めてそれに応えられる俳優陣で占めたとみるべきであろう。一瞬の静止画風のカットの挿入時には見ている側の思考の連続性を遮断し、一瞬気が飛びそうになる・・・というよりはカットから勝手に想像された別の次元に思考が先走って、別の物語が動き出そうとすることを強制的に引き戻しにかかる映画と言って良い。変な言い方かもしれないが寝る事を許さない拷問に曝された感じで最後まで引きずられる。つまりこの監督は物語の主導権・・物語ではないな・・映像を進行させる主導権を一切観客に委ねないと言うか、極めて作家主導の映画作品になっており、観客の期待する通りに展開するカタルシスありきの作品否定と言っても良い。その姿勢はこの空間に迷い込んだすべての者たちが勝手に出たり入ったり、勝手に思考したり認識したりすることを許されない審判の49日間だからである。ある友人がこの映画は色彩がしっかりあるのにモノクロ映画の様であったと評した。その原因はワンカットにワンカラーで撮っているからである。一画面に原則補色を配さぬ事で景色化を否定し、異空間感を際立たせている。それは登場人物たちの名前にも反映されている。生前は色相や濃淡、奥行きなどの色の持つ特性と同じように、人の持つそれぞれの人生の多様性があったと思われるが、この映画作品の中では単なるひとつの相しか持たぬ単一色と化している。それはそれぞれの人生の色相を一つのフラットな面に単純化され7つの段階を経て49日間の審判を受け、次の転生先へと振り分けられる様と重なる。佐渡は死ぬほど行ったし恐ろしく目の前に広がる風景に毎回この世のものかと思われる風景が点在する地域ではあるという認識を毎回味わったが、その中でも朽ちようとも朽ち切れぬ様々な風景の中にあって清水寺(せいすいじ)群を抜いているスポットである。ここに立ったものがどれほどいるか知らないが、こんな空間がほぼ放置のように佇んでいるんである。京都の清水寺が明確な現世であれば「せいすいじ」は明らかに黄泉の国であるのである、佐渡という空間は。この空間を経験した事のあるものとないものではどれほどの評価の違いが本作品に下されるかは定かではないが、そのイメージはダンテの神曲やトーマス・マンの魔の山の様なイメージでありながら何処かヨーロッパのそれとは異なり心なしかぬくもりと優しさ、そして懐かしさに包まれているように感じたのは僕だけだろうか?
無宿人と言われた、存在した痕跡さえ残すことを許されなかった存在者がいたにもかかわらず、アオやキィや黒など・・一色ずつの固有ではない名称でよばれているのが「黒」の存在で光の三色ではなく、色の三原色であることを示し、同時にそれは透過することなく光を吸収する存在、即ち固有の名称は与えられなかったが明らかに存在した者として登場している事が分かる。それにしてもこの映画における「せいすいじ」の存在は大きい。時に自分はこの場所を直に訪れてこの雰囲気を直に体験しているからこそ、この映画の存在と崩壊、転生と贖罪の価値観を一瞬にしてその画像と共に同化する事が出来た。佐渡には、え~何この場所って言う場所が実にたくさんあって放置されている・・。その放置され具合が半端なく突き放されているのだ。ちょっと観光で行きましたでは語り尽くせない重みと複雑さは日本全国でもそうないのではないか?同じ朽ち果てた廃墟として有名な軍艦島とは全く異質なものである。この島には記録に残る政治犯(公家天皇を含む)と流人・無宿人など存在自体が記録の対象外だった者たち、そしてこの地で古くから漁をして暮らす先住民の末裔がザックリそれぞれのコロニーを持って暮らして出来たと分かるような地域に分化されている。それは外来者から見ても分からないようになっている。まさに小京都。誰も本音を語らぬ恐ろしい空間なのである。小さな空間で全く出自の違う者たちがせめぎ合って暮らす佐渡という島はその内に秘めたるマグマとは異なり、表面的には極めてそれぞれがひっそりと暮らす土地である。それゆえトランスジェンダーや先進的な音楽的ムーブメントには寛容な土地のはずであった。が、その反面とんでもなく保守的な空気が支配しているのも事実である。この日本でもかなりユニークな異空間を本物の異空間に見立てたこの発見は大きいだろう。