劇場公開日 2024年4月12日

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「線の躍動」リンダはチキンがたべたい! 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0線の躍動

2025年4月1日
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この映画について幾人かの知人と話をしたことがあるのだが、毀誉褒貶はさておいて印象的だったのは、誰も彼もが本作を「自分の肌に合うかどうか」という水準でジャッジしていたことだった。換言すれば、主人公リンダと周囲の人物たちに感情移入できるかどうかが本作の評価を分けるキモである、ということだ。これはなぜだろうか?

『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』「第4章 棒人間と複数の世界」という批評本の中では、アニメーションの独我論性についての議論がなされる。乱暴に要約すると、制作プロセスの中に他者(演者、街並み、自然物など)という偶然性の介入余地のある実写映画と比べて、すべてが制作者の意図の下で織り上げられるアニメーション映画は独我論的だ、というものだ。

アニメーション映画=独我論という否定的テーゼに対し、アニメーション批評家の土居伸彰はアニメーション作家ユーリー・ノルシュテインの言を引きながら以下のように述べる。

「『話の話』の中に「永遠」というエピソードがあって、海辺で夕日が世界すべてを輝かせるなかで、すごく平和な暮らしが描かれる。漁師のお父さんがいて、赤ん坊をあやすお母さんがいて、遊んでいる娘がいて、それとなぜか縄跳びをしている牛がいる、というシーンです。(中略)このシーンのそのベースになっているのは、ノルシュテイン自身が世界との調和を感じた瞬間なんです。で、ノルシュテインはさらにこう言っている。そのときに自分自身が感じた調和というのは、もし隣に他の誰かがいて自分と同じ風景を見たとしても、その人にとっては調和とは感じられないものである。アニメーションとは、そういう個人的に抱かれた(個人的にしか抱かれえない)調和の世界を作るものだ、と言うんですね」

「アニメーションは独我論的だ」という言い方をポジティブに敷衍するなら、それは「アニメーションはパーソナルな調和のある世界を描くものだ」となる。これは特に、宮崎駿流の「リアリズム」を志向し続ける日本のアニメーションではなく、単純で可塑的な線の構成によって成り立つ海外の(特にアート系の)アニメーションにおいて顕著だ。

アニメーションの自由自在な線の躍動は、光学的に捉えることが不可能な個々人の内的世界を描き出すことができる。

アレ・アブレウ『父を探して』や渡辺歩『海獣の子供』では、物語の途中から背景やオブジェクトといった舞台装置が消失し、ひたすら線がグニャグニャと弛み、交わり、弾ける観念表現が展開される。それによって、カメラの映像という光学的事実の中には決して写り込むことのない、登場人物の内的世界がダイナミックに描出される。

アニメーションの独我論性とは、換言すればアニメーションである意味そのものなのだ。

さて本作に戻ろう。本作をめぐる評価に関して、「肌に合った/合わなかった」といった言い方が頻繁になされるのはなぜか。今や答えは簡単だ。アニメーションはパーソナルな調和のある世界を描くものであるから、である。受け手が登場人物の内的世界に調和することができれば「肌に合った」という所感が、逆に拒絶感を覚えれば「肌に合わない」という所感がそれぞれ出力されるだろう、ということ。

本作は主人公リンダがチキンを食べるまでの騒動を描いたコメディであるが、随所に『父を探して』『海獣の子供』で展開されたような内的世界が描き出される。たとえば終盤、チキンを調理するくだりでは、真っ暗な画面の上でリンダの過去と現在が縦横無尽に錯綜し、父親の喪失という本作の主題に決着をつける。

しかし本作が特異なのは、内的世界の縦横無尽さが内的世界と対置されるはずの現実世界にも波及しているという点だ。現実世界における登場人物たちの行動は常に衝動的で、現実倫理に照応させてみれば非常に問題がある。鶏を盗んだり、警官から銃を奪おうとしたり、積荷のスイカを勝手に食べたり。線の自在さはいつしか紙の上を離陸し、登場人物たちの行動原理までをも自由にしてしまう。

思うに、ここが本作の「肌に合う/合わない」の最も明確な分水嶺なのだろう。アニメーション表現がどうだのと御託を並べたところで、そこに一貫性のある物語がなければ大半の人間は作品に見向きもしない(だからこそ線の躍動は内的世界の描写に局限されているともいえる)。

しかし本作は、物語的一貫性(とそれを支える一貫的な登場人物)を放棄してまで全面的な自由を称揚する。それは結果的に物語の破綻や倫理の無視といった結果を招いているものの、私はそれを上回って画面内に漲る底抜けの自由さのほうを支持したい。

ただ、だからこそ、その底抜けの自由さをストライキという政治性と安易に接続している点に関しては蟠りが残った。せっかく映像が手に入れかけていた無上の自由を素朴な政治問題によって文脈化してしまうのは悪手なんじゃないかと思う。ストライキなどわざわざ仄めかさずとも本作が反体制の映画であることは自明なのだから。

因果
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