リンダはチキンがたべたい!のレビュー・感想・評価
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多幸感にあふれたコメディ
セバスチャン・ローデンバック監督は、前作『手をなくした少女』を1人で制作した時、線の数を減らしたデザインを編み出し、素晴らしい効果を上げた。今回はプロダクションによる制作だが、前作のスタイルを踏襲してさらに魅力的な作品を作ってきた。一枚いちまいの絵の輪郭線は不完全だが、動かしていけばきちんとキャラクターの輪郭が浮かびあがる。その揺れ動く線自体がとても魅力的。
物語は、亡き父親の得意料理だったパプリカチキンを食べたい少女のために、母親がチキンを探して奮闘するというシンプルなもの。コメディタッチで母娘の小さな冒険と騒動を温かく描いていて、多幸感に溢れた内容だ。デザインと作風が抜群にマッチしていて、この物語にはこのスタイルが最も良かったと思わせる。今年のアニメーション映画を代表する一本だと思う。
吹替版も完成度が高い。安藤サクラが母親を演じることで、この母親のハチャメチャぶりがことさらに強調されるようになった。
絵も登場人物の、気ままでわがままなのがいい。
『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』で省エネ手法とセンスを駆使し、たったひとりで長編アニメを作り上げるというコロンブスの卵を成し遂げたセバスチャン・ローデンバックが、妻で映画監督のキアラ・マルタと共同で監督と脚本を手がけ、『大人のためのグリム童話』の手法を集団作業に拡張して作りあげた創意工夫にあふれるアニメ。
絵の面白さだけでも素晴らしいが、大人も子どももどっか倫理のネジが吹っ飛んでいて、それでいて雑なまま下町(団地)の営みが成立してしまう世界観がとても好み。創作も人生も生活も、これくらい好き放題で気ままでいい、とテーマに掲げているわけではないが、そのイビツだけど風通しのいい人生感みたいなものがアニメーションの線の少ない隙間から風のように吹き抜ける感じがする。
キアラ・マルタは日本未公開だけどハル・ハートリーの『シンプルメン』に触発された『シンプルウイミン』という映画をエリナ・レーヴェンソン主演(本人役!)で撮っていて、ローデンバックは『大人のためのグリム童話』の女神役にエリナ・レーヴェンソンを起用したというハル・ハートリーとのつながりがあり、確かにハル・ハートリーのちょい斜めのヒューマニズムとちょっと通じるところある。
抽象的なタッチから生まれるリアルな感情と素っ頓狂なおかしみ
これはゼロからイチを生み出すタイプのアニメーション作品だ。絵のタッチは革命的なほど抽象的で、登場するキャラクターや背景なども単色で塗りつぶされていたりする。なのにどういうわけか、巻き起こるシュールで素っ頓狂なドタバタや心と心のすれ違いが痛いほど切実に、時としておかしく、リアルに伝わってくるのだから不思議なものだ。核となるのはリンダの「チキンがたべたい」という純粋で一途な思いと、無くなった指輪を娘が勝手に持ち出したものと一方的に決めつけてしまった母の申し訳ない気持ち。それらを巡って警察を巻き込んだデッドヒートが繰り広げられ、かと思えば、街では経済活動がストップするほどの大規模なストライキが広がっているのも実にフランスらしい。これら近景と遠景をオーバーラップさせながら、全てが一つの大切な感情と記憶へと集約されていく顛末がしみじみ胸を打つ。珍味ながらこの香りと食感と何とも言えない余韻が癖になる。
線の躍動
この映画について幾人かの知人と話をしたことがあるのだが、毀誉褒貶はさておいて印象的だったのは、誰も彼もが本作を「自分の肌に合うかどうか」という水準でジャッジしていたことだった。換言すれば、主人公リンダと周囲の人物たちに感情移入できるかどうかが本作の評価を分けるキモである、ということだ。これはなぜだろうか?
『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』「第4章 棒人間と複数の世界」という批評本の中では、アニメーションの独我論性についての議論がなされる。乱暴に要約すると、制作プロセスの中に他者(演者、街並み、自然物など)という偶然性の介入余地のある実写映画と比べて、すべてが制作者の意図の下で織り上げられるアニメーション映画は独我論的だ、というものだ。
アニメーション映画=独我論という否定的テーゼに対し、アニメーション批評家の土居伸彰はアニメーション作家ユーリー・ノルシュテインの言を引きながら以下のように述べる。
「『話の話』の中に「永遠」というエピソードがあって、海辺で夕日が世界すべてを輝かせるなかで、すごく平和な暮らしが描かれる。漁師のお父さんがいて、赤ん坊をあやすお母さんがいて、遊んでいる娘がいて、それとなぜか縄跳びをしている牛がいる、というシーンです。(中略)このシーンのそのベースになっているのは、ノルシュテイン自身が世界との調和を感じた瞬間なんです。で、ノルシュテインはさらにこう言っている。そのときに自分自身が感じた調和というのは、もし隣に他の誰かがいて自分と同じ風景を見たとしても、その人にとっては調和とは感じられないものである。アニメーションとは、そういう個人的に抱かれた(個人的にしか抱かれえない)調和の世界を作るものだ、と言うんですね」
「アニメーションは独我論的だ」という言い方をポジティブに敷衍するなら、それは「アニメーションはパーソナルな調和のある世界を描くものだ」となる。これは特に、宮崎駿流の「リアリズム」を志向し続ける日本のアニメーションではなく、単純で可塑的な線の構成によって成り立つ海外の(特にアート系の)アニメーションにおいて顕著だ。
アニメーションの自由自在な線の躍動は、光学的に捉えることが不可能な個々人の内的世界を描き出すことができる。
アレ・アブレウ『父を探して』や渡辺歩『海獣の子供』では、物語の途中から背景やオブジェクトといった舞台装置が消失し、ひたすら線がグニャグニャと弛み、交わり、弾ける観念表現が展開される。それによって、カメラの映像という光学的事実の中には決して写り込むことのない、登場人物の内的世界がダイナミックに描出される。
アニメーションの独我論性とは、換言すればアニメーションである意味そのものなのだ。
さて本作に戻ろう。本作をめぐる評価に関して、「肌に合った/合わなかった」といった言い方が頻繁になされるのはなぜか。今や答えは簡単だ。アニメーションはパーソナルな調和のある世界を描くものであるから、である。受け手が登場人物の内的世界に調和することができれば「肌に合った」という所感が、逆に拒絶感を覚えれば「肌に合わない」という所感がそれぞれ出力されるだろう、ということ。
本作は主人公リンダがチキンを食べるまでの騒動を描いたコメディであるが、随所に『父を探して』『海獣の子供』で展開されたような内的世界が描き出される。たとえば終盤、チキンを調理するくだりでは、真っ暗な画面の上でリンダの過去と現在が縦横無尽に錯綜し、父親の喪失という本作の主題に決着をつける。
しかし本作が特異なのは、内的世界の縦横無尽さが内的世界と対置されるはずの現実世界にも波及しているという点だ。現実世界における登場人物たちの行動は常に衝動的で、現実倫理に照応させてみれば非常に問題がある。鶏を盗んだり、警官から銃を奪おうとしたり、積荷のスイカを勝手に食べたり。線の自在さはいつしか紙の上を離陸し、登場人物たちの行動原理までをも自由にしてしまう。
思うに、ここが本作の「肌に合う/合わない」の最も明確な分水嶺なのだろう。アニメーション表現がどうだのと御託を並べたところで、そこに一貫性のある物語がなければ大半の人間は作品に見向きもしない(だからこそ線の躍動は内的世界の描写に局限されているともいえる)。
しかし本作は、物語的一貫性(とそれを支える一貫的な登場人物)を放棄してまで全面的な自由を称揚する。それは結果的に物語の破綻や倫理の無視といった結果を招いているものの、私はそれを上回って画面内に漲る底抜けの自由さのほうを支持したい。
ただ、だからこそ、その底抜けの自由さをストライキという政治性と安易に接続している点に関しては蟠りが残った。せっかく映像が手に入れかけていた無上の自由を素朴な政治問題によって文脈化してしまうのは悪手なんじゃないかと思う。ストライキなどわざわざ仄めかさずとも本作が反体制の映画であることは自明なのだから。
パパのレシピ
母子家庭のリンダはママにパパの手料理だったパプリカチキンが食べたいという。料理が苦手なママは、というか料理以外もなにかとダメダメなママは弱り果てる。
とりあえずチキンを買いに行くも町はストライキで店は全部閉まってる。そしてママが養鶏場から一羽の鶏を盗み出したことから一大事に。ダメダメなママにダメダメな警官が追いかけてきて、トラックの運転手はママに一目惚れ。普段からママの尻拭いをさせられてきたママのお姉さんはカンカン。
団地はチキンをめぐって大騒動へと発展。事態が収まりチキンをなんとか捌いて団地の広場でみんなでパプリカチキンを食べる。この騒動で助けてくれたトラック運転手が新しいパパになる予感で物語はおしまい。
アマゾンプライムで鑑賞。吹き替え版しかなくてそれが結果的に失敗だったかも。物語は日常を描いてるようで非日常を描いたファンタジー。でも吹き替え版がとてもリアルな口調で、特にリンダのお母さんが今風の日本の若いお母さんをリアルに演じていたので登場人物のリアルさと物語とのギャップに最後までついていけなかった。これはフランス語で見たかったな。フランス語は聞いてて非日常な感じがするしこのファンタジーな作風と非常にマッチしていたと思う。絵柄も良かっただけに少し残念。この監督の前の作品のDVDをメルカリで安かったから注文した。
子供の感じる世界
一緒に食べることのかけがえのない意義
死んだ人は暗闇にいるの?
パパも暗闇は怖い?
見えないってことは存在しないってこと?
パパも存在しないの?
このシングルマザーと遺児の物語を
「ニワトリを盗むことを容認するのか?」なんて、上っ面の道徳のレビューは僕は書かない。
夫の死後、必死になって子育てをするポーレットの、試行錯誤のワンオペの苦しさ。
その中から
「死んだパパが得意だったというチキンとパプリカのグリル」を食べてみたいと口にしてみた娘の、たっての願いを叶えようとして奔放したお母さんの頑張りに
僕は鼻の奥が熱くなった。
だんだんと遠のいていくパパの思い出を、妻と娘が「指輪をさがし」、「その料理を一緒に作る事でなんとか食い止めたい」という物語なのだ。
・ ・
昨年のことだが、
僕は新幹線に乗って親戚の子を訪ねた。
お母さんの自殺のあと、一人暮らしをしている子だ。
お母さんの、何か小さな思い出を教えて話しておくれ、と僕が問うと
彼は
「手羽先を美味しく煮るのが上手な母でした」と答え、そして言葉を継いで
「だいぶ時間も経ったし、誰もあの事に触れなくなっているので、時々こうして母のことを訊いてくれて嬉しい」と言った。
そうなのだ。これに尽きるではないか。
チキンを、そして手羽先を、
亡き人と一緒食べた思い出は、永遠に僕たちの心と体の栄養だ。
全編を通して「死と暗闇と記憶」が歌われていた。子供たちは案外まっすぐにそれを見つめ、感じ取っている。
映画の、絵の具やクレヨンで書きなぐったような粗い画面が、親を亡くした子供たちの (そして大人たちの) 心象に
ダイレクトに触れてきてくれるはずだ。
・ ・
永瀬正敏と斉藤由貴の「最初の晩餐」も、これに類する秀作だった。
いいストーリーだけどアニメのキャラが分かりづらい
配信(amazonレンタル)で視聴。
フランスのアニメでストーリーは素敵な話。
ただ、アニメのキャラが分かりづらい。もっと目立ったほうがいいのでは。
フランスアニメでプチ・ニコラを観たがせめてプチ・ニコラのようなキャラなら
納得できる。
いいアニメだが、キャラが残念だった。
パパンとチキンの生命
リンダのわがままっぷりにひく
子供の色
日本アニメと違って単調な…というか手抜きの様に思われる絵柄だろうけど、とてもカラフルに振り切っていているので子供達の躍動感に観ていて心が弾む。
同じ画面に同じカラーの子供達がいない所が個性を表す感があって好ましかった。
親子であっても別人。同じ色ではない。
自分の子供の頃にもあったなぁってことが多々。
許されるために安易に嘘をつく子供。勝手に決めつけてビンタをかます親、いつまで経っても姉に甘えきりでイマイチ大人感が出せない妹。そんな妹にノンと言わなくて味方になってしまう姉。
そんな甘えたな母に育てられ、似た口と行儀の悪さを発揮するリンダ。こんな家なんて嫌だ!って叫んでた子もいたな。そして、軽率な万引き。
経験したし、親戚の集まりとかでもよく見た光景。
指輪に固執するリンダを無理やり姉の家に預けて、水漏れの修理中に指輪を発見!ママンは慌てて謝りなんでも希望を聞くと伝える。リンダはパプリカチキン!とお願いする。パパンの事は覚えてないが、その料理は覚えているから作ってくれと。
そもそも、パパンが死んでからママンは冷食で済ませていた模様。
暗闇を走る車中、パパンの事は覚えてないから存在していないの?と聞く。「死んだ」の言葉は分かっていても肝心な生きているパパンの記憶はない。それって本当に存在してたの?あぁ、確かに。親戚とかの集合写真とか見てて、この人知らないって人いたら、本当に居たのかなぁ?ってなるよね。パパンの記憶は真っ暗闇。
ストのおかげでチキンが手に入らない!
リンダの要求か、夫との思い出の為か、自分の為かママンは養鶏場から鶏を盗む。この辺本当に子供の浅知恵のようなママン。
絞める事もできず頼るのは姉。警察に捕まり路上駐車の回収も姉。本当に姉に頼りすぎてアホな妹を持つ姉としては本当に頭が痛い。
かわいそう。
出会うのはジャン=ミミ。同じ団地に住む彼はママンに一目惚れ。彼女のためにあれやこれや。
途中で鳴りを潜めていた指輪がここに効いてくる。手錠を外す際、彼はママンの左指に指輪をはめる。擬似プロポーズだ。
そんな頼もしい彼に安堵を覚えるママン。
団地の子供達の協力もあってリンダは鶏ゲットだぜ!
パプリカチキンを食べたい人!
死ぬ運命にある鶏にリンダはそっと呟く。
あなたの事は覚えておくから。
存在を覚えているから。
そこで涙のような雫が流れる。リンダの家の水漏れ。
そこでパパンのターン。
黒の中だったパパンは赤だった。赤のパパンはリンダやママンと過ごしたかったと歌い伝える。
出来上がった念願のパプリカチキン。
団地の人達と分け合い楽しく食べながらリンダは一つ願い事をする。その先には仲睦まじいジャン=ミミとママン。
彼の得意料理はパエリア。エビも入れる。
リンダにはそれが新しい料理になるはず。
同色で無機質さを表してた警察官。
木の上で警察服を脱がされパンツ一枚の1人の個人へ。
彼と仲を深めるアストリッドのストーリーも良かった。
変にリアルな所や、理不尽なファンタジーが詰め込まれているので感情移入が難しいかも。
逆にいろいろなキャラ視点で見れるのも楽しいってのもあるが、賛否両論あるだろうなぁ。
親指はしゃぶる指、人差し指はチャイムを鳴らす、中指は悪い指、薬指は指輪をはめる指。
あれ?小指は?!って思ったら約束の指だった。
リコリスは美味しくない。
心温まるアートアニメーション
日本アニメにはない自由な画
観てよかったかどうか?というとよかったほうです 最初のほうは画面の...
観てよかったかどうか?というとよかったほうです
最初のほうは画面の色使いや動きに目が慣れるのに少し時間がかかりました
日本のアニメーション業界用語で言えば、ラフ原のまま仕上げたようなアニメーションですね
そのラフさがところどころイイ感じに見えるといえば見えたりしますが、人によっては受けつけ難くもあるかもしれません
ラフさ故に表現が通常に表現するよりかはソフトになって素直に見れるな、という点もいくつかありました
話のほうはフランス独特のわちゃわちゃ感がたのしめましたが、これもまた人を選びそうな印象は受けました
フランス映画では団地の子供らが群れをなして(大人からみると)暴れたりするシーンが比較的あるように思えますが、現代日本人からすると日本の子供たちがそういう行動をすること自体がまずあり得ないわけで、日本人の記憶としては近代では昭和前半の悪ガキ率いる群れみたいなものしか思い当たりませんよね・・・
フランス郊外の団地ってやたら映画の舞台にされがちなのですかね?
締めは予定調和的な感は否めませんが、比較的きれいにまとまっていると感じました
個人的には、車中のシートにリンダが寝そべって外からの光が流れるあたりから車が夜の道路を走りゆくあたりまでが印象に残っています。光が車の窓の汚れを通して映るテクスチャのような表現が良いですね。
チキンを食べたいだけなのに大事になっていく面白さ
チキンを食べたいリンダの願いを叶えるべく、母親とリンダ自身が奔走する物語なのですが、
実にいろんな人を巻き込みながら、大事になっていく様は面白いと思いました。
ただ、途中でミュージカル的な演出が入ったりして、冗長さも感じてしまい、
もっと短くコンパクトにしてテンポを良くすれば、もっと面白くなったんじゃないかと感じましたね。
絵柄も独特なのですが、シンプルながらも表現力はすばらしく、そういう意味では違和感なく
鑑賞することができました。
一方、母親はじめ、それ体罰!だとか、言葉が辛辣とか、いろいろキツイと言いましょうか、
ハラスメント全開なところは、フランスというお国柄なのでしょうかね、
日本ではつくれない作品だと思いました。
ある意味、新鮮でしたが、良い気分では観れませんでしたね。
最終的に、チキンは食べれたし、いろんなことがうまくいって大ハッピーエンドではあるものの
私としては不完全燃焼、期待はもっと高かったですね。
でも観てよかったです。貴重な映画体験でした。
フレンチコメディー すみません理解できません
世界各国で絶賛!「リンダ」旋風が止まらない! 云々
カラフルでスウィートな映像、笑いと涙のあいだを自由自在にかけめぐる物語、
そしてなにより登場人物たちの爆発的に愛らしい 云々
史上最高級のアニメーションコメディ!云々
とのパンフレットの謳い文句をみて、恐る恐る鑑賞した。
予感は的中した。
私が経験したどのアニメよりも、カラフルで独創的なんだろうとは思いましたが、まったく感情移入ができませんでした。リンダやポレットに置いてけぼりをくらっているようで、団地の5階のベランダから、なんの騒ぎ?うるさいな!て眺めているような感じでした。
この映画を傑作と評価する人々は、きっと実写映画しか見たことがなくて、アニメーションという手法に驚いた人々が評価したに違いないと思う。
とすれば、日本のアニメが世界で高い評価されるのは当然ということになってしまうし、日本のアニメオタクにはまったく刺さらない映画ということになってしまう。残念である。フランス人のおもしろいという感覚もいまいち理解できないと思った。
挿入歌は、少しおもしろくて、よかったと思う。
チキンが食べたいリンダが素敵!
まずアニメーションが素晴らしい。
ラフなタッチなんだけども、、これ見ないとわからないと思うんだけど、我々が実際に目にするような、動き、光、イメージを見事に再現していて、それを見るだけで楽しかった。
夜の道を走る車の中が、街灯の下をくぐるたびに明るくなったり暗くなったりする様子とか、その車の窓から見える景色の中を流れる街の灯りとか、思わずハッと息を飲むほどに鮮やかで。
あと主人公リンダが、、こんなに可愛いとは!
宣伝に使われてるトップの絵じゃ伝わらないんじゃないかなあ。。
パンフの表紙の絵はすごく感じがでてるんだけど。
とにかく子供らしく傍若無人というか、元気に思った通りにしゃべったり行動したりするんだけど、まるで悪意がなくて、すがすがしくて微笑ましい。
それを言ったらお母さんもそうなんだけど。
ただ、元気で大らかで、基本サバサバしてる彼らなんだけど、常にどこか切ない空気が漂っている。
どうしてそう感じるのか不思議なんだけど。
お父さんがいないのは最初からわかってて、それを特に苦にしてるようなエピソードもセリフもないんだけど、本来いるはずの人がいない寂しさが、微かに香るほどに、けれども確実に、感じられる。
その寂しさは、リンダが今日絶対にチキンが食べたいという気持ちと、理屈はうまく説明できないけど、つながってるんだと思う。
お母さんもそれをわかってる。
だから、彼らがなぜあんなに頑張るのかわかる気がしたし、自然と彼らを応援する気になった。
そしてラスト。
これもなんか、あからさまではないんだけど、何故かとても暖かくて、幸福感に溢れていて。
こんな日々を送っていきたいもんだと、なんかこう、心の底からそういう気持ちを不思議に掘り起こされるような映画だった。
最後に、、ニワトリ目線で考えると、ちょっとだけ悲しいですね。
あんなに一生懸命逃げたのにTT(笑)。
不快
2024年劇場鑑賞105本目。
吹替強制鑑賞につきマイナス0.5。
延長の独特のタッチに釣られて観ましたが主人公の母親がだいぶいい性格してまして姉に対するわがままぶりが娘にちゃんと遺伝してパパの形見の指輪もダダこねて借りて約束破って学校に持っていくような娘に育っちゃったんでしょうね。
今回のメインになるチキンが食べたいのだって別に今日がパパの命日だから絶対今日食べなければならないみたいな理由なく、1日待てば済む話なのに絶対今日食べたいというワガママに、倫理観の崩壊した母親が乗っかるのでもう途中から吐き気がするくらい不快でした。
最後の歌だけ無駄に良かったけど・・・吹替だからなんかすごい奇妙な感じがする歌でした。
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