異人たちのレビュー・感想・評価
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寂しさという毒
前半、ほとんどセリフもなく独身男の丁寧じゃない暮らしが描かれて時々ゲイセックスする辺りは死ぬほど退屈だった。正直言って寝た。
しかし、何度もファンタジーな実家に通ううちに自分の欲求=寂しさを自覚する下りでようやく演出の意味を理解できた。
セックスじゃダメなんだ。性だけで、自分を思いやってくれない相手は友じゃない。鈍色の暮らしは人間をダメにする。
暖かい夢の世界でようやく自分の在り方を理解した時には、現実は既にあらゆる意味で時遅しだった。しかしそれでも一歩でも、主人公の人生は前に進めたんじゃないだろうか?どん詰まりならそれだけで十分だろう。
クィアと孤独
ゲイである事と孤独を強く否定した主人公アダム。
彼の孤独はきっとゲイである事より両親ともっと幸せな時間を一緒に過ごしたかった事が1番大きいんだろうなと感じた。
もちろんゲイである事で虐められる寂しさもあるだろう、出会いの場が飲み屋だったりクルージングスペースだったり日中ではなく夜のシーンが多いため、そこにはアルコールやドラッグ、SEXも関わってくる。
みんな大小ある寂しさを慰めたり埋めたりするのだろう、
両親とのお別れのシーンはとてもじんわりきた。
父に抱きしめられて、最後に愛してると言われる事は俺自身も求めている事だった。
そんな自分の中の消えないシコりを思い出させてくれる、俺に取ってはそんな作品だった。
夏やお盆は関係なし
山田太一の原作、大林宣彦の映画、いずれも未読・未見で、元ネタはタイトルしか知らない丸腰での鑑賞。主人公アダムおよび同じマンションの住人ハリーは同性愛者設定で、その辺はアンドリュー・ヘイ監督の性的指向にあわせて…ということなのだろう。同じく劇伴にはフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドにペット・ショップ・ボーイズなんかが使われているし。
自身が性的マイノリティであることの孤独感が、それが理解をされぬまま早世した両親との夢うつつな展開と、登場人物の極端な少なさ、常にどこか不安さを抱えているようなアダムの所作で表現されていて、なんか昨年のアフター・サンっぽさを感じると思ったらハリー役ポール・メスカルは同作のパパだということが後でわかった。オープニング、日の出とともに自分の姿が徐々に窓ガラスに浮かび上がるカットは見事で、なるほど「異人」ぽさを感じさせた。
自分が子どもからカミングアウトされたらどう受け止めるか…と親目線で考えつつ観てしまったが、両親との別れや理解とで大の大人がうるうる泣き出す姿にはじんわりもらい泣き。子どもの頃と同じアダムのパジャマ姿は笑えたけど。
美しい映像の中で見る、孤独との向きあい方
まず最初に思ったのが構図が綺麗だなということ。
あの大画面でも素晴らしいバランスで、人が、物が、風景が配置されているように思えた。
そしてロンドンの街はもっとうるさいはずなのに、静かさを強く感じる部分も大きい事。
それが主人公にとっては大切な静けさであることも、映画の中の地下鉄のシーンで感じた。
この映画を映画館で見ることにこだわっていたわけではない。
けれどこの映画を映画館で見たことで感じた風景の美しさや風の音は、
やはり映画の良さを改めて感じる一面であったと思う。
主人公は亡き両親に、ただ同じマンションに住んでいるだけの男に、
自分の中の生きづらさを告げることが出来たけれど。
LGBTの方々を含め、自分の中に「普通」とは違うと感じる部分を持つ人はみな、
どこか生きづらさを感じる局面に出会った時に、こんなふうに感じるのかもしれないという
一例を感じさせてもらった気がする。
この生きづらさに直面して、向き合って、それを自分のものとしていく主人公を見ながら、
どこか自分の中でも明るい道ばかりを歩いてきたわけではない部分を思い返して、
自分で自分の中の孤独やそうした部分と向き合う、いいきっかけになったと思う一作だった。
救いようがない、と言われればそれまでかもしれない。
けれど救いもあった。
日々の繰り返しは、物語のようにハッピーエンドが繰り返されるわけではなくて、
哀しいことも、折り合いがつけられずに澱のように溜まった感情を抱えながらも
幸せと言える今を模索することでもあるのだろうから。
救済
此方側とあちら側を行き来するファンタジー。
親と子供の思いは、どの国に行っても同じ。
どちらかが居なくなっても。
作り手、お国柄の亡くなった方への
向き合い方と、現在の孤独感と恋愛を幅広く捉えた異世界がテーマ。
話せなかった両親と話せるのは
素晴らしいし有難い事。戻れる家があるだけで
幸せである。不思議な世界に引き込まれたけど。
心のパズルを埋める異人達との救済でした。
孤独を癒す存在
山田太一原作の「異人たちとの夏」を原作にした本作。原作は読了。その前提での評価。
異人たちとの夏とは別物といってもよいくらい、この映画はこの映画、原作は原作。本作は同性愛であることの苦悩、孤独にフォーカスされていて原作とは訴えたいことが違うと思った。映画のあらすじをほとんど読まずに観に行ったので、あれ?こんな話やったっけ?っと最初は混乱した😅ただ、異人たちとの夏を元にした全くの別物と考えれば、そんなに悪い作品ではないのかなと思う。
両親たちに会うことで、アダムは自分の気持ちを少しでも整理できたのかな。そのために両親は現れたのかもしれない。どこからが現実でどこからが妄想なのかわからないが…。ハリーも幽霊かもしれないが、アダムにとってもハリーにとっても一緒にいることで安心できるならあのラストでもよいのかなと思う。いつまでも幸せが続いてくれればなあと祈るような気持ちで観てしまった。でも、アダムは現実世界では孤独であることは変わりないんやよね。切ない。
原作を知っているかいないかでだいぶ評価がわかれそうな映画かなと思った。上映中寝てる人がいて、いびきが聞こえていた💦なんとなく寝ちゃうのは気持ちわかるかもしれない(上映中にいびきはかかんといて〜!笑)
さまざまな「異人たち」に想いを馳せてしまう一作
山田太一の原作小説を未読のまま鑑賞した観客による感想です。
予告編から得た印象では、アンドリュー・スコットなどの登場人物が性的マイノリティであることを指して「異人たち」と呼称しているのかと思っていたので、本編を観進めてすぐにこの言葉が意外に様々な意味を含んでいることが分かり少し驚きました。
序盤にアダム(アンドリュー・スコット)が両親の自宅を訪ね、やや不可解なやり取りをする場面があるんですが、場面転換したすぐ後に、先ほどの状況の意味合いが明らかになると、これまでごく普通と思っていた光景が全く違ったものに見えました。この見ているものに対する認識の変化は、描写としてはごく些細なものですが映画体験としてとても鮮烈で、一気に作品世界に引き込まれました。
R15+ということでそれなりの描写は含んでいますが、全編にわたって映像は夢か現か判然としないような幻想的な雰囲気を帯びており、そこまで生々しさを感じませんでした。
常に自己の傷ついた内面を押し隠そうとする表情、何か言葉を発そうとしては口ごもるスコットの演技は、作中のアダムそのもので、その存在感に現実味を与えているだけでなく、特に母親と対話するある場面で彼が感じる心の痛みは、ダイレクトに観客に伝わってくるかのようでした。
ふとしたきっかけでスコットと交流を持つハリー演じるポール・メスカルは、『aftersun/アフターサン』(2022)とは演技面でも身体面でも、少し異なった印象を与えるものの、陽気な振る舞いの背後にある、どうしようもない苦しみをにじませる姿は相通じるものがあって、今回も泣かされました。
全体的にさまざまな苦しみを抱えた人々を描いているので、ともすれば作品全体の調子が沈みがちになりそうなところ、アダムの父演じるジェイミー・ベルがいい感じに和んだ空気を提供してくれます。特に終盤、彼が「どうしても尋ねておきたいことがある」と真剣な表情でアダムに語り掛けた後の次の一言は、笑うところじゃないんだけど思わずくすっとなってしまい、これまた良い意味で印象深い場面になりました(そしてやっぱり泣かされる)。出番は多くないんだけど、ベルにも拍手を送りたいところ。
直前までリメイクとは知らずに鑑賞。懐かしかった近未来。
生きづらさを抱えて…
オリジナルとは全く異なる解釈
大林監督の「異人達との夏」と、どうしても比べてしまい、期待もしてましたが、全く異なる世界とテーマになって居て、切り離して観る必要があります。
都会の寂れたマンション、ゲイの中年男性…例え様の無い孤独の中で、クリスマスに故郷に帰り幼い頃に死に別れた両親と出会い、主人公の心が解れていくという展開は、日本の蒸し暑い夏と旧盆、下町というモチーフの持つ意味とは、かけ離れたニュアンスでの設定となり、両親にカミングアウトして、心の重石を取り除く事がテーマとなる。
ミステリアスな邂逅から始まる展開や、心温まる癒しの様なものが無く、伏線も無い上、主人公が魅力的では無いので物語に入り込めず、全体が暗い作品となっている。
3人のオバケと1人の男の話
皆さんがおっしゃるほど、心を揺さぶられることはなかった。
親もただの1人の人間で、自分がそうなように100点満点なはずはなく、ましてや若い頃の親なんて更に未熟で。
でもそんな親でも、目の前にすると子供に戻って甘えたくなるもんなんだな。
これはSF?
それにしても、なにもハリーまで死ななくてもいいのにねぇ。
つくづく愛に縁がないアダムを気の毒に思いつつ歩いて帰った。
しこりを大きくしないで。
大林版は観てません。
アンドリュー・スコットとポール・メスカルの年齢差はちょうど20歳らしい。10くらいかと思ってた…
アダムと父母の交流を観ながら、何に触発されたのかわからない涙が止まらなかった。強く感情を揺さぶる描写でもないのに、涙が顎まで滴るのはなぜだろうと思って見ていた。
多分、アダムの孤独が自分に重なるからなんだと思う。親が早逝してもないし、クィアでもない。でも、人と関わって感じた孤独に耐えられず、そこから誰かと交流しようとしないわたしがアダムに重なった。
それと、親と人間として“ちゃんと”関われなかった後悔も、あるのだと思う。父はもう死んだし、母は生きているが、どれだけ言葉を選んでも、心を砕いても、正直にぶつかっても、“わたしの望む反応”が返ってこない(返せない)とわかっているから、これ以上向き合いたくない。
けど、数多の物語が描く、親との“ちゃんとした”関わりに遭遇するたびに、自分にはなしえなかった後悔を感じる。物語に生きる誰かの母が、わたしの母にも少しは宿っていないだろうかと。
母も父も、彼らなりの愛のようなものをくれたし、必死で働いた金でわたしたちを育てたことを理解している。でも…
本当は自分の親に掛けてもらいたかった言葉や振る舞いを、わたしは虚構から間接的に摂取して、なんとか完全に自暴自棄にならないようにしてるのだろうな。
親以外にも、恋人や友達やきょうだいや街ゆく人に、してほしかったことを、虚構から得て、なんとか生きてる。そんな気がした。
自分が誰かに生きる糧のようなものをあげられたかもわからない。自分だけが欲しがってる気もする。
忘れてしまうのでオチを雑にメモしておくと、
ハリー(ポール・メスカル)は、アダムの部屋を訪ねたあと直ぐに飲みすぎたか薬のオーバードーズかで死んでいた。前へ進むための動機が欲しくて作り出した父と母との邂逅を経て、拒絶してしまったハリーに会いに行くと、もう死んでた。
その後がわからんけど、ハリーの親兄弟に連絡してあげたりするのかな?そして、アダムは人と関わろうとし始めるのかな。胸にはまったしこりを大きくしないように。
とはいえね、めちゃ感動しといてなんやけど、突然自宅に訪ねてくる知らん人を部屋に招き入れないのは、身を守るためには極々一般的やと思うねん。あれでハリーを招き入れるのは無理やって!絶対無理!私なら居留守一択よ。名前すら教えません!!
先に逝った人たちへ
異人たちという題名
言いえて妙 この映画に登場する人達全員が、どこか儚げで愛おし過ぎて素晴らしい
自己主張せず、あるがままこの世やあの世の別なく、人が人を愛する姿は美しい
亡き山田太一さんもさぞ満足されておられますよう(合掌)
(5/3)
あれから考えて、疑問があったので、2回目鑑賞
最後の辺りで、ハリー(ポール・メスカル 好演)がこのしこりを大きくしないで(日本語訳まま)って何を指してるんだろうということを考えた時気づくべきだった
そこでこの主人公以外は、ラストから全て鬼籍の人であり彼が執拗に子どもの頃の執筆にこだわり、昔住んでいた家に通ったり、彼に関心を持つ男性に出会い触れ合うことって、もう既に彼が臨死にあり すべてはその準備じゃないのか?ってこと
山田さんの小説はよんだが、そういう記述もないし夏の話しになっているので、じとーとした日本の怪談風話しになっているのに比し、このヘイ監督作マイノリティー達の寒々としたリグレット(後悔)に彩られた人生譚になっている
すべてのマイノリティーの人へ、いろんな事があっても[人生すてたもんじゃない]って生きていこうというメッセージを感じました
中堅俳優4人の競演
急に亡くした肉親、逝った方も遺された方も、伝えきれなかった気持ち、後悔している行動、もう一度会えたなら…
12歳の時に自動車事故で両親を突然喪った主人公は、既に当時の親の年代になっている。しかし家庭を持たず、ロンドンの高層マンション27階の部屋で一人、シナリオライターをしている孤独な生活。ある夜マンションの警報が鳴り、誤報と思いながらも建物の外に出ると、6階の部屋にだけ人がいるのに気づく。
部屋に戻った後、その6階の青年が、日本のウイスキーを飲もうと押しかけてくるが警戒し、丁重に断る。
彼との会話から昔を思い出し、懐かしい写真を見返しているうち、両親と暮らした家に行ってみることにし、電車で郊外に向かう。家は昔のままの姿だったのを確認し、帰ろうとするとすると、昔の姿の両親が現れる。そんな筈はないと戸惑いつつも、今はライターをしているという息子を歓待してくれる。久しぶりの再会に温かい気持ちになり、母親には「2人のうちどちらかは家にいるからまたおいで」と言われる。電車でロンドンへ戻ると、6階の青年に再び出会う。前回とは違う印象の青年に気持ちを許し、受け入れる。
何度か電車で両親宅を訪ねるうち、青年に会ったことで、ゲイであることを両親に打ち明ける。当時、同性愛はエイズ=不治の病と結びつけられていたため、母親は息子の告白に、頭ごなしな否定や拒否はしなかったが心配はされた。父親とは、自分が女々しかったため昔からいじめられていた話をする。父親はいじめに気づいていたが、息子を救おうとはしなかった。それは、自分自身がいじめる側に近かったためで、主人公もそれを分かっていた。そして「あの時、部屋に入っていかなくてごめんな。」と息子に謝罪する。
そして、二度目の別れがやってくる。
子育て中の親は年齢的にも完璧な人間ではないし、間違えもする。
ロンドンから田舎への電車での移動が、この世とあの世の移動手段になっている。幽霊ビルのような都会のマンションといい、現実と向き合っているのかわからないような生き方の中年の主人公。それでも、自分と自分の過去に目を背けず前を向くことを、不思議な人たちとの交流の中で学ぶのだった。
泣けた。
どう捉えるかは観る人の人生次第
シャーロックに出演していたアンドリュー・スコットさんが出演とのことで観てみました。
予告では恋人も出来て両親とも会えてハッピーエンドかと思っていましたが、実際は両方とも失う(物理的に、恋人も恐らく刑務所に行くだろうし)結末で悲しいと思いましたが、両親とは分かり合って本当の家族になれて別れ、また恋人とも支え合っている様子だったので、気持ちの面ではハッピーエンドだったのかなぁと思いました。
私は親とは仲が良くなく子供の頃にされたことや、して貰えなかったことを未だに根に持って生きてしまっているので、アダムのように子供の頃の話を腹を割って話し謝り合っていたのは少し羨ましくもありました。
また、私がもしLGBTQだったらまた映画の見え方も変わってくるんだろうなーとも思ったり。
この映画は賛否両論あり、昔の邦画バージョンを観た人にとっては不満があるようですか、私は原作も知らずに観たので特に違和感は覚えませんでした。
強いて言えば、両親と会えていたことや恋人にも両親の姿が見えたこと、時々ジャンプする意識、ただ単に薬でなのかあまりの孤独感からの妄想なのかが気になりました。
初めは脚本家だから書いている作品の中の妄想の話かと思いましたが、あまり脚本家としての描写も出てこないので関係なさそうでしたし...。
最後に恋人の部屋に遺体があった理由やいきさつなども気になったままエンドロールだったのが心残りでした。
追記:他の方のレビューを見ると、どうやら最後の遺体はハリーのだったみたいですが、何故か私はハリーが浮気した相手orハリーの不仲な両親と勘違いしてました。みなさんは何でハリーだと分かったんですかね?
私の読解力が低いだけ?実際にハリーの顔って映りました??
お盆になると…
何故かTVで放送される印象がある「異人たちとの夏」山田太一脚本大林宣彦監督の日本版を時代と国を超えてアンドリュー・ヘイ監督が英国版として再生
男女の設定を男性同士に置き換えた今作
幼い時に事故で両親を亡くした脚本家のアダム
生まれ育った実家で亡き両親と再会を果たす
実家に向かう電車がまるでタイムマシーンの様でエモーショナルな映像美に心惹かれました
失った刻を埋める流れの中でどんなに哀しく辛い事があっても人生は進む…
その後の人生も自身が創り上げて前に向かうものだと喪失から再生をする為にはいつの時も
愛する人達との対話こそが1番大切な時間なのだと教えられた気がしました
昨年公開された黒澤明監督の「生きる」同様
実に説得力のある英国版でした
今後も日本作品の英国版リメイクが製作される期待と楽しみが増えましたね!
美しくて儚くて切ない
邦画の『異人たちの夏』は若い頃に観たように思うのですが、
鶴太郎さんが出ていたということしか覚えてなかったので、
違う作品として鑑賞できたと思います。
アダムをクィアにしたことで、
より一層、彼の孤独が表現されていたのではないでしょうか…
異人となった両親たちと過ごす子どもに戻った時、
ハリーとの出会いから関係が深まっていく時、
アダムの感情が、繊細な表情の演技で表現されていて、素晴らしかったです。
お父さんのジェイミー・ベル以外、
あまり、存じ上げない俳優の方たちだったことで、
へんな先入観もなく没入できたので、
洋画バージョンの方が好きかも知れません。
覚えていない時点で比べるものでもないですが...。
映像も音楽も、
アダムやハリーや両親の心も美しかった。
不思議な出来事ですが、
本当にありそうに思ってしまって、
有り得ないことは解っているのに、
どうにかして、みんな幸せになって…と祈りながら観てしまっていました。
特に、ハリーとの未来は、邦画版を覚えていなかったため、
余計に幸せになって!と思ってしまっていたので、
このラストは、美しく感動しつつも、やっぱり、ひどく切ないなぁ…。
それでも
アダムは幸せだったのだよね...。
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