「同性愛に感情移入できませんでしたし、主人公の妄想と誘導するかのような演出に疑問です。」異人たち 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
同性愛に感情移入できませんでしたし、主人公の妄想と誘導するかのような演出に疑問です。
昨年亡くなった山田太一の小説「異人たちとの夏」を「さざなみ」「荒野にて」の英国のアンドリュー・ヘイ監督によって、リメイクされたのが本作です。
日本でも大林宣彦監督が映画にしていますが、今回は舞台を浅草からロンドンに移し、風聞杜夫と名取裕子が演じた役を、男性同士に設定し直したところが特徴です。
●ストーリー
ロンドンに暮らす売れっ子脚本家のアダム(アンドリュー・スコット)は、ロンドンのマンションに、ひとりで暮らしていました。 12歳を前に両親を交通事故で亡くし、以来、喪失感が消えません。もうひとつ。彼はゲイで、根強い偏見に悩まされてもいます。そのため、彼は誰からも心を閉ざしていたのです。
ある夜、同じマンションのハリー(ポール・メスカル)という青年が「一緒に飲まないか」とウイスキー持参で部屋をたずねて来ますが、突然だったので彼は断るのでした。
アダムは両親との思い出を本にしようと思い立ちます。ロンドン郊外の昔の住まいの近くで、彼はひとりの中年男の背中にさそわれて後を追います。なんと、その男は30年前に死んだ父(ジェイミー・ベル)だったのです。父に連れられて行ったのは、ありし日のわが家で、母(クレア・フォイ)がいました。なぜか両親は昔と変わらぬ姿で暮らしていて、アダムと同世代か年下に見えるのです。
その日から彼の人生の秩序は変わり、新しい輝きを帯びはじめます。彼は実家に足繁く通い、マンションで鉢合わせしたハリーを部屋に招く。ハリーとは息が合い、2人は同棲することになるのです。
●同性愛に感情移入できません。
同性愛に変更した点を朝日の映画記者は、今風でいいと高く評価していましたが、同性愛の思考がないノーマルな自分にとって、二人が激しく絡もうが、全く感情移入できませんでした。LGBTなどの性的マイノリティが持てはやされて、女子トイレなど女性の特有の安全安心が軽んじられるほどの世の中になってきています。個人の自由な恋愛観までは否定しませんが、こと映画のストーリーとなると別問題です。どうにも共感が持てませんでした。
また同性愛は、文明の病だと思います。何でも個人の権利や平等が持てはやされた結果、社会全体として同性愛が蔓延したら、出生率は劇的に低下して、人類は滅亡に向かっていくことでしょう。特にマスコミやエンタメで朝日のように同性愛を絶賛したら、今世違和感を覚えつつも、肉体が魂と異なる性別で人生修行しようと生まれてきた人であっても、ついつい世の中の風潮で同性愛に走ってしまうことになりかねません。同性愛が当たり前という風潮は、寝た子を起こすことになりかねないのです。
但し主演のアンドリュー・スコットは、自身がゲイであることを公式にカミングアウトしている筋金入りのゲイです。なのでハリーとの絡みのシーンも、ホントの恋人に見えるくらい熱が入ってました。本作はオリジナルの不思議さを越えて、同性愛を主張する作品に変わってしまったのかもしれません。
●『異人たちの夏』から夏をとったら意味がなくなる!
オリジナルの『異人たちの夏』のタイトルにある『夏』という表記には、特別な意味が込められています。なぜ主人公の原田の両親が、静かな夏の日に蘇ってきたのでしょうか。そんな疑問を持つとき、日本人なら誰でもすぐ「お盆」を連想することができます。けれどもイギリス人のヘイ監督には、そんな習慣はありません。そんな監督が『異人たちの夏』から『夏』をとって、ロンドンでリメイクしたとき、大きな問題に遭遇してしまいました。それはなぜ両親が事故の時のままも蘇ってきたのかという理由がなくなったままリメイクしたのです。その結果おこったことは、両親との再会がまるで時を遡ったかのようにリアルに描かれていて、蘇りとは思えなくしたことです。実際に見ていて、昔に戻ったようなシーンにも見えて、また心に問題を抱えるアダムが妄想しているようにも見えました。重ねてそれを助長するかのように、心を病んでいたアダムが、酒に加えて「薬」によって酩酊し、朦朧とするというのは、余計に妄想の方へ見る者を誘導してしまうことにつながってしまったのです。
これは物語が、ホラーや怪奇現象に振れすぎないようにするための配慮だったのかもしれません。しかし、オリジナルの大林演出で強く感じた、死別した人とまた会える感動、や哀惜の思いは、死んでいるのかどうか分かりにくくし、妄想の方へ誘導してしまう演出で、かき消されてしまったことは間違いありません。
やはり日本の夏は、昔から「お盆」という風習があるから、余計な説明がなくても、両親が蘇ってくることに違和感が感じられなかったのです。本作でもロンドンでリメイクするのであれば、英国ならではの両親が蘇ってくる理由付けが欲しかったです。
但し、霊的存在とも、記憶から引き出されたもともはっきりしないけれども、とにかく蘇った両親に、アダムが初めてゲイであることをカミングアウトするところは、チョット感動しました。やはりありのままの自分を肯定してくれるのは親しかいないものです。たとえ幻影であっても、目の前の両親がゲイであることを肯定してくれたことは、社会的な差別で苦しんできたも孤独なアダムの心を大いに癒すことになったのです。これは共感できました。
●オリジナル『異人たちの夏』について
1988年版のオリジナルは、山田太一の小説を、市川森一の脚色で大林宣彦が演出した異色作。元々、松竹からの大林への発注は夏に観客をぞっとさせるゾンビ映画だったのです。一人の女がいろんな人を惑わせて、都会のマンションでホラーを描くというもの。公開時に物議を醸したエンディングのCGはその名残りです。
《オリジナルのストーリー》
原田英雄(風間杜夫)は40歳、職業はシナリオライターです。妻子と別れ、今はマンションに一人暮らしをしていました。ある日、原田は幼い頃に住んでいた浅草に出かけ、偶然死んだはずの両親(片岡鶴太郎、秋吉久美子)に会います。二人は原田が12歳の時に交通事故で死亡しましたが、なぜかその時の年齢のまま、浅草に住んでいたのでした。原田は懐かしさのあまり、浅草の両親の家へたびたび通うようになります。一方で、原田は同じマンションに住む桂(名取裕子)という女性と、愛し合うようになっていました。
桂は英雄を気遣い、もう死んだはずの両親には会うなというのです。異人(幽霊)に近づくと、それだけ自分の体は衰弱し、死に近づいてしまうのでした。原田は桂の言葉で、両親と別れる決心をし、浅草にあるすき焼き屋で親子水いらず別れの宴を開いきました。 暖かい両親の愛情に接し、原田が涙ながらに別れを告げると、両親の姿は消えていきました。しかし、なぜか原田の衰弱は止まりませんでした。実はこれには、桂が関係していたのです。
体調の回復した原田は両親のもとに花と線香を手向け、静かな夏の日の不思議な体験を回想するのでした。