「個々の題材のリアリティは?」若き見知らぬ者たち komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
個々の題材のリアリティは?
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
主人公・風間彩人(磯村勇斗さん)の母親・風間麻美(霧島れいかさん)が、精神的におかしくなったままで家族が翻弄されている映画の中盤辺りまでは、一般からは見え辛い厳しい環境を描いている重要な作品だと思われていました。
しかし、主人公・風間彩人が、彼が働くカラオケバーにやって来た男3人組が風間彩人を暴行し路上に連れ出し、頭を殴られ出血しているのに、その後にやって来た警察官の松浦(滝藤賢一さん)と瀬戸(東龍之介さん)に過去の職質の因縁から半ば放置され、警察に連行される過程で脈が弱まり、病院で死んでしまった場面を見て、正直個人的には何なんだこれは?と思われてしまいました。
なぜなら、余りにも男3人組の因縁のつけ方が映画にとって都合が良く作為的で、加えて例え警察に問題があろうとも警察官が負傷者の救護活動を真っ先に行わないのは余りにもリアリティが欠けていると思われたからです。
すると、この時点のリアリティの無さは、映画全体の振り返ってのリアリティへの信頼度を低下させたと思われます。
ところで今作の映画『若き見知らぬ者たち』は、以下の4つの重要な要素が含まれていたと思われます。
1.精神障害を持った家族の、永遠に続く介護負担の問題
2.警察不祥事に関する問題
3.格闘技の話
4.カラオケバーの経営の話
特に、2の警察不祥事に関する問題は、主人公・風間彩人や格闘家の弟・風間壮平(福山翔大さん)の友人にも警察官・治虫(伊島空さん)がいたり、父・風間亮介(豊原功補さん)が元警察官で誤認逮捕で自殺したことが後に明らかにされたりと、今作はやけに警察へのこだわりが強く描かれていました。
しかし、その割には、映画の中の警察官の描写に対するリアリティが、私には総じて感じられませんでした。
すると映画にとって都合が良いと感じさせた3人組の暴行と警察官の職質の因縁による半ば放置での(私にはリアリティを感じさせなかった)主人公・風間彩人の死によって、振り返ると、この作品のそれぞれのエピソードが(それぞれ大切な題材であるはずなのに)、主人公・風間彩人の孤独を際立たせるための道具として使われているのではないか、との疑念を起こさせました。
つまり、精神障害を持った母や、警察の不祥事に関する問題や、弟の格闘技の話や、カラオケバーでの経営の話が、全て主人公・風間彩人の孤独と不幸を際立たせる道具に私には見えてしまったのです。
今作は、妄想の中で主人公・風間彩人や警察官・松浦が拳銃に撃たれる場面や、ワンカットで過去と現在を繋ぐ場面など、現実と妄想の区別が曖昧に描かれる場面も多々ありました。
もちろん、妄想や過去と現実の現在とをシームレスにつなぐ手法は作品によっては効果を発揮することもあるのですが、今作に限っては、それぞれの題材リアリティへの制作者側の真摯な姿勢を弱める効果の方が大きかったと、個人的には思われました。
作中の主人公や登場人物らが妄想の中に逃げ込むのは構わないのですが、であるならかえって、制作者側は自身を突き放してより現実のリアリティを追求する必要があったと思われます。
私的には、中盤までの精神障害の母親の介護に絞ったリアリティある映画にした方が良かったのではと、僭越思われました。
また、警察の不祥事を描きたいなら、もっと警察中味の調査をした上のリアリティある描写が必要だったと思われました。
警察不祥事や格闘技など、これでもかと要素を増やして主人公・風間彩人の孤独と不幸を際立たせようとすればするほど、逆に主人公・風間彩人の孤独と不幸は独りよがりになりリアリティの説得力を失って行ってしまったと思われました。
中盤までの母親の精神障害の困難さの描写で留めておけば良かったのにと、悔やまれる映画になっていたと僭越ながら思われました。