「傑作の前章から、私的2点の弱点を感じた後章‥それでも前章・後章を合わせて2024年邦画の代表作にとは‥」デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章 komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
傑作の前章から、私的2点の弱点を感じた後章‥それでも前章・後章を合わせて2024年邦画の代表作にとは‥
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
今作の前章は、「登場人物の会話の切れ味と、強大な宇宙船が空を覆う不穏な日常と、陰謀論の空気と、理念の暴走の震撼が、現在のメタファーとして見事に描かれた傑作」と前章レビューで書いたように2024年の邦画の傑作だと思われました。
後章はただ残念ながら、秀作の水準は超えているように感じましたが、前章に感じた傑作度合いまでは感じませんでした。
その理由は、以下2点の弱点を後章には感じたからです。
後章の1点目の弱点は、前章の最終盤から登場する竹本ふたば(声:和氣あず未さん)や、彼女が所属する侵略者保護団体「SHIP」の描写が、かなり1面的だったところです。
前章では、あらゆる描写が多面的に描かれていて、その考え尽くされた描写の数々に感銘すら感じていたのですが、後章の(おそらく左翼団体をモデルにしただろう)侵略者保護団体「SHIP」やそれに傾倒している竹本ふたばの描き方は、表面的なステレオタイプの描き方で、個人的には感心しませんでした。
私的には、いわゆる表層的な理念のスローガンばかり唱える侵略者保護団体「SHIP」のような主張を好みません。
しかしながら、だからこそ、映画やドラマでそれら人物を描く時には、ステレオタイプの表層を超えた多面的な人間としての描写が必要に感じました。
残念ながら、竹本ふたばや彼女が所属する侵略者保護団体「SHIP」の描き方は表層的で、後章での多面的な描写は圧倒的に足りていないと思われました。
そして圧倒的に描写が足りていない人物たちを物語の一方の対極として置いてしまうと、その物語自体がぜい弱になってしまうのは言うを待ちません。
一方で、竹本ふたばや侵略者保護団体「SHIP」と対極にある位置づけの、小比類巻健一(声:内山昂輝さん)、あるいは中川凰蘭(声:あのさん)の兄の中川ひろし(声:諏訪部順一さん)は、立ち位置的には【陰謀論者】や【陰謀論者に好意的】な位置づけになると思われます。
すると[理念論者]の竹本ふたばや侵略者保護団体「SHIP」に対して、【陰謀論者】の小比類巻健一や凰蘭の兄・中川ひろしの描写は多角的に描かれているように感じられ、少なくとも【陰謀論者】の方には作者の思い入れを映画の中で感じられました。
このことは後章で感じられた以下の2点目の弱点につながる問題をはらんでいると思われました。
後章で感じられた2点目の弱点は、”世界が滅んでも、大切な身近な人が助かれば良い”という命題の是非です。
この”世界が滅んでも、大切な身近な人が助かれば良い”というセカイ系的な命題は、映画『天気の子』でも示された命題だと思われます。
『天気の子』は、主人公・森嶋帆高が、例え世界が滅んでも(東京が水没しても)自分にとって大切な天野陽菜が救われれば良い、との着地の作品であったと結論的には解釈出来ると思われます。
しかし個人的には、”世界が滅んでも、大切な身近な人が助かれば良い”との命題には同意しかねる、という感想を私は持っています。
この”世界が滅んでも、大切な身近な人が助かれば良い”との命題は、そのまま拡張して行けば、【自分とは身近でない”他者”の存在は無視して良い】、との結論に近づいて行きます。
そして、この考えでは、今も世界で起こっている【他民族の虐殺】という人間の蛮行を止めることは出来ません。
そこまで考えを広げなくても、今作に出て来た侵略者たちは、小山門出(声:幾田りらさん)や凰蘭にとっては大葉圭太(声:入野自由さん)などを通してもはや大切な身近な存在ですが、小比類巻健一にとってはかつての恋人だった栗原キホ(声:種崎敦美さん)を殺された相手(”他者”)に過ぎず、侵略者たちに対して【躊躇の無い虐殺】が可能となるのです。
私個人は、(特に身近な関係性もない)”他者”に想い入れが入り過ぎて身近な人への関係性が薄い[理念論者]も、”他者”の存在を無化し身近な存在だけ助かれば良いという(多くは自己撞着してそうなる)【陰謀論者】も、世界の問題の解決には短絡過ぎる間違った両極端な考え方だと思われています。
今、現在で起こっている問題の解決には、”他者”同調の[理念論者]や、”他者”無視の【陰謀論者】とは、別の解決策が必要だと思われているのです。
その解答を今作の後章では示してくれるという期待があったため、現在の問題の解決策にはならないと思われる【陰謀論者】(≒”世界が滅んでも、大切な身近な人が助かれば良い”)的なセカイ系の着地は、個人的には残念だなとは思われました。
(『天気の子』に比べれば、今作の前章で門出による首相殺害などの[理念の暴走]と(後章で明らかにされる)門出の自死の丹念な描写により、【陰謀論者】(≒”世界が滅んでも、大切な身近な人が助かれば良い”)の考えへの違和感は緩和はされていたとは思われますが‥)
後章のラストは、強大な宇宙船の爆発によって、[理念論者]の竹本ふたばたちが消滅するのに対して、(凰蘭の兄・中川ひろしは消滅しますが)【陰謀論者】の小比類巻健一は(物語の構成上、仕方のない面はあっても)生き残ります。
この[理念論者]の消滅と【陰謀論者】の生き残りという生死の選別は、作者の意図を感じさせます。
自然現象での災害が単に偶然で運命的に生死が分かれるのに対して、その自然災害のメタファーでもあった天空に広がる強大な宇宙船や侵略者の存在から起きたラストの生死の選別は、作者の作為性を感じさせ、前章にあった現在の正確なメタファーから遊離してしまった感想を持ちました。
仮に、門出や凰蘭も分け隔てなく消失したのであれば、かえって2人の関係の「絶対」が浮かび上がり、現在に通じる物語の着地となったと思われます。
[理念論者]や【陰謀論者】でない、現在に耐えうる解決策を考えられなかったのであれば、最後は門出や凰蘭も含めた主要な登場人物のほとんどが消滅した方が納得感があったと僭越ながら思われました。
しかしながらこれら弱点を差し引いても、前章の現在に耐ええる傑作さと合わせて、映画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(前章・後章)は、2024年を代表する邦画になるとは一方で思われてはいます。