「犯罪小説の巨匠パトリシア・ハイスミスの「セクシャリティー」に迫るドキュメンタリー。」パトリシア・ハイスミスに恋して じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
犯罪小説の巨匠パトリシア・ハイスミスの「セクシャリティー」に迫るドキュメンタリー。
ドキュメンタリーとしては、今一つの出来だったかなあ。
とにかく、あまりにパトリシア・ハイスミスがレズビアンだったことに焦点が当たりすぎていて、そちら方面に関心がなく、純粋に彼女の作家性と作品群に興味があって観た人間にとっては、かなり物足りない内容だった。
彼女がレズビアンであったことは、彼女の作品を読み解くうえではきわめて重要な要素だが、彼女自身がレズビアンだったからといって、個人的には正直どうもこうもない。
私生活は好きにしてくれていて一向にかまわないし、良いも悪いもなく、ただ単に、そういうことにあまり興味がない。
要するに、その同性愛者としての彼女の本質がいかに「作品」に反映され、その「作品内に潜む同性愛的要素」がいかに多くの「映画人」を魅了してきたかについてしっかり考察し、ちゃんとせまってくれないと、作家の評伝映画としてはとても及第点とはいえない気がする。
語り口としても、無駄に凝っているわりに、全体的に実に伝わりにくい作りになっている。
それって、ドキュメンタリー映画としてはどうなのか。
まず、中で出てくるモノローグめいた言い回しの数々が、パトリシア・ハイスミスの日記(もしくは著作)から一字一句いじらずに抜いてきたものかどうかが、判然としない。
それから、総じて特定の女優にハイスミスのモノローグをしゃべらせているのだが、本人の映像やインタビューも挿入されるので、作りの音声と実際の音声の区別がつきづらく、いらいらする。観客にとっては、ハイスミス自身の生声と映像は「お宝」なのだから、きちんと「どこからどこまでが現存する実際の記録映像/音声で、どこからが単なる後付けの朗読か」は「演出」で区分できるようにしておくのが礼儀というものではないのか。
次々と登場する「証言者」にしても、関係性についてはすべて「観ながら察してね」といった感じで、具体的なキャラクターの紹介やハイスミスとの馴れ初め、それぞれの「関係」の時系列などについて、ほとんど説明がない。あと親族の血縁関係とかもよくわからない。
監督がわざとやっていることを責めてもしょうがないとはいえ、個人的にはやはりドキュメンタリー映画としては「不親切なつくり」だと思う。
あるいは、彼女の小説を原作とする映画(『見知らぬ乗客』『太陽がいっぱい』『アメリカの友人』『リプリー』『キャロル』)からの抜粋シーンが随所で挿入されるのだが、それがどの映画のどんなシーンで、どういう意図でそのシーンを入れて来たのかを理解させてくれる補助線が、絶対的に足りない。
あと、パンフを読んでいると、パトリシア・ハイスミスを語るうえで欠くことの出来ない重要な同性の恋人たち――キャロルの実質的モデルとされるヴァージニア・ケント・キャザウッドや、画家のアリーラ・コーネルといった存在が既によく知られていることがわかるが、このドキュメンタリーにおいて、彼女たちについてはほとんど触れられない。
つまり、本作の監督は「連絡が取れて無事出演OKになった恋人たち」だけで、パトリシア・ハイスミスの恋多き人生を実質「再構成」してみせているのであって、ハイスミスに与えた影響の軽重を問うことなく、「素材の要請」から逆算してドキュメンタリーを作っているということになる。この姿勢って、観客にとってはかなりアンフェアではないだろうか。
それから、ハイスミスの若き日の写真があちこちに配されているのだが、これらにしても、どういう文脈でいつ撮られたものかをわかるようにしておいてくれないと、ただのイメージカットで終わってしまう。
たとえば、唐突にレズビアン同士の性描写にかかわる証言のさなか映し出される、パトリシア・ハイスミスの美しいヌード写真。あの文脈で出されるとなんとなく「相手の女性が撮ったか、もしくは自撮り」と思うんじゃないだろうか。
しかし、パンフの滝本誠さんの文章を読むと、あれは「当時の恋人(男)の写真家に撮らせていた」ものだという。あれ? バリバリのビアンで男になんか触られるのも気持ち悪いタイプみたいに映画だと描かれてたけど、ふつうに両性愛者だったのか。しかも男に撮らせたヌードとなると、ずいぶんと写真の意味合いも異なって来るように思う。
少なくとも「そういう説明を一切抜きに、情報の断片を監督の好みで操作しながらつくられたドキュメンタリー」というものに、僕はあまり高い価値を見いだせない。そういう映画は、パトリシア・ハイスミスに純粋に興味があって観に来た客にとっては、むしろ有害ではないのか。
結局のところ、本作の場合、僕が素直に受け止めるには、あまりに特定の思想性ととある傾向が強すぎたとしか言いようがない。
レズビアンの置かれていた差別的な時代背景を問題視し、そのなかでもがき苦しみながらもしたたかに生きて来た彼女たちの「連帯」を称揚するのが、作り手の最大の目的になってしまっていて、こちらが期待したような、ハイスミスの人物像と作家的特性に深くえぐりこんでいくような映画になっておらず、すこぶる残念に思った。
自分がパトリシア・ハイスミスの小説のファンだからこそ、彼女の「作家」としての知られざる側面に、もっと光を当ててほしかった。
まあ、パトリシア・ハイスミスが実際には、誰もが崇拝するほどの「猛烈な美人」で、あくなき貪欲な「恋の狩人」で、レズビアン界では常に勝ち組の側にいた、肉食系セクスマニアックだったことがわかっただけでも、得られた知見は大きいんだろうが。
「私が小説を書くのは生きられない人生の代わり。許されない人生の代わり」という彼女の言葉を聞くかぎり、ずいぶんと浮かばれない陰キャの人生を送ったかのように誤解しがちだし、実際そんな浮かばれないルサンチマンを小説にぶつけていたのだとばかり僕も思いこんでいたが、どうやらそうでもなかったようだ。
むしろ、実人生においても主導的に才能を発揮して、大きな成功をおさめ、自ら積極的に動いて多くの女を毒牙にかけ、それでも「孤独」と「酒」のなかで壊れていった人間。
そういう人物が手がけて描き出したのが、22作の長編と短編群からなるパトリシア・ハイスミス作品だということだと改めて定義しなおす必要があるだろう。
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パトリシア・ハイスミスは、日本で過小評価されている作家だと思う。
何故か。有り体に言えば、長編をメインで出している版元が早川や東京創元社ではなくて、河出書房新社と扶桑社だったからだろう(もともとなぜか日本では積極的に紹介されていなくて、それが90年代以降、矢継ぎ早に後発の翻訳出版社によって発掘・紹介されていったという、ジム・トンプスンと似たケース)。
だが、欧米でのパトシリア・ハイスミスの人気は、我々が考えているよりもずいぶんと高い。パンフに記載されている「アガサ・クリスティーと並ぶ人気を誇る」というのは、さすがに言いすぎだとしても(それにクリスティと比するならドロシー・セイヤーズだろう)、とくにヨーロッパでは、誰もが知っているクラスの大作家として扱われている。それはたしかだ。
今回のドキュメンタリーから入った人や、映画『キャロル』から入った人に誤解してほしくないのは、パトリシア・ハイスミスがレズビアンだというのはきわめて重大な作家的属性ではあっても、それゆえに彼女が大作家となったわけではないということだ。
むしろ従来からのファンにとって、それは「あとから追いかけて来た」要素だと言ってもいい。
あくまで彼女は、デビュー作『見知らぬ乗客』(50)が評判を呼び、それがヒッチコックによって映画化されることでさらなる人気を得てキャリアをスタートさせた作家であり、ハイスミス名義の第二作『太陽がいっぱい(リプリー)』(55)がルネ・クレマンによって映画化されてこちらも大ヒット。その結果として、押しも押されもせぬ人気作家となったという経緯だ。
彼女が人気があったのは、映像化に適したリテラリー・サスペンスの作り手として大衆の心をしっかりつかんだからであって、レズビアンだったからではない。
出版順では第二作(52)、実際には『見知らぬ乗客』より先に書かれていたレズビアン小説の嚆矢『 The Price of Salt 』(後年の『キャロル』)が、同性愛者のあいだで人気を呼んで100万部を超える大ヒットになったのはたしかな事実だ。
しかし、それはあくまでクレア・モーガン名義で発表された「パトリシア・ハイスミスのビブリオグラフィ」とは別筋の作品であり、「死後にハイスミス作品として認定された」流れである。我々は欧米におけるハイスミスのキャリアが「それ抜き」で形成されてきたことを忘れてはならない。
逆に、彼女が紡いできた「ほとんど主人公としては男性しか出てこない」20本以上の長編小説群のなかに、レズビアンならではの同性愛的な要素を見出すことは、作品解釈としてはきわめて有意義な営為だと言える。
たとえば、男どうしでそれぞれの妻を殺し合う『見知らぬ乗客』の交換殺人プロット自体に、ホモソーシャルな一面を見いだすことは可能だろうし、さらに一連のトム・リプリー・シリーズにも同性愛的傾向は強固に出ている(もちろんルネ・クレマンもアンソニー・ミンゲラも映画内で十全にそれを表現している)のもたしかだ。
僕はパトリシア・ハイスミス作品のなかでも、とくに『ヴェネツィアで消えた男』(扶桑社ミステリー)という話を偏愛している。これは奥さんに自殺された夫が、奥さんのお父さんに逆恨みされ、撃たれたりモーターボートから突き落とされたりする話なのだが、終盤になってくると、お互いに監視し合い、尾行し合い、殺しを仕掛け合うような妙な展開になってゆく。お互いなんでそんなことをし合っているのかすらよくわからなくなってきて、そこには不思議な連帯感のようなものまで生まれてくる。尾行と殺意のピンポンゲームに二人がだんだんと「馴染んで」それが日常化してゆくという非日常を、ハイスミスの詩的だが乾いた筆致が、歪みをたたえたまま淡々と描き出してゆく。
この二人の奇妙な関係性を「ミステリ」上の文脈だけから読み解こうとしても、結局は「不条理」なるオブセッションとしか言いようがないのだが、ここにたとえば「パトリシア・ハイスミスと年上の愛人ヴァージニア」とか「パトリシア・ハイスミスと一目惚れした人妻キャサリーン」といった「齢の離れた相手への同性愛的な執着と攻撃性」という補助線を引くと、なんとなく体感的に理解できる部分が出てくるのではないか。
これに限らずパトリシア・ハイスミスには、「オブセッション」もしくは「相手への執着」にまつわる物語がやたらと多い。今でいうところの「偏執狂」や「ストーカー」が、当たり前のように作品の主役を張る。現代なら、なんらかの「診断名」がついておかしくないような、サイコパス/ソシオパスと発達障害とボーダーのオンパレードだ。
覗きをやめられない男と、覗かれることをやめられない女。
女を追い続ける男。尾行し続ける岳父。みんなが何かに取り憑かれている。
それを当の登場人物があまりおかしいことだと思っていないらしいのが、いかにもハイスミス調なのだが、そこに世間の悪意やら思い込みやらが加わって、「強烈な悪意」もしくは「悪意の不在」が人々の人生を狂わせ、やがて犯罪の場を生み出してゆく。
底意地の悪さ。道徳心の欠如。狂気の日常化。執着の背後にある盲愛。
パトリシア・ハイスミスのミステリを構築している特徴的な要素の多くが、そのまま実は「レズビアンとしての彼女の生き方、愛し方」の直接的な反映であることは、このドキュメンタリーを観た人なら容易に想像がつくことだろう。
逆に言えば、本作においては、本当はそのへんの創作秘話にもっと分け入ってほしかった、ということだ。
とはいえ、この映画を契機として、もう一度若い読者のあいだでもパトリシア・ハイスミス人気が再燃してくれれば、これほどうれしいことはない。
併せて、『愛しすぎた男』や『ふくろうの叫び』『殺人者の烙印』『ヴェネツィアで消えた男』といった傑作群が再刊されるとなお良いのだが。