「もう一歩なのか、挑戦なのか?」エクソシスト 信じる者 R41さんの映画レビュー(感想・評価)
もう一歩なのか、挑戦なのか?
サブタイトルに「信じる者」とあるように、何を信じていいかわからない現代人に向けられたメッセージが色濃く描写されている。
この作品は初代エクソシストの後継のようだ。
あれから50年 いくつも似た作品が登場したが、初代はその方向性を明確にしたかったようだ。
さて、
キーマンとなる看護師の女性 作品の最後に彼女が警察の取り調べで話したことがこの作品のテーマだ。
「悪ってなんだと思う?」
「人は幸せになりたいという願いとともに生まれ、悪魔はそれをあきらめさせる。でも私たちは出直すことができる。平安も、選び取るもの。そして前に進むこと」
この主張のためにエクソシストというモチーフを使った。
この作品の新しい点は、
司教たちが悪魔祓いなどせず、精神科に任せればいいという決定をした点だ。
これはそのまま現在のアメリカ社会を意味する。頼りになるべきものがならない、もう機能していない。
そして、異教徒を登場させる斬新さ。
民族療法という名でアフリカ系アメリカ人の昔からの悪魔祓い儀式を取り混ぜること。
これはキリスト教社会において大胆な試行だったに違いない。
しかしこのことは「何を信じるのか?」という人々の根源を示している。同時にそれでいいという許容さが感じられる
アンジェラの父ビクターは、ハイチで起きた地震で妻と赤ちゃんどっちを優先するのかという選択をした。結果は赤ちゃんだけが助かった。このことでビクターは神を信じなくなった。このような人は大勢いるだろう。彼はその代表だ。彼が信じたものは神ではなく、妻と娘だけだ。
シスターになるはずだったキーマンの看護師も、キリスト教の定めによって断念した過去を持つが、彼女はキリスト教内部の組織ではなく、キリスト教のみを信じている。
神父は司祭たちの決定を看護士に伝えるが、それが正しいとは思えないことで悩んだ末、悪魔祓いに参加し命を落とす。
彼の信仰と行動は正しかったが、民族療法の魔法陣がベースになっていたため、絶対少女二人に触れてはいけないというのを守らなかったのが死の原因だろう。
アフリカ系アメリカ人のスピリチュアルマスターの女性の信じる神
妻と娘を信じるビクター
キリストを信じる看護師
正しい選択をした神父
悪魔の存在をYouTubeで公表して本まで出版した女性
キャサリンの両親は敬虔な信者のふりをしている「その他大勢」の代表だろう。何かを信じるより「いまだけ 金だけ 自分だけ」の臭いがする。作品上重要な設定だ。
それぞれが明確に信じる者を持っていて、その力が悪魔を打ち負かしたのだろう。
悪魔そのものは「邪悪な何か」でしかなく、そういうものや「神なるもの」が「自分の外」にあるという概念はこの作品を以てしても相変わらずのままだったのだろうか?
悪魔は最後にどっちの娘を助けたいのか選択させる。それが悪魔の罠だということを今や大勢の人々が知っているのだろう。
しかし、キャサリンにとってそれは彼女自身が選択すべきことじゃないのかなと思った。
言いたいことはわかるが、悪魔の思想にブレがあるのだ。
エクソシストというモチーフを使って新しい試みがなされ、それはとても発展的内容だった。
一方、これが最新作であるなら、宗教世界に生きる人々が目覚めるのはかなり先な気がする。
どんな美辞麗句を並べても「信じる」対象が自分の外にある「第三者」的存在にある限り、悪魔の正体はおろか神が何なのかさえわからないだろう。
無論そこにメスを入れるのが、アメリカ社会のタブーだというのは承知している。
しかし、最後に看護師の言った言葉の中に答えが隠されているのではないかと思った。
なぜなら、その事について望むのも、あきらめるのもすべて「私自身」がしていることだから。
このことに気づいてほしいという作品側からの意図も感じ取ることができる。
この真実を語れない悔しさを感じ取ることができるのも、この作品が切り込んだ点だろう。
少し妄想してしまうが、そうであればこの作品が挑戦したことが光って見える。