コラム:佐々木俊尚 ドキュメンタリーの時代 - 第67回
2018年12月10日更新
第67回:私は、マリア・カラス
これまでたくさんのドキュメンタリ映画を観てきたが、これほどまでに美しいドキュメンタリは他に観たことがない。本作の美しさは、圧倒的である。
私は音楽は好きだが、西洋古典音楽の素養はまるでなく、オペラのこともほとんど知らない。マリア・カラスの名前ぐらいは一般的な知識として知っていたが、じっくり聴いたことなんてなかった。アンディ・ウォーホルの「シルバーファクトリー」で流されていた楽曲を集めた4枚組のCDに「恋は野の鳥」と「ミミのアリア」が収められていて、それで聴き込んだことがある程度だ。
そういう無教養な人間がこの映画を観て、それでも予想していた以上にノックアウトされた。
監督が世界中を探し求めたというプライベート映像や、未完の自叙伝の原稿。そして400通を超えるという手紙の数々。恋人への切なすぎるラブレター。それらの朗読と音楽だけで成り立っている。なのに、この映画には物語がある。それはマリア・カラスという人の人生が叙情的な一篇の詩のように成り立っていたからかもしれない。
歌姫としての成功とさまざまな苦闘。ギリシャの大富豪オナシスとの恋。しかしオナシスは米大統領ケネディの未亡人ジャクリーンと結婚し、その事実を彼女は新聞紙面で知るという衝撃──。そういう有為転変の人生のストーリーに、圧倒的な舞台での歌唱の映像や、リラックスした表情で映るさまざまなプライベートフィルムが重ねられていく。観終わったときには、長い長い大河の物語に寄り添ってきたような感覚になってなんだかぐったりしたほどだった。
クラシックの知識はなくてもいい。マリア・カラスのことを知らなくても大丈夫。それでも十分に楽しめるし、予想を超えた感動がやってくるはずだ。多くの人におすすめできる、とてもとても美しく切ない映画。
■「私は、マリア・カラス」
2017年/フランス
監督:トム・ボルフ
12月21日からTOHOシネマズシャンテ、Bunkamuraル・シネマほかにて全国公開
⇒作品情報
筆者紹介
佐々木俊尚(ささき・としなお)。1961年兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科中退。毎日新聞社社会部、月刊アスキー編集部を経て、2003年に独立。以降フリージャーナリストとして活動。2011年、著書「電子書籍の衝撃」で大川出版賞を受賞。近著に「Web3とメタバースは人間を自由にするか」(KADOKAWA)など。
Twitter:@sasakitoshinao