コラム:佐藤久理子 Paris, je t'aime - 第7回
2014年2月27日更新
「風立ちぬ」がフランスで公開 興行成績は「ポニョ」の半分の勢い
「風立ちぬ」がフランスで1月22日に公開になったのを機に、宮崎駿がフランスのマスコミ各誌を飾った。スタジオ・ジブリ、ハヤオ・ミヤザキという名はフランスでもすでにブランドであり、アニメ好きのみならず子どもから大人まで幅広いファンが付いている。だが今回は、昨年9月のべネチア映画祭における突然の引退宣言を受け、ことさら注目を集めた。メディアには、「巨匠の最後の神託」「なぜ『風立ちぬ』はミヤザキの最後の作品なのか」といった見出しが踊り、監督のインタビュー記事も含めてかつてないほどの露出ぶりだった。
もっとも、映画の興行成績自体は宮崎作品のアベレージに比べると低い。公開1カ月後の動員は43万6000人。前作「崖の上のポニョ」が91万7000人だったことを考えると、およそ半分の勢いだ。一番の理由は、本作がこれまでとは趣を異にした大人向けの作品であるということが、前パブの段階で明確に伝わったからだと言える。これまでは子どもが主人公だったのに比べ今回は大人、零戦を考案した飛行機の設計者であり、大正から昭和にわたって日本が刻々と戦争に傾いて行った時代が背景であるために、子ども連れの観客が減り、宮崎アニメを観続けて来たハイティーンから上の層だけになった。
もうひとつの理由は、モラルの面で本作が曖昧であるという点だ。否、曖昧というよりは描かれていないといった方が適切かもしれない。零戦の設計者であるにも拘らず、二郎が自分の創作したものがもたらす重大さに苦悩する場面はあまりなく、代わりに創作にかける夢、その努力、そして美しくも悲劇的な男女の恋愛という面が強調されている。とくに子どものように純粋に夢を一途に追いかける二郎のキャラクターは、その純粋さゆえに両刃の剣であり、フランスの観客にしてみると、時代が時代だけにいささか無責任な大人に見えてしまうようだ。
誤解のないように言っておくと、宮崎監督が平和主義者であることはこちらでもよく知られているし、本作がナショナリスト的な視点でないことぐらいは、フランスの観客にも理解されている。ただ、レジスタンスの歴史を誇りにし、日頃から政治意識が高く何かあればすぐにデモを繰り広げるようなフランスの国民にとって、実際に声に出さない、主張しないのは、考えていないのと同等ととらえられてしまうようなところがあるのではないだろうか。
批評家の評は総じて良かったものの、これまでの作品と比べると温度が低いのは否めない。全国紙ル・モンドの批評家ジャック・マンデルボムは、「飛行機の創造者とその創作の帰結、現実の世界とが乖離しすぎている。彼の創作がもたらす結果の政治性が描かれていない。宮崎にとってこれまででもっともパーソナルな作品であり、おそらく監督は自身の内面を考察したと思うが、逆説的にこれまでの作品よりもうまく機能していない」とコメントしている。本作に関東大震災が描かれているのも、こちらの観客にとっては福島の惨事を想起させたようだ。また軍国主義に傾く日本社会は、今の政権の姿とオーバーラップするという声もあった。そういったさまざまな面で、半透明で暗い映画というイメージを一般に与えてしまったのかもしれない。
一方、フランスのマスコミにおける宮崎監督の発言は、日本のマスコミのそれよりもさらに政治的になっている印象があった。たとえば引退を決意した個人的な心境よりも、今の政権に対する批判、日本の将来に対する悲観的な展望などが、歯に衣を着せることなく語られていた。
「風立ちぬ」が今年のアカデミー賞のアニメ部門にもノミネートされたように、宮崎駿はおそらく現代の日本の監督でもっとも世界的に有名な巨匠と言える。その最後の作品は、これまでとはまた違った意味で、人々の胸に残り続けるのかもしれない。(佐藤久理子)
筆者紹介
佐藤久理子(さとう・くりこ)。パリ在住。編集者を経て、現在フリージャーナリスト。映画だけでなく、ファッション、アート等の分野でも筆を振るう。「CUT」「キネマ旬報」「ふらんす」などでその活躍を披露している。著書に「映画で歩くパリ」(スペースシャワーネットワーク)。
Twitter:@KurikoSato