コラム:佐藤久理子 Paris, je t'aime - 第45回
2017年3月30日更新
パリの伝説的名画座消失に見る、名画座受難時代
パリの独立系ミニシアターの中でも、その東洋的な寺院風の建物がひときわ異彩を放っていた7区の映画館、エトワール・パゴド(Etoile Pagode)が、ついに閉館に追い込まれた。歴史ある映画館が閉館したことへの悲嘆の声と、近年とくに痛みが激しくかつての面影を失っていたにもかかわらず、何の対策も打てなかった経営陣に対して、業界内からは非難の声もあがっている。
そもそもこの建物の由来は1895年に遡る。当時この場所の地主だったのが7区の百貨店ル・ボン・マルシェのディレクター、フランソワ=エミール・モラン。ジャポニズムが流行だったパリで、彼が社交家の妻への贈り物として寺院風の建物を建築家のアレクサンドル・マルセルに依頼して出来上がった。完成間もなく妻は夫と離婚し、彼の共同経営者と再婚するが、場所はそのまま受け継がれ、1917年に彼女が亡くなった後も、夜会などの社交場として使われていた。その後27年に閉鎖になるも、31年に寺院部分はそのままに公共の映画館として生まれ変わる。もっとも、第2次大戦の占領下には再び扉を閉め、フランス開放とともに44年に再開。56年には正式に、フランスのcinemas d'art et d'essai(名画座)に指定され、映画愛好家のたまり場となる。ジャン・コクトーがその遺作となった「オルフェの遺言」のプレミアを開催するなど、特別なイベントの場所としても利用された。
わたしも何度も足を運んだことがあるが、とくに「日本の間」と名付けられたシアターは、ゴールドを貴重にした装飾や壁の瀟洒なタピストリーなど、当時のジャポニズムの雰囲気を擁し、豪華な劇場のようだった。歴史的建造物に指定された庭も、静寂に満ち、まるでアジアのどこかの寺院にタイムトリップしたような気分にさせてくれた。
97年から3年間、修復のため閉館となり新たにオープンした後、近年は地主と映画館経営者のあいだで家賃などを巡る争いがあったという。一時は再オープンの噂もあったが、昨年ついに備品などが競売に掛けられるに至った。部分的には歴史的建造物に指定されているとはいえ、今後この場所がどうなるのか、まだ明らかにはなっていない。
フランスの名画座の認定には細かい規定があり、認定されればCNC(フランス国立映画センター)からの援助金を受けられるが、それでも昨今、シネコンが増えて観客の嗜好もハリウッド大作や娯楽系コメディに流れるなか、維持していくのは容易ではないようだ。かつては監督の名前で固定客が呼べたものの、そうした作家主義的な監督自体がいま、多くの観客を集めるネームバリューを以前より持たなくなってきているという悲しい状況がある。加えて資金集めも難しい。テレビ業界からの潤沢な出資を得ようとすればスターを使うことが条件になり、自由を得るなら必然的に低予算が条件となり、広告費も掛けられない。さらにネットフリックスやAmazonプライムなど、テレビシリーズの攻勢も追い打ちをかけ、観客のテイストが変化しつつあるのは否めない。
パリにおける名画座の数は現在35館(2016年の認定に拠る)。プログラムに個性を出すのはもちろん、名画座の中には地域に根ざしたイベントを心がけ、地元の顧客を掴もうとしているところもある。エトワール・パゴドの例は特殊とはいえ、その消失が名画座受難を象徴していることは確かだろう。(佐藤久理子)
筆者紹介
佐藤久理子(さとう・くりこ)。パリ在住。編集者を経て、現在フリージャーナリスト。映画だけでなく、ファッション、アート等の分野でも筆を振るう。「CUT」「キネマ旬報」「ふらんす」などでその活躍を披露している。著書に「映画で歩くパリ」(スペースシャワーネットワーク)。
Twitter:@KurikoSato