コラム:メイキング・オブ・クラウドファンディング - 第1回
2015年6月8日更新
大事にしているのは、出演者とのイメージを共有していく作業
大高:イメージに合った俳優をキャスティングできた場合、演技については役者にお任せしたりするのでしょうか?
吉野:僕は俳優に「思ったままにやってください」って言うことが、監督としてなにかを放棄している感じがしちゃうんですよ。信頼関係が十分に育ち、配役についての認識が完全に同じであり、理解が進んでいればお任せしてしまうと思うのですが、僕はそこまで心が広くない。
だから、映画を撮影するときは、稽古前に、主要な役の人、今回は喬太郎さんと娘さん役、そして僕とでキャラクター作る日を作ります。主人公はどこで生まれて血液型は何型で、みたいなことをお互いに確認して、イメージを共有していく。「彼はこういう性格だから、じゃあセリフはこう変えましょう」、「この動きはこうしましょう」と、そこで一緒に人物像を作り上げる。この作業をやっていないと、後々、自分と役者さんとの認識のズレが怖くなってくるんですよね。
壱岐:監督の仕事ってバランサーだと思います。みんな同じ脳にするするために、あの手この手を尽くすというか。だから、性格や血液型を設定していくことなどすごくよくわかる。僕は今回、主演の2人はカップルの設定なんですけれども、ぜんぜん違うバックボーン出身なので、一回二人で飲みに行ってくれ、と頼みました。身の上話を共有してくださいって、そういうスタイルを取りました。
ですから、役者には解釈を求めていますね。撮影するとき、「このシーンはこういう解釈で撮るけれども、あなただったらどういう解釈でする?」って聞きながら。そこで、誤差を減らしていく。自分が想定していない解釈で名演技されてしまうと、そのあと繋いだときに意味が変わってきてしまう。だから、バランスをとても大切にする。
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大高:おふたりとも非常に丁寧に役について構築されるんですね。
最近だと沖田修一監督の「滝を見にいく」(MotionGallery)を見ても思いましたが、ワークショップなどで時間をかけて役を構築するプロセスを踏んだ作品からは、やはりパワーを感じます。
壱岐:どの現場も普通はそうやっていると思っているんですけれども、大きな現場になり、出演者さんも大物になってくると、稽古など拘束がからむとギャラが嵩むこともあるから、いきなり本番を迎えてしまうこともある。それって、製作者サイドにも、出演者にとっても酷だと思うんですよ。とても難しい役を与えられて、いきなり現場で「はい!スタート!」って言われても……って。たとえば、身内を亡くして泣くシーンがあるとして、それをいきなり演じるにも、非常に繊細な問題を孕んでいます。こだわりと言うか、その役者さんの経験値から生まれたパーソナルな家族像も含まれるし、無限の解釈の仕方がある。だから涙の流し方も無限にあるわけで。だからこそ、本当に売れている方々は、非常に反射神経求められるし、大変だなと思います。
吉野:それこそ2時間ドラマの現場などだと、芝居も撮り方もフォーマット化されている。だから、演技もその場ですぐにぱっとできる。見る方もフォーマット化されている演技のほうが見やすかったりする。いまの映画も、似たような状況が起こってしまっていますよね。
壱岐:オーディションで、酔っぱらいの演技を求めると、片手でおみやげを持って千鳥足で歩く人もいる。自分の感覚の範疇でしか芝居をしない。こういう前事情があって、お酒を飲んで、酔っぱらっているんですよ、と説明しているはずなのに、ただ千鳥足。生い立ちによっても、職種によっても、立ち寄った店によっても、酔い方が変わってくるはずなんです。世間に対する想像力がないと、芝居が通り一遍になってしまう。
吉野:僕は、日本の映画学校に通っていたとき、ずっとアメリカで勉強していた若手のディレクターの作品撮りの手伝をしたことがあるんです。そのとき、監督コースの授業について、日米の違いを伺ったんですが、印象的だったのが「むこうには演出理論のマニュアルがある」ということ。そして、そのマニュアルの最初に「演出は抽象言語を使わない」と書かれてあるということ。「もっと感情的に」というような演出の仕方はしてはいけないそうなんです。「ここは歩きながら俯いて、立ち止まって話す」みたいに具体的な演出が求められている。もちろん、アメリカは多民族国家で、コミュニケーションにわかりやすさを非常にもとめる場所であることもありますが、とても腑に落ちた。
壱岐:その点、落語家の演技って非常に論理的というか数学的だと思います。
せっかちな人物がいるとする。そのせっかちさを表現するために落語では「その人の視界」をイメージして動け、と言われています。探しものをしているとき、タンスのひきだしを引いても、「どうしよう、どうしよう」と焦っているから視野が狭くなり、入口しか見ないですぐに閉めちゃう。状況や精神状態を分析し、分類して演じているんです。左脳を回転させて演技しているんですね。その点、到達したいテーマに向かって、きちんと状況を分解しながら、物語の最後へ向かっていくところが落語と映画の共通点だと思うんです。
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(後編に続く、後編は7月中旬頃UP予定です)
ポール・トーマス・アンダーソン監督の「マグノリア」から、これからの日本映画の作り方について話が及びます