劇場公開日 2023年8月4日

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インスペクション ここで生きる : インタビュー

2023年8月3日更新

母との衝突、ホームレス生活、海兵隊志願――エレガンス・ブラットンが“衝撃の実話”を映画化するまでの軌跡

エレガンス・ブラットン監督
エレガンス・ブラットン監督

ゲイであることで母親に捨てられ、16歳でホームレスに。そのまま10年という長い年月を路上で過ごした後、生きていくために海兵隊への入隊を志願した…そんな驚きの実話を映画化したのが「インスペクション ここで生きる」(8月4日公開)だ。

上述の出来事は、監督のエレガンス・ブラットンの身に起きたこと。映画では、青年・フレンチ(ジェレミー・ポープ)の姿を通じて、その“実体験”を描き出している。壮絶な経験から生まれた物語は、「ムーンライト」「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」といった革新的な作品を送り出してきた映画会社A24の目に止まり、世界へと羽ばたくことになった。

今回、オンラインでのインタビューに応じてくれたブラットン監督。ホームレス生活&海兵隊時代の思い出、映画監督に至るまでの流れ、さらに“最愛の人”との製作秘話や、複雑な関係が続いていた“亡き母”への思いを打ち明けてもらった。

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●なぜ10年間ホームレス生活が続いたのか? 心の拠り所になった「クリストファー・ストリート・ピア」

――ブラットン監督のバックグラウンドについてお聞かせください。16歳でホームレス生活となり、そのまま10年間過ごされています。ホームレス生活に足を踏み入れることになった経緯、そしてなぜ10年間もその生活を続けることになったのでしょうか?

まずはホームレス生活についてご説明しましょう。実は10年間、ずっとシェルターにいたわけではないんです。16歳の時、母親とケンカしました。当時、ある男の子が私に恋愛感情を抱き、電話をかけてきました。これまでにもそういう経験はあったのですが、他の人たちは自身がゲイであることを隠していましたし、私の母親にもそういう態度で接していました。ところが、その時に電話をかけてきた男の子は、あからさまにゲイであることを示してしまいました。母はそこから何かを感じとり、私に問い詰めました。そこで私自身がゲイであることがバレてしまったんです。

母はその告白を受け入れることはなく「あなたはストレートだ。ガールフレンドを作りなさい」と言ってきました。実際、高校でも女性にモテていたのですが、これまでは(そのアプローチを)さりげなく避けていました。母の提案を拒否したところ大ゲンカになり、家を追い出され、ゴミ袋に荷物をまとめて、駅に向かったんです。

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その頃はニュージャージーに住んでいたのですが、ニューヨークに向かうことにしました。現地に着くと、3人のゲイの男性が歩いていたので、彼らのあとについていきました。辿り着いたのは「クリストファー・ストリート・ピア」。そこはいわゆる“セクシュアル・エグザイル”によって難民になった人たちが集まってくるエリアでした。そこに行くと、初めてゲイである自分を受け入れてもらったんです。これまで隠していたことを素晴らしいものだと認めてくれ、興味を持ってくれた。そういう人々や世界があることがとても新鮮で、しばらくの間、滞在することにしました。

ですが、お金はどんどん無くなっていきます。自分の服などを売って生活費を稼いでいたんですが、やがて限界を迎えました。そこでひとまず母のもとへと戻ることにしました。「どうしても実家に住みたい」と願い出ると、母は「じゃあガールフレンドを作れば?」と。仕方がないのでその提案を受け入れましたが、結局数カ月しかもたなかったんです。

そこからまた家を出ることになりました。それが18歳の時。その頃、家というのは、たまに帰って、シャワーを浴び、何かを食べる程度の場所になっていました。自分にとっては“ホーム”とは言えない場所になっていたんです。

そういうことを繰り返しているうちに、無邪気な10代ではなくなりました。家にも帰れなくなり、色々な人の家を転々とするような日々が続き、25歳くらいの時には、シェルターに入っていました。そういう生活を送っていたんです。

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例えば“別の道”があったかどうかについて。家を飛び出したのは16歳です。家を借りるにも資金はなく、大学も出ていないので、そんなにお金を稼ぐことはできませんでした。貧困というのは、そこから抜け出せなくなると、逆にお金がかかってしまうものなんです。友達に頼らなくてはいけませんし、自信も失っていきます。自分の中の怒り、母から突き放された悲しみを乗り越え、プラスの感情に持っていくことができませんでした。ですから、そこから一歩を踏み出すというのは難しかったのだと思います。


●海兵隊在籍中は映像記録を担当 軍での経験が「“今”に繋がっている」

――その後、米海兵隊に入隊されています。海兵隊在籍中は、フィルムメーカー(映像記録担当)の任にあたっていたそうですが、主にどのような仕事だったのでしょうか。そして、映画製作に傾倒していったきっかけはあるのでしょうか?

海兵隊の経験が“今”に繋がっています。当時は記録映像やドキュメンタリー、武器の使用方法や解説などを行う映像を作っていました。あとは上官たちの退官式の映像を撮ったりもしていましたね。ある上官が退官式用の脚本を自ら書いていて、それを私に渡してきたということがありました。「なんで私に渡すんだろう?」と考えた時、彼は私のことを映画監督として見てくれているんだと思いました。映像を作っていましたから、そういう風に見ているんだろうなと。そこで(人生の選択肢として)映画監督という候補が浮かんできたんです。

兵士たちは、男女ともに鍛えていますので「美しい」と感じていました。彼らの美しさを引き出すように撮っていたのですが、それが軍の外でも話題になり、軍務以外の仕事が入ってくるようになりました。ハワイに滞在していた時は、音楽ジャーナリストとしての仕事もきました。バッド・ブレインズ、ア・トライブ・コールド・クエスト、フロー・ライダーなど、今となっては有名になったアーティストのインタビューをしたり、彼らの写真を撮ったりしていて、それも評判を呼んだんです。

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ハワイの後はニューヨークに異動になりました。そこには憲兵として配属されていたので、時間に余裕があったんです。そこで自分のアーティスティックな一面を伸ばしていきたいと思ったので、カメラを購入し、技術を習得していきました。

その後は、コロンビア大学に入学します。そこで気づかされたのは、コロンビア大学には裕福な学生が多いということ。自分はブルーカラー出身なので、労働時間の分だけしかお金を得ることができません。ところが、そこには、いわゆるアメリカの1%の家庭に生まれた人々が多かった。そこにショックを受けました。

社会学の授業において、ソーシャルネットワークに関するエッセイを書くという課題が出されました。ソーシャルネットワークといえば、自分にとっては「クリストファー・ストリート・ピア」。そこで生まれた関係性のおかげで“今の自分がある”と思っていたので、そこに関する物語を作ることにしました。「クリストファー・ストリート・ピア」にいた時、私と同じ人々がいる、同じストーリーを持っている人々がいる――それが心地よかったんです。その経験がドキュメンタリー作品「Pier Kids」へと繋がっていきます。彼らのストーリーを伝えたいと思ったのです。

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でも、編集の仕方がまったくわかりませんでした。そこでニューヨーク大学(ティッシュ校大学院映画学科)に進学して、技術を学ぶことにしました。そこで学んでいくうちに、映画監督として映画を演出することの心地よさを感じ「やっぱり自分にはこれが向いているのかもしれない」と感じ始めました。

つまり、海兵隊での経験がドキュメンタリーへと繋がり、フィクションの映画へと至ることになったんです。


●アニマル・コレクティヴの音楽→提案してくれたのは「人生で最も愛している人」

――アニマル・コレクティヴによる音楽が非常に印象的でした。この起用については、監督のパートナーであり、プロデューサーのチェスターさんのアドバイスだったそうですね。チェスターさんは、あなたの人生にとってどのような存在なのでしょうか?

チェスターは、夫であり、人生で最も愛している人であり、ミューズ、インスピレーションの源、親友、そして“世界で1番ハンサムな人”だと思っています……(インタビュアーに対して)ごめんなさい、あなたは“2番目”になってしまいますね(笑)。

また、クリエイティブパートナーでもあります。私が書き、彼がプロデュースを行っています。おっしゃる通り、アニマル・コレクティヴの起用は、チェスターが勧めてくれたものです。実はボルチモアに家を購入したんです。このインタビューも、自宅からオンラインで受けています。そして、アニマル・コレクティヴもボルチモア出身です。

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彼らのアルバム「Merriweather Post Pavilion」を聴きながら、本作の脚本を書いていました。メロディも好きですし、歌詞も(作業の)邪魔にならないんです。そのように繰り返し聴いていましたし、チェスターに「音楽をどうしようか」と相談したところ「アニマル・コレクティヴもボルチモア出身だし、コラボしてみたら?」と提案されました。思い切ってA24を通じて連絡を取ってみたところ、前向きな返事をもらい、サントラをお願いすることになりました。


●映画完成前に母が亡くなる 遺品整理をしていると、驚きの出来事が……

――本作の製作中、ブラットン監督のお母様は亡くなりました。“実話”を映画化した本作について、何か共有していましたか?

母とは18年間、面と向かって話すことはありませんでした。でも、嬉しいことがあると、彼女に電話をかけていました。出てはくれないので、メッセージを残していたんです。コロンビア大学に入学した時や卒業した時、「Pier Kids」の製作費が獲得できた時、ニューヨーク大学に入学した時や卒業した時も。短編映画が映画祭で上映されて受賞した時にも、母にメッセージを残していました。

劇中で母を演じているのは、ガブリエル・ユニオンです。配役の理由のひとつに“母がもっとも好きな女優だった”というものがあります。どこかの誰かが「ガブリエルがあなたを演じている」と伝えてくれて、映画を見てくれないだろうかと。観客と同じようなリアクションや感情を抱いたことで、私と母の関係性が変わればいいなと思っていました。そんなかすかな願いを持って、この映画を作ったんです。

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しかし、母は撮影に入る直前に亡くなってしまいました。

彼女の遺品を片付けるため、家に行きました。ずっと足を踏み入れていなかった家です。人間というのは不思議なもので、生きている間はいくつもの皿をジャグリングしながら平気な顔をして生きています。ところが、亡くなった途端、その皿は床に落ちて割れてしまう。そして、誰かがその皿の破片を片付けなければいけません。私は、母の家に皿の破片を片付けにいったのです。

それを片付けることによって、母がどういう人生を歩んできたのか、どういう苦労をしていたのかが次第に見えてきました。その過程で嬉しい驚きがありました。私の作品のことについて取り上げている新聞記事の切り抜きがたくさん出てきたんです。ネット上に出ている記事のプリントアウトや、キーチェーンにつけられた海兵隊時代の写真を見つけました。

面と向かって話すことはなかったですが、私の成功を追い続け、喜んでいたのだと思います。

(取材・文/映画.com編集部 岡田寛司)

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