エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命のレビュー・感想・評価
全52件中、21~40件目を表示
壮大なストックホルム症候群
スピルバーグが映画化しようとしたという事なのでかなり有名な話だと思うのだが全く知らなかった。
教会や神父の立ち合いもない遊びの様な洗礼のされ方でも認められるという事に驚くが、洗礼された事もちゃんと中央に知らされている事にも驚いた。
信仰さえなければ寝食や教育もたタダだし、家族とも自由に会えるのである意味ラッキーな訳だか、いかんせん異教の敬虔な信者なので事は重大。
幸せになる為の信仰だと思うが、しばしば手段が目的となり争いやトラブルを起こしがちなのでいつも怖さを感じる。
親子が似てればもう少し同情できたかも。
教皇は人間味があって良かったw
ラストで今際の際の母親に改宗させようとする姿にはさすがにゾッとした。
子供泥棒
イタリア共産党の党員もしくはシンパだった映画監督は非常に多い。ヴィスコンティ、パゾリーニ、アントニオーニにロッセリーニ、現役のナンニ・モレッティなんかも確か共産党出身の映画監督である。そして、そのイタリア共産党とは敵対関係にあったバチカンによる誘拐事件を扱った本作の監督マルコ・ベロッキオもまた、イタリア共産党出身の映画監督てあることをまず頭にいれておかなければならない。
19世紀中頃、フランス2月革命の影響を受けたイタリアでも自由主義運動が勃興し、保守反動的なローマ・カトリック教会と対立する。裕福なユダヤ人家庭から6歳の男の子エドガルド・モルターラを拉致誘拐、子供を解放する条件として一家のキリスト教改宗を迫った実際の事件を映画化している。歴代最長在位期間(31年間)を誇る時のローマ教皇ピウス9世の頭には、(洗礼云々はもちろん口実で)弱体化著しかった教会の権威回復が目的としてあったのだろう。要するにみせしめである。
84歳を迎えたイタリア人巨匠が、スピルバーグでさえ映画化を諦めたと伝えられる史実を、なぜ今頃になって映画化しようと思いたったのであろうか。現在ガザへの大規模侵攻により世界中から大バッシングを受けているイスラエルと何かしら関係があるのだろうか。尊敬する兄貴をエンデベ空港でアラブ人に殺された私怨を決して忘れないネタニエフを、今更擁護(あるいは批判)しようとでもいうのだろうか。いつのまにかゴリアテと化してしまったダビデに本気で同情する者などほとんどいないにも関わらず。
私は本作を見ながらデ・シーカの『自転車泥棒』をふと思い出したのである。“盗られたら盗りかえす”資本主義の愚かさを皮肉った映画として知られている名作だ。本作の場合、盗まれたのは“自転車”ならぬ“6歳の男の子”なのだが、ユダヤ人家族とローマ教会の間で争奪戦を繰り広げる様子がとてもよく似ているのである。子供は親のものなのかはたまた神のものなのかという、資本主義が認めている私有財産制度に(今更ながら)疑問を投げかけた作品だったのではないだろうか。
誘拐事件を例に自由主義者たちからやり玉にあげられる度に、無原罪のおん宿り儀式などをとり行って体面を保とうとするピウス9世が、しごく滑稽に描かれている。そんな教皇勢力にすでに洗脳されてしまっている“生身の人間(エドガルド)”を取り戻そうと躍起になるモルターラ一家。そもそも私有財産を認める資本主義自体に欠陥があるのか、それとも意志のある人間を“もの”のように奪い合いすることが間違っているのか。世界中に無批判的に受け入れられているこの自由主義の“教義”を、そろそろ疑いはじめていい頃なのかもしれない。
やるせない...
数奇な話が実話だもんな…
教皇が憎たらしくて…
心の中で、気持ち悪っ!て何度つぶやいたことか…
これは、もう拉致監禁洗脳だよ…
6歳だよ…
やっぱり、長い年月を掛けて、
本人はそれが日常になっちゃったら仕方ないよな…
やるせなさしかないや。
このような宗教がテーマの作品は、
いくつか観る機会があり学びにはなりますが、
毎回、あまり理解や共感ができないです…。
作品としては、
子役やお父さんお母さん、宗教関係者たちの演技や、
映像や装飾、音楽など
とても興味深く観ることができました。
ユダヤの子
あまりにも理不尽、非道、何の権限があってというか、当時のカトリック教会はすごい権限があったんだな。
信者の方たちには悪いが、あいつらならオーメン・
ザ・ファーストでやったこと実際にやるだろうなと思ってしまう。
これでまた教会離れが進むだろう。
描かれている事件には憤りを禁じ得ない、エドガルド本人や両親、兄弟の気持ちを思うとつらくてやりきれない。
映画は、映像・音楽・俳優、みな素晴らしい。
特にエドガルドを演じた少年と青年、母親役の凛とした美しい顔と眼力(めぢから)。
十字架に磔けられたイエスが、エドガルドに手足に打ち付けられた杭を抜いてもらい、自由になって歩き去る姿が幸せそうに見えた。
ユダヤの子イエスも、ある意味(キリスト教に拉致されて)キリスト教のシンボルとされていたということか。
こんな教皇は川に捨ててしまえ!
エドガルドの叫びが頭から離れない。
ユダヤ教vsキリスト教と洗礼は洗脳の始まり
宗教に全く詳しくない私でも、なんとなく理解できた❗
ユダヤ人夫婦(家族は全てユダヤ教)の間に生まれた何番目かの子供に、お手伝い❔(キリスト教徒)の手ぐせの悪い女性が、人の赤ちゃんだというのにも関わらずキリスト教の洗礼をしてしまったことで、話が始まる(ユダヤ教→キリスト教に改宗)
これを知ったキリスト教のトップは、こともあろうか七歳にも満たないその子を誘拐(この時期はキリスト教が法律も定めていたようだが… 刑法224条だったかな?7年以内)し、キリスト教に洗脳させていくという…
何度か迷いはあるものの、最終的には…宗教二世問題もあるなかで、興味深い内容でした ま、日本の天皇も昔は神だったのだし、そのおかげて第二次世界大戦にどれくらいの日本人が命を落としたことか… テムズ川ならぬ淀川にでも沈めたい気がするのは…
ユダヤ教から派生したのがキリスト教とイスラム教というのも勉強になった
子供がキリストの釘を抜くシーンは見所です❕
何が正しいのか判らなくなった
保護する者の了承を得ることなく受けた洗礼によって、自分を中心とする世界がガラリと変わってしまった彼。未就学の頃から隔離された生活を送っていれば、成人になる頃には、すっかり「洗脳」されたようだった。何を信じるか、どう解釈するか、宗教の教義を理解するのは難しい。
ラストのシーン。
臨終間近の母親に洗礼をしようと聖水を見せた時の、母親の眼光が一番怖かった。
さすがの巨匠(マエストロ)
本作公開週、GW狭間の平日サービスデイのヒューマントラストシネマ有楽町の午前回の客入りはまあまあで、全体的に年齢層高めです。
イタリアの巨匠マルコ・ベロッキオ作品と言うことですが、私は同監督の旧作を1作品しか観ていなかったため、予習として前日に追加で2作品を配信で鑑賞。結果として、そのうちの1作『シチリアーノ 裏切りの美学』は本作とフォーマットが似ていたため、いい予習になったと思います。
そもそも、1860年頃のイタリア(統一運動の終盤であり、大きな転換期)であったり、その当時における宗教の影響力など殆ど知識なく観ている私には非常に難しい題材。特に状況の理解が必要な前半は集中力が要りますが、中盤以降の展開はドラマチックで目が離せず楽しめます。というのも、本作、史実をもとに作られたとありますが、その背景としての当時イタリアにおける「地政学的事情」と「宗教(法)」を除けば、現代的にも置き換えられる普遍性があり全く特殊性や古さを感じません。さらに、そのドラマを惹きたてるファビオ・マッシモ・カポグロッソの劇伴がまた効果的で素晴らしい。世界観も含めて演劇でも楽しめると思える脚本と演出になっています。
正直に言えば、観る前はここまで楽しめるとは思っていませんでした。巨匠(マエストロ)、大変失礼いたしました。もっと勉強いたします。
カトリックの権威とは?
あのスティーブン・スピルバーグも映像化を試みようと資料を独占していたにも関わらず映像化は難しいと断念させたという難題をベロッキオ監督が実現させてしまったのが今作品である。
時は1858年(日本は安政5年=江戸時代)のイタリア・ボローニャ。ユダヤ人のエドガルドが7歳にも満たないときに、生まれたときに秘密裏にカトリックの洗礼を受けていたために、熱心なユダヤ教徒だった両親から引き離される形で連れ去られてしまう。
時はイタリア統一運動が盛んに行われる中でカトリックの権威でもあるバチカンの神威が次第に薄れゆく中で、意地としてでもバチカンの権力を見せつけたかったのでは?という内容。
結局モルターラ家に帰ることは許されず、洗脳されたエドガルドはカトリック司祭となり布教活動に生涯を捧げて終わりのエンドロール。
バチカンの闇は根深いとは云うが、当該作品もバチカンが権力を維持したいが為にお金を払ってまで洗礼を受けたことを理由に両親から引き離すのはあまりにも理不尽である。青年期を迎えたエドガルドが教皇ピウス9世に対して突き倒したのは今までの事に対する抵抗を示したかったのか、ピウス9世が他界して遺体を運ぶ際に反乱が起きたときでも川に突き落とせばと再び抵抗する姿勢を見せながらのカトリックという地獄から抜け出せなかった。
良い子にしていればという、あのセリフがあるのとないのとでは顛末は違っていたかもしれない。
2023年。マルコ・ベロッキオ監督。19世紀後半、カトリックの教皇...
2023年。マルコ・ベロッキオ監督。19世紀後半、カトリックの教皇が世俗権力(教皇領)をもっていたイタリアで、ユダヤ人の子どもがカトリックの洗礼を受けていたという訴えがあり、教会権力が少年を家族から引き離して連れ去ってしまう。教皇の元でカトリックの教育を受けて次第に厳格なクリスチャンになっていく少年と、少年を取り戻そうとするユダヤ人家族。やがて教皇の権力は縮小し、イタリアは世俗的に統一されていくのだが、、、という話。
政治方面(教皇、王国、共和派の三すくみの対立から国家統一へ)にはほとんど触れず、カトリック教会とユダヤ人家族の対立に焦点をしぼっている。その分、わかりやすいところもあれば、わかりにくいところもある。カトリックの「無謬性」に現代的な政治感覚でメスを入れているのだが、かたやユダヤ人の母親の頑なさもすごい。譲れない原則は人を不幸にするのだ。
重厚な歴史犯罪ドラマ。甘ったるいものの見方が意味を持たないことを徹底的に思い知らされる。
さすがイタリア。ロケ場所には事欠かない。室内、室外ともに重厚な映像が展開する。そして音楽。生ぬるい耳障りの良い映画音楽に慣れた我々の耳には音量も大きく不協和音のように聞こえる音楽が随所に使われている。それはこの映画が史実には基づいているものの不条理な物語であることを強烈に印象づける。
邦題は「エドガルド・モトローラ ある少年の数奇な人生」。少年時代の純粋さ、可愛らしさと、青年になった後の複雑というかややひねくれたような彼の人となりを配してエドガルドの人生を追いかけていることは間違いない。でもこの映画は彼の人生を甘酸っぱく回顧するためのものではない。彼の人生は教皇、もしくは教皇庁によって形づくられた。その本質は何か。原題の「Rapito(誘拐)」の通り。犯罪である。つまりこの映画は教皇ピオ9世の行った犯罪を告発している。
洗礼を利用して子供を取り上げる、このことに本質的なキリスト教の非人間性を指摘するレビューがあるがそれはあたらない。歴史上、事例としては他にもあるにはあるが、ピオ9世が教皇だったこの時代ほど頻繁に、確信的に、組織的に、児童誘拐がなされたことはなかった。
ピオ9世の時代はイタリア独立戦争の真っ最中であり教皇領は日に日に縮小する傾向にあった。世俗勢力と戦いを続ける教皇の編み出した作戦の一つが有力者の子弟を集めた神学校をローマにつくることだった。いわば人質である。そしてこの頃、エドガルドの出身地であるボローニャをはじめとしてイタリア各都市の裕福な実業家はユダヤ人が多かった。ユダヤ人の子供を集める方法として洗礼を受けさせるという手段が編み出された。エドカルドの場合は金欲しさの使用人と土地の司祭が結託して一芝居打ったものだろう。
もちろんこれは異教徒に対するカソリックの寛大さをアピールする目的もあったようだが、エドガルドの場合は米英のユダヤ人社会までこのことが伝わりネガティブな評価がされたという点で全くの失敗だった。これが後々、教皇のエドガルドへの態度に表れるところが実に胸くそ悪いのだが。
まあ、一つの時代の一つの挿話として観るべき映画だと思う。ローマをはじめとして各都市にユダヤ人の協会がありユダヤ社会が形成されているところも面白かったけどね。この時代になるとユダヤ人はゲットーを出て一般社会に溶け込みはしていたようです。でもやがては両社会のズレというかひずみが大きくなりそれがジェノサイドに向かっていくのだけと。
ローマ教皇を市民が平気で攻撃できる空気感にビックリした。
(60代男です)
僕には宗教の無意味さを描いたものに見えた。
主人公は6歳の時の拉致さえなければ、両親の教え通りユダヤ教を信じていたはずだ。
それがバチカンで育てられたから、キリスト教徒になった。
もしチベットで育てられれば? バグダッドで育てられれば?
つまりそれは、周囲の人間による洗脳にすぎない。
誰に洗脳されたかの違いによって、対立し、憎み合う。
どうしてそれが人間にとって大切なことだ、などと思う人がいるのだろう?
本作は社会派の問題作だが、作者は娯楽作品の作り手なのがいい。
ただリアルなだけの退屈な作品にはなっていない。
演技も演出も、娯楽映画として面白く観れるように作られているのが長所。
無駄なセリフもなく、非常に分かりやすい。
ただ、終盤で、教皇の遺体が運ばれるのを市民が襲撃するという場面で、必死に遺体を守ろうとしていた主人公が、なぜか途中から一転し、市民と一緒になって、こんな教皇の死体は川に捨てろとわめき始める、その心変わりの理由がまったく分からなかった。
しかもそこでキリスト教と決別したのかと思いきや、そのあとも敬虔なキリスト教徒のままだったので、なおさら分からない。
こんなに娯楽的に作られた作品なのに、その点を分かるようにしてくれていないことだけが、僕には不満。
主人公の少年エネア・サラが異常にかわいいのも引き込まれて観れる重要な要因だった。
それと、本作ほど、ローマ教皇を普通の俗っぽい人間として描写した作品は初めて見た。実在した人なのに、カトリックから抗議されないのかな。
結構な人入でしたが、年配の輩は映画内容を事前把握してますか?
個人の自由なので悪いとは言いませんが、見る前にどんな映画かを調べてから来たほうが良いと思います。最前列で、映画が気に入らなかったのか帰る時間を気にし携帯つけまくりな人がいました。こんな便利なサイトがあるので宜しくお願いします
なんて悲しいんだろ
2023東京国際映画祭にて鑑賞。
6歳の頃にユダヤ教だから誘拐されて
洗脳されてキリスト教徒にされて成長し
正しいと信じるものが家族と違っていってしまった。
垣間見える本来の彼が暴動を起こすシーンは胸が痛む。
母親の臨終にキリスト教徒の洗礼をしようとし
拒まれて放心した顔が本当に切なくて涙が出た。
宗派は全く違うけど、宗教をもつ家族に生まれた私にはとても深いところをえぐられた作品。
宗教と家族にここまで仔細に踏み込んだ作品は初めて見た。
映像が暗すぎるのは効果というよりも技術的な問題も感じたので、そこは残念。
難しかったよ
歴史プラス宗教、知識不足だから置いてかれっぷりが強い。
でも理不尽なことはわかる。子を突然さらわれた親の気持ちもわかる。だからとんでもなく切ない。
子供は無垢なときに連れて行かれるから何色にも染まるよね、それがまた辛い。
とにかくずっと重苦しかった。
信心で家族が切り離されるのは無念ですね。
信仰心は親子の繋がりよりも強い
厳粛な信仰心や、日常の祈りや感謝、教会の空気。
そういうものが随所に散りばめられて、と言うかむしろ、ほぼ全編がユダヤ教とカトリックの信仰に基づいた画面で、没入感が期待以上。
特に、ユダヤ教とカトリックの祈りが同時進行するシーンは、神秘的だった。
誘拐され、「神は心の中も見ている」と教えられても、本音ではカトリックに改宗しきれないエドガルド。
カトリックへの改宗を条件に息子を返すと言われても、信仰が揺らがない母親。
この二人の葛藤が、クライマックスに向けて丁寧に描かれている。
信仰は、親子の愛情すらも上回る、という明確なメッセージが強烈だ。
一方で、地位や権力や闘争に振り回されて揺れ動く教会、教皇、父親などは、その強固な二人と対比されている。
家族や信仰について、考えさせるストーリーは素晴らしく、実際の事件が世間の耳目を集めたのも理解できる。
一方で、ユダヤ教徒が被害者という立場でカトリックにはやや批判的、という内容のため、世界の映画市場、と考えたときに、誰をターゲットに採算を狙うのか?と訝ってしまった。
少なくとも、日本で配給されたことは奇跡的だと感じた。
「一番大切なのは宗教だ」
ある時そう聞かされて依頼、特にヨーロッパや中東はそういう世界なのだろうと思っている。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教はもともと一つの宗教であったことを考えれば、十億単位の人がどこかで共通の価値観を分かち合っていることを、羨ましくも感じる。
自分の日常では感じることのできない、素晴らしい信仰の世界を味わえる二時間だった。
期待度◎鑑賞後の満足度◎ 信仰という個人的なものが、一家族の幸せが、宗教権力という公的なものに呑み込まれ、潰える怖さ。
①大変重厚な映画。終始冷徹な視線で描かれることで、この事件の悲劇性と社会性とが浮き彫りにされている。
②ただ、額に水を垂らして十字を切り「父と子と精霊の御名において」と唱えただけのことが、一人の少年と家族の運命を変えたことが、日本人として理解の範囲を超えている(私は無宗教ではありません)。
キリスト教とユダヤ教とは根っこは同じ筈なのに。
③キリスト教(カトリック)とユダヤ教と当時のイタリアの社会情勢を勉強しよう。何とか頭でだけでも理解出来るように。
④6歳のエドカルドが、父と逢った時は抑制していたのに、母と逢った時には抑えていた感情を爆発させるところは実に哀切。
⑤歴史的には、ローマ教皇の権力が弱体化した契機になった事件らしいが、断ち切られた親子の絆は再び繋がらなかった。
歴史の勉強にはなったけど、あまりにも衝撃的
19世紀中盤の揺れ動くイタリアのお話でした(ってか、イタリアはいつも揺れ動いてるか)。史実を基にしたお話ということでしたが、そもそもその辺りのイタリア及びヨーロッパの歴史に疎い私としては、驚きの連続でした。鑑賞後に少しばかり歴史を調べたところ、現在のイタリア共和国の基盤となるイタリア王国が生まれたのは1861年と比較的最近のこと。それまでは、ローマ教皇の直轄領のほか、両シチリア王国やトスカーナ大公国、パルマ公国などの小国が割拠する状態だったものの、1848年にヨーロッパ大陸全土に広がった”1848年革命”の動乱の末に、統一イタリア王国が誕生することになったようです。そして本作の舞台は、主人公のエドガルド・モルターラが生まれた1850年代から1870年代に掛けての四半世紀ほどの激動の時代を背景にしたもので、1人のユダヤ人少年の成長(と言って良いか微妙だけど)と、彼の家族、そしてローマ教皇との関わりを題材にしたお話でした。
まず驚いたのが、ボローニャに住むユダヤ人一家であるモルターラ家に、突如としてローマ教皇庁の役人が訪れ、息子のエドガルドを連れ去っていったこと。理由は彼がキリスト教の洗礼を受けたことが判明したため、彼をユダヤ教徒ではなく、キリスト教徒としてローマ教皇庁が育てるというものでしたが、全く意味不明というか、無茶苦茶極まりない話でした。しかも後に分かることですが、エドガルドを洗礼したのは、彼がまだ赤ん坊の時にモルターラ家で働いていた家政婦が、両親の許可もなく、勝手に洗礼したという話であり、にも関わらずその洗礼を盾に子供を連れ去るんだから、全く酷いものでした。
最近も、統一教会問題の報道の中で、信者の親の子供が宗教2世として育てられ、そこから脱したいのに中々出来ないということが社会問題化しましたが、ローマ教皇庁が子供を連れ去って無理矢理改宗させるなんて、いくら人権意識が低かった19世紀とは言え、あまりにも酷い話でしょう。実際国際的なユダヤ人コミュニティの連携もあり、国際的に教皇庁が批判の的になったようですが、逆に教皇庁は態度を硬化させてエドガルドを親元に返そうとはしません。
因みに本作の原題「Rapito」とは、イタリア語で「誘拐された」ということを意味するそうで、ローマ教皇庁がエドガルド以外だけでなく、年端のいかない子供たちを親元から引き離して、というかまさに誘拐を行い、事実上彼らを監禁してキリスト教教育をしていたなんて、しかもこれが史実だと言うんだから、驚き以外の何物でもありません。加えて子供を返して欲しいという親の要求に対して、家族全員がキリスト教徒に改宗するなら子供を返すというのだから、本当に呆れてしまいました。
しかもやるせなかったのは、エドガルド自身が最終的に敬虔なキリスト教徒になってしまい、臨終の床にある母と再会した際に、逆に母をキリスト教徒に改宗させようとしたこと。あまり宗教の悪口は言いたくありませんが、一度洗脳されてしまうとそれを解くのは難しく、結果的に家族であっても受け入れられない間柄になってしまったのは実に悲しく感じたところでした。
題名の通り、あまりにも数奇な物語だったので、映画として観るというよりもドキュメンタリーとして観てしまった感があったのですが、俳優陣としてはローマ教皇役のパオロ・ピエロボンの狂信的な感じの演技が光っていました。少年期のエドガルドを演じたエネア・サラは、東洋風に言えばまさに”紅顔の美少年”であり、そんな彼だからこそ、エドガルドの置かれた悲惨な立場がより強調されていたように感じました。
あと、19世紀のイタリアの風景も美しく、物語の内容がこんな話でなければ、もっと風景を楽しめたのにとすら思えたところです。
という訳で、あまりに衝撃的だった本作の評価は★3.5とします。
評価がきわめて困難。かなりの知識を要するタイプ
今年164本目(合計1,256本目/今月(2024年4月度)38本目)。
(前の作品 「キラー・ナマケモノ」→この作品「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」→次の作品「夢の中」)
この映画自体が描くのは史実に基づくものなので、ドキュメンタリー映画の様相も一部あり、あることないこと描けないので、かなり「退屈」な印象があります。また、この映画の背景となる「教会法」といった概念は知らない方も多く難しいのだろうなといったところです。
表面的にみればそれは「誘拐以外の何物でもないだろう」ということになりましょうが、単純にそうは言えない点(後述)もあり難しいところです。
なお、事件の趣旨的に、「公式パンフレット等を除けば、公的サイトでの記述が極端に少ない」背景があります(当然のこととして)。このあたりも人を選ぶのかなといったところです。
--------------------------------------------------------
(減点0.3/以下のような理解をするにはかなりの知識を要する)
ユダヤ人問題や、イタリアの成り立ちなど高校世界史を知っていればある程度背景の推測がつきますが、この映画を7割でも正しく理解しようと思うと事前に学習しないと難しいかなという事情です。
--------------------------------------------------------
(減点なし/参考/この映画の背景とカトリック教会の「教会法」)
特にカトリック教の教会では、その教会でのみ通用する法がありました。これを「教会法」といいます。三権分立がまだ未熟でもあったし、そもそも建国まもなくバラバラに近かったイタリアでは「教会のやりたい放題」であり、この「教会法」も今でいう「他のチェックを経たもの」ではないので好き勝手ができる内容でもありました。
映画で描かれるように「緊急洗礼」というものは認められていましたが(日本の民法であえていえば緊急事務管理に近いもの)、これを経たもの(受けたもの)は、人種やもとの信教に関係なく宗派が変わるという趣旨が「教会法」に存在し、これをつかれた形になります。もっとも、この時期ですので、積極的に当該の子を悪用したという積極的なものではなく、他の宗派や他の勢力などから守るといった「子を利用した悪用」ではありました。
ただ、強固とされる教会も、この事件はそうそうに明るみになり、知識人はもちろん他の宗派の反感をかうことになります(これによってキリスト教をめぐる勢力は少しだけが低下した)。これには教会もある程度「情報の開示」や「適正な法手続き」といった論点で譲歩せざるをえなくなり、また同時にイタリアも含めて第一次世界大戦等を経て今でいう三権分立が当たり前の国に多くの国がそうなっていきますので、「そういう法や存在を許していた、近現代の境界線となりうる時代」におきたできごと、ということになります(なお、こうした事情もあるので、この点について教会はあまり強くあれこれ言えず、公式資料等にも掲載があえて控えられているなど「めをつぶりたい」状況は理解しますが、当然、歴史としては残ることになります)。
全52件中、21~40件目を表示