エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命のレビュー・感想・評価
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ゆったりした語り口で語られる、不条理なまでに翻弄された人生の物語
1858年にボローニャで起きた事件を題材にした歴史劇である。仲睦まじいユダヤ人一家に育つ少年がとある理由によって親元から引き離され、カトリック教徒としての生活を余儀なくされる。ストーリーの柱には、現代でもあらゆる争い事の火種となりうる「宗教上の違い」があり、教義のため、宗教上の権威のために是が非でも事を為そうとする、優しい顔をした非情さが本作を不気味な闇で覆う。その一方で、これはいたいけな少年の瞳を通じた年代記でもあるのだ。己の理解がまったく追いつかぬところで全てが目まぐるしく移ろうお伽話のような感触すら持ち、彼は数十年のうちに大きな精神的変容を辿ることになる。ベロッキオ監督曰く、この事件はイタリアにとって重要な歴史的瞬間だったとのこと。なるほど、描かれるのは、宗教的支配が近代史のうねりによって変わりゆく過渡期。ゆったりした語り口ながら、当時を生きたあらゆる人々にとっての激動の物語なのだ。
迷信と支配
エドガルドに洗礼を与えた使用人(アンナ?)の言葉が時々イタリア語じゃなかったが、カッコついてたし、あれは何語だったんかな?
モルターラ家でのお祈りは、ヘブライ語よね?聞き分けられへんけど。
カトリック教会でのお祈りは、ラテン語よね?聞き分けられへんけど。
イタリアにドイツ語圏とかフランス語圏もあるけど、そのどちらでもなかったような…
方言かな?
カトリックもユダヤ教も結構迷信あるんやなぁと思った。ベッドに帽子を置くと不吉とか。忘れたけどモルターラ家でもなんか迷信信じてたような。
そんでやっぱ神が一緒やからアーメンっていうのもおんなじ。ユダヤ教でもアーメンてゆうの知らんかった。
頭に被るちっさい帽子も似てるし。
思考が苦手な人に、〇〇じゃなければ地獄に落ちる的な恐怖を植え付け、〇〇してれば救われるという優越感を植え付ける。しかも死後に救われる。
そう信じ畏れさせるのは、支配のため。
権力を振るうため。なんて醜い所業でしょう。
わたしはそのように受け取りました。
支配ってそんなに楽しいのかなぁ。美味しいのかなぁ。気持ちいいのかなぁ。権威を翳すのも楽しくなさそうなのに、なんでそんなことしてんのかなぁ。本当に神の意思?神って道理の通らないことさせるの?
死後に救われることを喜ぶ意味がわからないけど、死への恐れがつけ込まれるのかなぁ。生活が苦しいってのもあるよね。あまりに辛い現世を生きるために、死んだら救われると考えるのは、わからなくはない。
死んだら肛門緩んで便が漏れる肉の塊になるんや。地獄も天国も浄土もないと思う。
無宗教だと自認してるけど、仏教・神道ミックスの倫理観を植えつけられてるし、思考が苦手で信心深い(迷信深い)親と親戚に育てられてるし、多少の洗脳はされてるけどね。
セム系一神教の異教徒への蔑み・傲慢は、誠に見苦しい。
音楽がオペラやバレエの音楽のようで、迫力があった。1850年台はまだイタリア統一されてへんのかとか、世界史の資料集見直したくなった。
エドガルドは今っぽくいえば重ーいストックホルムシンドロームよね?教皇の遺骸を運ぶ道中で襲われた時、雰囲気にのまれて襲撃者に同調してしまうところが、恐ろしかった。
彼はとにかく周りの空気に合わせることで、生きてきたから、それしかできない。それが恐ろしかった。
子どもらが学んでいる教義?も、飛躍がすごいな、道理が通ってない…と思った。
観て損はないんだけど、私はちょっと飽きたかな。
教会/世俗のイタリアの断裂線を描く妙
イタリアの歴史に走る断裂線、教会/世俗の上にユダヤを配置して見事。カトリック教会の独善的な思考(あらゆる新思想を否定した誤謬表、教皇不可謬性)がピークに達した頃にリソルジメントの国家統一が重なった時期の問題性を一人の少年の運命により語ったのが見事。原作の力もあろうが、近代にぶつかったカトリック世界を絵巻物のように描いたのには感服するしかない。イタリア近代史を知る基点にもなる時期、教材にもよし。
熟練の作品
自由と平等を推し進める民衆と、それに対抗するカトリック教会。イタリア統一に一役買ったのは、広場の銅像になるような立派な英雄ではなく、無学な家政婦がきっかけだったという不合理で残酷な実話。
冒頭。ヘブライ語で赤子に祈りを捧げる父母。赤子の瞳は遠くを見通すように澄んでいて、まるで飼い葉桶に生まれ落ちた赤子のように特別な存在だった。それを覗き見る家政婦の視線は、その後の数奇な運命を示唆する重要なシーンだった。
ユダヤ人迫害、権力乱用というカトリックの傲慢さと凋落をあぶり出しながら、マルコ・ベロッキオは犠牲者の少年の痛みを現代社会に提示してくれた。
かくれんぼ遊びが家庭と教会で二度描かれる。イタリア統一という歴史の中で隠れてしまいそうなエドガルド。彼自身も自分がどこに居るのか分からない。
そんな彼を置き去りにせず、「あなたはどこにいるのか。どこにいようと我々はちゃんと見つけ出しますよ」とマルコ・ベロッキオの声が聞こえるようだった。
印象的なシーンは数多く。母のスカートの中、寝台のシーツの中、教皇の法衣の中、母との別れ。たった一枚の布切れが、少年の残酷な断絶を浮かび上がらせていた。
そして十字架から釘を抜いてキリストを解放するシーン。キリストは〝受難の象徴〟いばらの冠を捨てて歩いていく。
ユダヤ人でありながらユダヤ人に殺されたキリスト。キリストが磔になることで信仰者は罪から解放されるのに、キリストを十字架に掛けた責任はユダヤ人が負うべきだというのなら、ユダヤ人の僕がキリストを解放してあげるよ。
現実では宗教の和解は困難だが、少年の無垢な夢が、同腹の兄弟(ユダヤ教とキリスト教)をなんなく和合させたみたいで面白かった。
少年期、青年期の二人が良かった
6歳でユダヤ教徒の両親の元から離され、カトリックの教会に入った彼の心境…なかなか想像しにくいですが、私には相反する気持ちに揺れ続けているように見えました。
ピウス9世に対しては、尊敬や敬愛だけではなく、家族と引き裂かれた憎しみを心に秘めていたのではないでしょうか。
衝動的な行動に、理屈では説明できない彼の心の揺れを感じました。
青年エドガルドを演じていたレオナルド・マルテーゼは2023年の『蟻の王』がデビュー作です。
デビュー間もないとは思えない印象的な演技で、数日経っても表情が心に残っています。
まだ少し演技が硬いような気もするし、上手いのかどうかイマイチわからないのですが、記憶に残るタイプでとても気になります。
印象的なシーンも随所に散りばめられていて、よい作品だったと思います。
まさに、数奇な運命
個人的に久しぶりのイタリア映画。しかも19世紀のお話とのことで、映像の色彩がまさにクラッシックなイタリア映画。ただ、音楽がいまいち、モリコーネがもし生きていたら、名曲がついたのでは…と思ったりして。
実際にあったお話とのことで興味津々で鑑賞。因みにこれは描かれている宗教とイタリアの歴史について少し知識が無いと、誤解しそうなお話。キリスト教全般について調べたり理解を深めるきっかけとなる作品になると良いですね。
この頃のローマ教皇は絶大な権力を持ち、なんと横暴だったのか。信仰は誰にも押し付けられるものでも強制されるものでもなく、自分が知らないうちに儀式によって教徒になるものでもない。
ただ、印象的に描かれていたシーン、夢の中でエドガルドが、礼拝堂に掲げられている十字架の上のイエス・キリストの手、足から杭を抜き取ると、イエス・キリストが蘇って微笑み、歩き去って行くシーン。エドガルドがイエスと個人的に出会った、と言えるシーンだったのでは。
半ば誘拐され強制的に教育された少年は、実際に個人的にイエスに出会い、自らの意志でイエスの使徒となったということなのかもしれない。悲劇は彼が家族と平安や愛する心を分かち合えなかった事。
世界を知る上で、ユダヤ教とキリスト教は似てるけど、違う、ということは知っておく必要はありますね。
大きな政治的波に巻き込まれた少年エドガルドがとっても可愛らしく健気。それだけに、辛さに耐え無表情になるシーン、からの母の前で耐えきれなくなるシーンは涙涙でした。
実話というのが恐ろしい。幼い子供へ「洗礼」するというのは
エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命
神戸市内にある映画館シネ・リーブル神戸にて鑑賞 2024年5月1日(水)
パンフレット入手
この作品にはクラシック音楽が使用されてました。残念ながらパンフレットには記載がありませんので解説しておきます。(全2曲)で他にもありましたが、分かりませんでした。
1.ラフマニノフ作曲 交響詩「死の島」作品29
セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)はロシア(帝政ロシア時代)の作曲家
スイスの画家「ベックリン」の同名の絵画から着想をして作曲。
小さな船に櫃が一体積まれていて、埋葬する先の「死の島」へとゆっくりと漕いでいる。
波の音、時に荒波に揉まれて転覆しそうななるが、間一髪で逃れると、静寂の海に戻って、船は進んでいる。(私の解釈)
2.アリフレート・シュニトケ Agony Suite (Arr. F. Strobel) I. Einleitung
Agony組曲 フランク・ストローベル編曲 1.序曲
アリフレート・シュニトケ(1934-1998)ドイツ・ユダヤ系現代音楽作曲家
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ここから本編
「エドガルド・モルターラ誘拐事件(1858年)」の映画化
実話(ドキュメンタリー映画)
原題は{Rapito」
1858年、イタリア北部ボローニャのユダヤ人街で、教皇から派遣された兵士たちがモルターラ家に押し入る。枢機卿の命令で、7歳になる息子エドガルド(エネア・サラ)を連れ去りに来たのだ。
エドガルドは生後間もない頃、何者かによって秘密裏に洗礼を授けていた。教皇の命は絶対であり、洗礼者はカトリック教育を受けなければならない。24時間の猶予を与えられたが、状況の好転は見込めない。
エドガルドの父モモロ(ファウスト・ルッソ・アレシ)や母マリアンナ(バルバラ・ロンキ)、親族による歎願空しく、エドガルドは必死の叫び声に喉を枯らしたまま連れ去られてしまう。
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一体だれがエドガルドに洗礼を授けたのか?エドガルドは1851生まれ。当時の使用人はキリスト教徒のアンナ・モリージだった。彼女は盗癖によりモルターラ家を解雇されていた。
一方、連れ去られたエドガルドはローマに向かう船の中にいた。同乗した老女に「キリスト教の王」のこと教皇の存在を教えられる。教皇は首を長くしてエドガルドの到着を待っているという。
モモロは息子らと共に、アンナ・モリージを尋ねるが彼女は彼らの到着をみるや脱兎の勢いで逃げ出そうとする。方言でまくし立て証言を拒否し、十字架を携えた神父らと共に民家に逃げ込んだ彼女からは「エドガルドに洗礼を受けた」という言葉を引き出すことは叶わなかった。
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6月28日の夜。ローマに到着したエドガルドは、院長の出迎えを受け、寝室を案内される。就寝用のベッドでシュマ(ユダヤ教の祈り)を唱える彼に、エリアという同世代の男児が「君はユダヤ人?」と声をかける。「いつ帰れるかな?」と問うエドガルドに「言うことを聞けば早く帰れるよ。賢い者が勝ちだからね」と意味深な言葉を放つエリア。
一方モモロらは、イタリアのみならず近隣国のユダヤ人組織の協力を仰ぐべく、文書の作成に取り掛かっていた。「これが何の役に立つの」とこぼすマリアンナ。エドガルド奪還には強硬手段が必要だと主張するが、今のところ手立てはない。
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教会によるエドガルド・モルターラ誘拐の報は、ユダヤ人コミュニティからの伝播で世界中に広がっていった。非人道的な振る舞い、歴とした犯罪であると追及する自由主義系のメディアや、遺憾の意を表明する、時の皇帝ナポレオン3世を擁すフランスなどの近隣諸国、教皇の存在を嘲笑うような演劇を上映したアメリカ。10年前は救世主と崇め祀られたビウス9世(パオロ・ピエロボン)は弱体化する権威そのものの象徴になりかけていた。
現実を伝える枢機卿に対し、ビウス9世は激昂し「私の答えは”拒否するだけだ”」「信仰の原則により子供を返すことはできない」と言い放つ。
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ある夜、少年エドガルドの夢の中にイエスが現れる。十字架にかけられた姿、両手両足に打ち付けられた杭を外すと、イエスは自由の身になって歩き出そうとしている。
少しずつ、少年エドガルドはイエスの心を受け入れるようになるが、しかし両親から授けられたユダヤ教の教えはどうなってしまうのだろう。こっそりと就寝前の寝台の中でユダヤ教のお祈りを唱えていたが、やがて身も心もキリスト教にすっかり帰依してしまうのであった。
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エドガルドは成長し大人になったある日
エドガルドの両親と面会した時、エドガルドは「僕の人生は僕が決める」と言い、両親は落胆してしまうのだった。
母マリアンナが危篤となった時に、瀕死に近い母へ洗礼を施そうとするが、それを拒み「どこまでもユダヤ教徒として信仰をまっとうしたい」と愛する息子、エドガルドへ伝えるのだった。
監督 マルコ・ベロッキオ
音楽 ファビオ・マッシモ・カポグロッソ
感想
実話というのが恐ろしい。幼い子供へ「洗礼」するというのが理解できないが
エルガルドが幸せならばと思います。
「数奇な運命」、で済ませていいのかな。
時代背景が絶妙。教会法という前近代的な聖なるゆえに(かつ)アウトローな法に対して、関係者は単に泣き寝入りしていたわけではなかった。言論の自由大国アメリカのメディアにも取り上げさせ世論に訴えた。
結局は、一人の人の心をコントロールしてしまうことの罪深さ、容易にコントロールは解けない(=自己否定につながってしまう?)の本性、無責任かつ罪の意識のない愚民、沈黙する神(信じるとしたら)、、、
何を馬鹿な思えるのは対岸のことだからか。現代にも蔓延る意味のないタブーは一体どれくらいあるのだろうかと考えさせられた。
映像は圧倒的に美しく、光と影効果が終始一貫。どの子どもも可愛くて切なかった。
一番の被害者であるはずの本人が、 全くそのことに気づいておらず、 ...
一番の被害者であるはずの本人が、
全くそのことに気づいておらず、
今の生活に満足してしまっている
そのせいで、
お母さんにあんなこと言うなんて、、、
洗脳ってこわい、信仰心ってこわい
当時はこんな事件がたくさん起きたのだろうけど、
本当に許せない
この作品を作ってくれたことで、
この事を知ることが出来て良かった
宗教感が強くないから理解するのみ…。
こういう時代があったのかと知識にはなるが宗教感がないとなかなか話にはのめり込めないのではないかなー。宗教の自由とかない対立と権力のなかで運命を変えられた少年が哀しすぎる。権力もつと流れは一緒か…。
他の人のレビュー高評価は、納得できるんだけれど
これはもう私の偏見だろう。キリスト教とユダヤ教の対立が根底にある。日本人の私からみれば、イエス・キリストを聖人として崇めているのに、何でいがみ合うのかわからない。
信奉するのが、宗教や思想(共産主義・マルクス主義等)でもこの映画と同じことが起きても不思議でもないのに、なぜ宗教、この場合はカトリック教会を悪者にするのだろう。実話に基づいた物語だが、観客受けするために脚色が過ぎるのではないかと疑問を抱いた。
母親の臨終の際に、息子が密かに洗礼を授けようとするところなど。
それと、音楽を付け過ぎで、その雰囲気から話のすじが読めてしまう。やはり、過去の巨匠には及ばないなと感じた。まぁ、私の感じ方がおかしいのかもしれない。映画料金分は元が取れるので、見て損はない。
信仰は普遍的な情愛すら無視する矛盾
タイトル変えました。19世紀に起きたカトリック教会によるユダヤ人少年の誘拐事件を描く社会派ドラマの力作です。こんなに映画に没入するのは久しぶりで、見終わって、あまりの理不尽さに、どこにこの怒りをぶつけていいのかわかりませんでした。教会法とやらに基づいて6歳の子供を幸せな家庭から引き裂く教会、子別れの悲哀に直面しても信念の揺るがない異端審問官、裕福な雇い主を二度までも陥れる移民の女、そして神への信仰と自分の権力への崇拝と取り違える教皇と、彼らの信仰の名の下に行われる非人道的な行為に愕然とします。これまでにも、教会批判の映画は見たことがあるけど、本作は別格です。自分達の宗教の正当性を守るために、平穏に暮らしていた罪もない一家を引き裂くことは、もはや信仰ではなく、理不尽な蛮行以外のなにものでもありません。その結果、心の平安ではなく教義を守ることを信仰とする人間が再生産される幕切れには暗澹たる気持ちです。監督のマルコ・ベロッキオの作品は初めて観たけど、80代とは思えない気合いの入った演出で、レンブラントの絵画を思わせるような重厚な映像とあいまって、息が詰まるような緊迫感が途切れることはありませんでした。役者では、タイトルロールの少年時代を演じたエネア・サラ君はめっちゃかわいくて、昔のオスメント君みたいです。青年時代のレオナルド・マルテーゼもイケメンで人気が出そう。
宗教という存在
洗礼を授けられていた為にユダヤ教の家庭から離れ、カトリック教徒として新たな生活に順応しなければならず、徐々に洗脳されていく姿には言葉を失いました。
忠実心から家族を改宗させようとしてしまう姿にも…。
原題である「Rapito」の意味がとても強い言葉なので物語の全てを表していると思いました。
教皇の強大な権力と支配力は現代の宗教においても通じるものがあります。映像化に感謝。
少年エドガルドの表情の演技が凄い!
またしてもドッシリずっしりボリュームたっぷりのスタミナ丼を平らげた気分……。しかし曲と映像は共に重厚で美しく、B級グルメの代表格のすた丼とは似ても似つかない雰囲気。
宗教が焦点となると一つ一つの行動の“善悪”が個人の価値観のみで判断出来なくなるところが難しい。1番初めに出てくるムチムチボディちゃんも自分の信仰に従ってお水ちょちょっと振りかけただけなわけだし。でもエドガルドの家族の立場ではその信仰心を理由に振りかざされても怒りしかないだろうし。複雑……。エドガルドひとりの心境の変化を見ても複雑な変化をするし。パパの時には堪えられたけど、ママが来たら号泣してしまったあの甘えん坊は何処…。磔に釘刺されたキリスト像の肢体から釘をこっそり抜いてあげてたあの心優しい少年は?
『宗教』が信仰の対象だけでなく洗脳的と宗教に馴染みのない人から思われてしまいがちな理由がよくわかる映画。コレが実話だというのがまた奇なり。
宗教画的な荘厳なタッチで描かれる本作品は画だけでなく音も素晴らしい✨✨目と耳と、そんな楽しみ方をしてもよいかと。
もう少しちゃんと世界史の中でもイタリア史、とりわけ宗教史と美術史を勉強しておけばもっともっと理解が深まったのかもなー、と後悔。
作中では『俗世』を体現化していたピウス9世だけど、故Jニー氏のような見るに堪えない性描写がなくて良かった。在任期間が31年の最長記録ローマ教皇ともなるときっと裏ではやりたい放題だろうに😂(←個人の感想です)
壮大なストックホルム症候群
スピルバーグが映画化しようとしたという事なのでかなり有名な話だと思うのだが全く知らなかった。
教会や神父の立ち合いもない遊びの様な洗礼のされ方でも認められるという事に驚くが、洗礼された事もちゃんと中央に知らされている事にも驚いた。
信仰さえなければ寝食や教育もたタダだし、家族とも自由に会えるのである意味ラッキーな訳だか、いかんせん異教の敬虔な信者なので事は重大。
幸せになる為の信仰だと思うが、しばしば手段が目的となり争いやトラブルを起こしがちなのでいつも怖さを感じる。
親子が似てればもう少し同情できたかも。
教皇は人間味があって良かったw
ラストで今際の際の母親に改宗させようとする姿にはさすがにゾッとした。
子供泥棒
イタリア共産党の党員もしくはシンパだった映画監督は非常に多い。ヴィスコンティ、パゾリーニ、アントニオーニにロッセリーニ、現役のナンニ・モレッティなんかも確か共産党出身の映画監督である。そして、そのイタリア共産党とは敵対関係にあったバチカンによる誘拐事件を扱った本作の監督マルコ・ベロッキオもまた、イタリア共産党出身の映画監督てあることをまず頭にいれておかなければならない。
19世紀中頃、フランス2月革命の影響を受けたイタリアでも自由主義運動が勃興し、保守反動的なローマ・カトリック教会と対立する。裕福なユダヤ人家庭から6歳の男の子エドガルド・モルターラを拉致誘拐、子供を解放する条件として一家のキリスト教改宗を迫った実際の事件を映画化している。歴代最長在位期間(31年間)を誇る時のローマ教皇ピウス9世の頭には、(洗礼云々はもちろん口実で)弱体化著しかった教会の権威回復が目的としてあったのだろう。要するにみせしめである。
84歳を迎えたイタリア人巨匠が、スピルバーグでさえ映画化を諦めたと伝えられる史実を、なぜ今頃になって映画化しようと思いたったのであろうか。現在ガザへの大規模侵攻により世界中から大バッシングを受けているイスラエルと何かしら関係があるのだろうか。尊敬する兄貴をエンデベ空港でアラブ人に殺された私怨を決して忘れないネタニエフを、今更擁護(あるいは批判)しようとでもいうのだろうか。いつのまにかゴリアテと化してしまったダビデに本気で同情する者などほとんどいないにも関わらず。
私は本作を見ながらデ・シーカの『自転車泥棒』をふと思い出したのである。“盗られたら盗りかえす”資本主義の愚かさを皮肉った映画として知られている名作だ。本作の場合、盗まれたのは“自転車”ならぬ“6歳の男の子”なのだが、ユダヤ人家族とローマ教会の間で争奪戦を繰り広げる様子がとてもよく似ているのである。子供は親のものなのかはたまた神のものなのかという、資本主義が認めている私有財産制度に(今更ながら)疑問を投げかけた作品だったのではないだろうか。
誘拐事件を例に自由主義者たちからやり玉にあげられる度に、無原罪のおん宿り儀式などをとり行って体面を保とうとするピウス9世が、しごく滑稽に描かれている。そんな教皇勢力にすでに洗脳されてしまっている“生身の人間(エドガルド)”を取り戻そうと躍起になるモルターラ一家。そもそも私有財産を認める資本主義自体に欠陥があるのか、それとも意志のある人間を“もの”のように奪い合いすることが間違っているのか。世界中に無批判的に受け入れられているこの自由主義の“教義”を、そろそろ疑いはじめていい頃なのかもしれない。
やるせない...
数奇な話が実話だもんな…
教皇が憎たらしくて…
心の中で、気持ち悪っ!て何度つぶやいたことか…
これは、もう拉致監禁洗脳だよ…
6歳だよ…
やっぱり、長い年月を掛けて、
本人はそれが日常になっちゃったら仕方ないよな…
やるせなさしかないや。
このような宗教がテーマの作品は、
いくつか観る機会があり学びにはなりますが、
毎回、あまり理解や共感ができないです…。
作品としては、
子役やお父さんお母さん、宗教関係者たちの演技や、
映像や装飾、音楽など
とても興味深く観ることができました。
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