劇場公開日 2019年8月16日

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「死の闇に生を差し出す必要はない」命みじかし、恋せよ乙女 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0死の闇に生を差し出す必要はない

2019年8月27日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 数日間あるいは数か月間という比較的短時間の物語であっても、他の登場人物はいざ知らず、少なくとも主人公の過去については、物語の中で語られることが多い。日常の瞬間的な景色や風景を切り取った作品などには登場人物に関する説明が一切ないこともあるが、主人公の人格が物語に重大な影響を与える場合には、生い立ちから語られることもある。
 人間の人格は気質などの遺伝的な要素に加えて、乳幼児期に決まる気性、それと経験と記憶によって形作られる。記憶の殆どは無意識の領域にあり、大部分は自覚がない。だから本人から話を聞いても、それは人格を形作るほんの一部であり、どれだけ長く話を聞いたとしても、本人の話だけでその人を理解するのは非常に困難である。意識と無意識の割合は、一説によると一対数万と言われている。人間の人格は無意識の内にあると言って過言ではない。
 加えて人間は嘘をつく。記憶は本人の望むように改変されるから、嘘をついている自覚がない場合もある。そういった条件が人間相互の理解を困難にしている。他人と理解し合えたと思うのは錯覚である。さもなければ奢りだ。人間は生物の中で最も高等だから、最も個体差が大きい。特に精神世界については千差万別であり、まさに人それぞれだ。共通点よりも差異のほうが圧倒的に多い。深くて狭い川があるのは男と女の間だけでなく、すべての人間同士の間にある。
 しかし理解し合えないことを嘆く必要はない。寧ろ理解し合えないのが当然と思っていれば、たまに同じ星を見て美しいと言い合えることが大きな喜びになる。人は誰でも心の奥に混沌とした闇を隠している。自分でも上手く説明できない闇だ。広大な闇の世界に光を当て、その姿を朧気に浮かび上がらせると、人類に通じる真実が見えるかもしれない。

 本作品に登場する「ゴンドラの唄」は、黒澤明監督の「生きる」で象徴的に使われた歌である。昨年(2018年)の秋に赤坂でミュージカル「生きる」を観劇した。主人公渡辺勘治を鹿賀丈史と市村正親が交互に演じるダブルキャストで、当方が観劇したのは鹿賀丈史のほうだった。とても味のある歌を歌う人で、テレビで「Allez Quisine!」と元気に叫んでいたときから月日は流れ、いまでは枯れた男の哀愁を醸し出す。

 本作品の主人公カールはエリート銀行員からアル中に身を落とし、妻子からも捨てられそうになっている。この男がこれからどのように世界と関わっていくかが作品のテーマだから、彼の生い立ち、トラウマ、妄想などが描かれる。意外に複雑な人間関係で、そこに登場するのが謎の日本人女性ユウだが、トラウマを解(ほど)くよりも、ありのままを肯定しようとする。思えば主人公は否定される人生だった。しかしユウは何も否定することがない。流石ニーチェの国の映画である。肯定が力強い。
 ドイツ語と日本語と英語がランダムに出てくる作品である。神はどこにも出てこない。代わりに幽霊や悪霊が跋扈し、主人公の精神世界の闇を描き出す。闇を拒絶し現実から逃避するためにはアルコールが必要であった。しかしアルコールは闇をさらに大きくするばかりである。ユウと行動をともにしてトラウマの場所を尋ねることで、闇を闇として心に抱えて生きていく覚悟がいつの間にかできたようだ。神を否定し、生を肯定する。パラダイムはもはや意味を成さない。
 祭は共同体の精神世界を操るものだ。かつてはシャーマンが祭を取り仕切った。いまでは祭は形骸化して形式だけのものとなっているが、参加者の誰も意味がわかっていない祭の手順には、霊的なものが潜んでいる。祭の中にこそ人間の闇があるのだ。幽霊も悪霊もそこに集い、打楽器のリズムや掛け声の中で練り歩くうちに、人々の中の闇が少しばかり解き放たれる。ある種の浄化作用である。
 主人公がこれからどのように生きるかは不明だが、世界との関わりは確実に変化した。樹木希林が演じた老女将は、主人公の浴衣の左前を右前に直す。象徴的な場面だ。死者の世界との決別である。彼女がカールのお尻をポンポンと叩きながら「生まれてきたんだから、幸せにならなくちゃ」と言うときにも、やはり生を力強く肯定する世界観が示されている。日本語が理解できないはずのカールも何故か晴れ晴れとした表情を浮かべる。生は死を内包しているが、死の闇に生を差し出す必要はないのだ。そんなふうな映画だと思う。

耶馬英彦