COLD WAR あの歌、2つの心のレビュー・感想・評価
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ヨーロッパはパラレルワールドだった。
モノクロ映像であることが効果的でした。映画は想像のメディアである(見る側に想像させてくれる余地・機会を与えてくれる)ことを改めて実感できたからです。セーヌ川を見下ろすノートルダム聖堂の薔薇窓のカットなどは、1枚のリトグラフを鑑賞するような気分でした。もう2度と撮れないシーンかと思うと一層・・・
余談ですが、50年代のパリのシーンではウディ・アレンの「ミッドナイトインパリ」を思い出さずには入られませんでした。(←こちらはタイムスリップものでしたが)本作品は、同時代でありながら、国境を接していながら、東欧と西欧、当時実に段差のあるパラレルワールドでありました。勉強不足ですが、スターリンの成してしまった粛清の数々はある意味ヒトラーより罪深いとも言われますよね。(比較して優劣をつけること自体不謹慎ですが)
繰り返し流れるテーマ曲の歌詞と歌唱力には心が洗われました。私事ですが、この平和ボケした現代の東アジアの片隅の国で、もう二十歳になろうという娘のボーイフレンドを(スペックだけ聞いて)「気に入らない!」と拗ねてしまった母親である自分の偏狭さに改めて気付いたからです。そして、環境は違っても、多くの人がかけられる(本人にとっては)奇跡の恋の魔法を終生持ち続けたロマンスを描くことこそ映画の永遠のテーマですね。そこに冷戦というもう1本のヨコ糸が通って紡がれた、大変美しいタブローでした。
民族歌謡「ふたつの心」に祖国への想いを託した映画
1949年、第二次世界大戦後、共産主義政権下のポーランド。
ピアニストのヴィクトル(トマシュ・コット)は、仲間とともに各地の民族歌謡を収集していた。
ほどなくして、民族音楽舞踊団を共同主催することにした彼は、舞踊団のオーデションに応募してきた歌手志望の娘ズーラ(ヨアンナ・クーリク)に興味を持つようになる。
「父親殺し」と陰口をつかれるほどの激しい気性のズーラは舞踊団で頭角を現し、当然のようにヴィクトルと恋に落ちる。
しかし、当局からの厳しい監視を受け、舞踊団にも共産主義色が濃くなってきたなか、ヴィクトルは東ベルリンへの巡業の際、西側への亡命を決意。
ズーラも連れていくことを決意するが、ズーラは故郷を捨てきれず、結局ふたりは離ればなれになってしまう。
数年後、パリで幾分の名声を得てたヴィクトルは、花形スターとなったズーラと再会を果たすが・・・
といった物語で、ここまで書いたあらすじでは冷戦下のメロドラマにすぎない。
が、映画はまるで違う。
構造はメロドラマなのだが、ふたりの心情をそれほど掘り下げない。
代わりに用いられるのが、ポーランドの民族歌謡「ふたつの心」。
ヴィクトルたちが採取し、舞踊団のメイン歌曲となり、それをズーラが歌うわけだが、第二次世界大戦後のポーランドが翻弄されたように、この歌も翻弄される。
まずは、純然たる民族歌謡だったものが、共産主義政権の影響下で、スターリンを称える歌の添え物のようになってしまう。
しかしながら、ここでは、まだ、原曲は原曲のまま。
ただ影が薄くなる、といった程度。
パリ時代になると「ふたつの心」は変貌を遂げる。
自由主義社会の下、強烈なジャズが渦巻くパリのクラブ・レクリプスでピアニストとして活躍するヴィクトルは、同棲していた女流詩人にフランス語の訳詞を付けてもらうことにし、売り出そうとする。
原曲の歌詞を拡大解釈したような歌詞も、ブルーでジャジーなシャンソンの編曲もズーラは受け容れることはできず、出来上がったレコードを打ち棄ててしまう。
「ふたつの心」という民族の歌が、社会主義と自由主義とによって踏みにじられてしまう。
ポーランドにとっては、社会主義と自由主義のどちらも同じようなもので、ポーランドという国に経緯などなく、蔑ろにしていたといわんばかり。
ドイツとロシアに挟まれ、常に両大国から蹂躙されてきた第二次世界大戦以前と変わらないポーランドの姿が描かれている。
映画はその後、祖国へ戻るにあたって、故郷を棄てた同士を売れとヴィクトルに迫る祖国があり、ヴィクトルは愛する女性のためにその屈辱を受け容れ、政治犯として収監される彼を描き、恩赦によりその後、当初よりも早く出所したヴィクトルとズーラがふたりだけの結婚式を挙げるところで終わる。
その結婚式の舞台は、第二次世界大戦で破壊しつくされた教会。
大戦後、冷戦下となったポーランドの地ではなく、大戦以前の象徴としての教会。
もとのポーランドに戻ることはできないが、心は以前のポーランドにあるまま・・・
あるまま、であったならばよかったのに、と神に祈り、誓うラストのような気がしました。
オヨヨ〜
戦後のポーランドで、伝承民謡の歌劇団が一から結成されるも、豊富な資金を得るために政治利用されていきます。そんな中、自由を求めてフランスに逃亡した音楽家と、彼を追いかける劇団員の、十数年余りの恋愛模様が描かれています。
いわゆる本命の人以外一切目に入らないというような誠実さはあまりありませんが、そこまでするんだという本気度はすごいです。自由に男に会いに行くため、愛する男に自由を与えるためなら、偽装結婚もなんのその。国境を越えて女に会うためなら自由も音楽も捨てられる。安定した生活を求めてぇ〜とかいうよく聞く価値観なんて、2人からは、はぁ?と叱られそうです。恋愛中の方は、真剣度が試されます。
ポーランド民謡が、仏語ジャズバージョンに様変わりすると、同じ歌でありながら随分印象が変わって興味深かったです。
小悪魔で大胆なヒロインが魅力的でした。
どうやって居場所を知ったのかなど、細かい説明はありません。行間は相当広いです。美しい画を撮ることに心血注いだ感じがします。音楽も良かったです。脳裏に亀裂の入るような歌声も結構ありました。
どうしてそんなに惹かれるのか…。もしかしたら当人達にも分からないものなのかも知れませんが、観客として特別感情移入することはなかったです。
監督の両親からインスパイアされた話とのこと。
ままならぬ恋愛は、どの時代も冷めることを知らず、冷戦すら引き裂くことのできない境地へと昇華していきました。
運命的なものは
21世紀には、何のことだかわからなくなっているのかなぁ?
主演の二人が素晴らしい。
歌と踊り、恋愛の悲劇、最後は心中物の道行きのようです。無駄のない脚本と演技が、説明や語りを不要にしていました。
悲劇が際立つのは冷戦、抑圧体制の故ですが、
お隣の分断国家を見ると、冷戦が時代遅れになっていないのが、残念です。
表現しないことの意味。行間の意味
本作対して、語り足りない、不十分、何がいいたいか分からないというレビューを見るたびに、分からないのは貴方の感性が貧弱なだけではないのか?と言いたくなる。
語りすぎる、表現過多映画が当たり前になってしまった現代という時代に悲しみを覚える。そんなきっかけを与えてくれる作品。
ポーランドの曽根崎もの。
中盤までは心地いい。
モノクロの映像も、男と女の機微を映したようなその時代の音楽も。
ただし、どんどんどんどん苦しくなる。
男と女の世界が狭まっていく。
自由を愛を手にいれたはずなのに、新しい世界に適応できない。追い詰められていく。
怖い、怖い、怖い。
分断の時代に追い詰められた。
でも、浮かび上がるのは器用には立ち回れない弱い弱い人間の実像だ。
追い詰められて追い詰められて、こちらまで息が苦しい。
『曽根崎心中』を思い出した。
ちょっとこまったちゃんなヒロインが魅力的。
実話とききまして。。。
えっ ・てことはなに 最後のオチまで実話なんすかオヨヨイ… などと疑いましたがこれがホントなんだそうです。
時代背景や無機質な表情やモノクロからついつい辛さや切なさを想起させ… るかと思いきや、
なに、この、強烈で強力でドラマチックなネタは!! なんなら愉快さまで感じさせます。
ネタバレは避けて、自分が印象に残ったのは、ベルリンが分裂したてホヤホヤの頃は 東西の行き来がまだわりと容易だったこと、しかしそれが段々と、というか急速に厳しくなっていったんだな、というのがわかる描写が随所にあったことです。
それにしてもこの主演の女優さん、かっこよかったです。 個人的に、ほかの誰かに似てる気がしてずっとそれが誰だか全然思いつかないんですけど。。。 うーん、まあ、でも、それも無粋かもしれないのでずっとわからないままでもいいかな 笑
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悲しきオヨヨ。
前作の「イーダ」が良かったので、期待していたのですが、単なるメロドラマに終始していました。歴史に翻弄されるポーランド民族の悲哀には共感したのですが、何故今更、こんな手垢のついたテーマの映画を撮る気になったのか不思議です。冷戦下、悲惨な末路を辿る一組の男女の物語。これ、どう見ても陳腐ですよね。この監督、今回の作品に関しては、なんだか、才能の無駄遣いをしてしまったように思えてなりません。うーん、残念です。
美しく醜い欲望
冷戦突入時の混迷に翻弄されながらも、必死に音楽を中心に据えながら愛を育む物語。そんな感じをぼんやりとイメージしながらの観賞でしたが、ガツーンと殴られた様に、画面以上に頭の中が白黒していました。でも、この感じは好き。
「アリー スター誕生」を東欧で作ったらこうなりました。といった所でしょうか。むかーし「ネイキッドタンゴ」なる映画を、深夜テレビで何となく視始めた時の衝撃を、思い出した次第でございます。
珠玉の名作
恋愛はいつの世も相手に対する性欲と相手を受け入れる寛容さと相手に受け入れられる充足感の相乗効果だが、それをストレートに表現するのは意外に難しい。エディット・ピアフのシャンソン「Hymne a l’amour」は恋愛の究極の形を表現した歌である。二人でいられるなら地球もいらない、自分の命さえいらないという鮮烈な歌詞だ。そして本作品のズーラとヴィクトルはまさにそれを地で行く。既存の価値観にとらわれない愛は、相手に嘘をつく必要がない。相手に男ができても女ができても結婚しても、そんなことは関係がない。世界の果てまで一緒にいるのだ。
庶民ができない大胆で勇気のある生き方をする登場人物。まさに映画の醍醐味である。白黒の作品だから尚更そう感じるのかもしれないが、兎に角役者の演技が抜群に上手い。ズーラを演じたヨアンナ・クーリグは歌もうまいし、小柄で胸の大きな男好きのする体はこの作品にぴったりだ。対して長身痩躯のトマシュ・コットはクーリグの5歳上で実年齢的にもちょうどいいカップルである。このふたりはキスをしてもセックスをしても、ふたりでただ歩いているだけでも、何をしても絵になる。
東西の冷戦はヨーロッパ、特に東側の諸国にとっては苛酷な生活を強いられる時代であったと思う。1980年にソ連からヨーロッパを旅行した人の話では、東側は貧しくてホテルの設備は酷いし、食べ物も全部不味かったそうだ。そして西ドイツに入ってビールを飲んでソーセージを食べたときには、はからずも資本主義バンザイと思ってしまったらしい。
能力に応じて労働し、必要に応じて消費する共産主義の理念はいいが、権力者の腐敗によって再配分が機能していなかったのだ。1980年当時でもそうだったのだから、本作品の主人公たちが生きた1950年代は更に厳しかったと思われる。
冷戦は経済的な格差の他に、文化的な格差も生んでいる。共産主義は日本の戦前の軍国主義と同じ全体主義のひとつで、国家の価値観によって国民の活動を束縛するものであるから、多様な価値観を許さない一元論になる。必然的に指導者の権威と権力が絶対的なものとされてしまい、あらゆる芸術は行く手を阻まれて花を咲かさない。勿論庶民の生活は限定され不自由になる。
しかし主人公たちはそんなことを物ともせず、ただ愛だけを貫く。ふたりの愛が時間の経過にも少しも冷めないのは、どの別れも互いの意志ではなく、時代に引き裂かれた別れだったからだろう。引き離されるほど恋い焦がれるのだ。出会いと別れを繰り返すふたりはそのたびに愛が深くなっているように見えた。
本作品で歌われる歌は、日本語の訳詞♫りんごの花綻び川面に霞立ち♫ではじまる「カチューシャ」以外は聞いたことがなかったが、どの歌もスラブ調の美しくも物悲しい歌だった。音楽家同士のラブストーリーに相応しく、当時の歌や演奏がそこかしこに鏤められていて、夢心地のような時間を過ごすことができた。珠玉の名作だと思う。
ポーランド版「浮雲」
第一に「COLD WAR」という題名が面白い。何故なら主役の二人は別に時代に翻弄されたわけでも冷戦の犠牲になったわけでもないからだ。証拠に「冷戦」というと日本人は分断とか鉄のカーテンとかをすぐイメージしちゃうけれど、二人は結構行ったり来たりする。それも「向こうへ行く為なら何でもやります」みたいな感じで。きっと違う時代や状況下で出会ったとしても、あの二人であれば似たり寄ったりの生き方をした挙げ句同じ結末を迎えたことだろう。こういう、お互いに求めあっているのだけれども、一緒にいたらいたで嫌になって別れ、別れたらまた会いたくなって、を繰り返す腐れ縁の色恋にはハッピーエンドなどないのだ。そういう映画に「COLD WAR(冷戦)」とネーミングしたのは皮肉である。映画会社の宣伝文句や(チラシの)解説が的を得ていない良い例だ。やっぱり映画は先入観無しで観て自分の感性を信じなければ。逆に仮に監督が冷戦時代の時代感とでも言うものを表現したかったのであれば、取り敢えず映画にはストーリーがあった方が良いのでこの二人を道化役にして一応物語の体裁は整えました、とうい感じか。というわけで、この映画のストーリーには感動するところなどひとつもなかった。『オヨヨ』の歌は良かったけど。そう、ボーランドという国とその芸能文化、特に歌の意味が分かればもっと興味深く観れただろう。あと各エピソードの起こった年が都度出てくるが、歴史上何があった年かチェックしておくべきか。色彩感覚に溢れた黒白映像とでも言うべき驚くべき映像美。各シーンを思い返すとカラー映画より雄弁に色を物語っていたように思う。ラストシーンなど畑が確かに色付いていたような錯覚に囚われる。主人公たちは必要最小限のことしか話さない。あとは表情を含め映像が物語を紡いでいく。ハリウッド製の電子紙芝居も悪くはないが、やはりこれが映画とだと思えることに感動する。
冷戦を背景とした美しくも切ない愛の賛歌
観終わって「冷戦」というシンプルかつストレートなタイトルが沁みた。スパイや軍隊が登場するわけでなく、主人公たちはアーティストであるがゆえに東西を行き来する機会もあるのだが、つねに東西の壁が、そして何より東側にある彼らの祖国「ポーランド」が存在し続けた。
1949年、ポーランドは自国の宣伝塔とすべく音楽舞踏団の設立を目指す。そのオーディションで、団の音楽ディレクターとなるピアニストのヴィクトルは歌手志望の女性ズーラと出会い、愛しあった。
その後の15年…東ドイツ、パリ、ユーゴスラビア、ポーランド…東側と西側…別れと再会の輪廻…長い歳月を極力きざんで感情を入れさせまいとするクールな構成ながら、激しく切なくなった。愛って時間じゃないかと思った。
モノクロの映像も音楽も歌も限りなく美しかった。これはオススメしたくなる秀作だ。
映画の完成形
15年を88分で描ききってしまう潔さ!モノクロの映像美!そして溢れる音楽...。芸術映画の最高峰といえる出来ではないだろうか。
物語はパヴリコフスキ監督の両親が部分的に基になっているということだが、ヒロイン・ズーラの完全たるファム・ファタールっぷり。もうそこに溺れるしかないという宿命のようなものを登場から纏う女。
男女は一度別れ、パリで一緒になるのだが、そこで映画のタイトル「COLD WAR」が効いてくる。ズーラは単なるファム・ファタールではなく、どうしようもなくポーランドの女性だ。ヴィクトルが西に憧れて西に順応するのとは決定的に異なる何かがふたりを分断する。...と感じるのは穿ち過ぎだろうか?
結局彼らはまたも別れ、結局多大な犠牲を払って再び巡り会い、あっという間にラストに行き着く。あまりに激しい愛。愛のためにそこまでできるのか?考えてしまう。
これだけの物語を88分におさめてしまう無駄のなさ。物語に弛緩がない。無用な語りや背景がほぼ描かれないこと、言葉ではない分は音楽が完璧に補っている。映像、音楽、物語が調和した映画のある種完成形と感じた。
運命じゃない二人
運命じゃない人って時々いる。運命だって思ったのにそうじゃなくて、運命ならいいのにって願うのにうまくいかなくて、運命ならきっとまためぐり逢うはずって信じて別れたまま、永遠に報われないような。そのくせ、運命じゃないのにずっと心から離れていかない人。
この映画にそんな「運命じゃない二人」の恋路を見た。時代と冷戦と国境と政治と音楽に翻弄され、引き裂かれたまま戻ることも進むこともできなくなってしまった二人が、運命に逆らってなんとか二人の愛を結び付けようとするのにどうしても結ばれない。その様子が切ないやら美しいやらで、文字通り胸が締め付けられるようだった。時代や国が違えば二人はもしかしたら「運命の二人」だったのだろうか?と考えるけれど、私はなんとなくそうじゃない気がする。傍にいることもいないことも、どっちも二人にとって苦しいことに見えた。
正直なところ、はじめのうちは映画の時代背景や国の情勢など、私の知識不足のせいで理解が難しいのでは?なんて不安に感じていたのに、映像の中にいる主人公二人をただ見つめているだけでもう話が分かる分かる分かる・・・。二人を通してその時代がより鮮明に見えるようでもあった。
余計な説明はすべて排除して、そこにいる二人の姿や在り方だけでシーンを魅せ切る潔さ。そしてそれを切り取る映像のリアリティと美しさ。加えてそれらを彩る音楽。2018年の映画なのに既に「名画」の風格すら感じてしまった。
今生ではもう結ばれないと悟った二人が、運命に逆らって下した最後の決心と、残された時間の余韻。
切なくて美しい極上のラブストーリーだった。そうだ、こういう映画を「ラブストーリー」と呼ぶのだ。
音楽が奏でる不思議なラブストーリー
冷戦下の抑圧的な時代背景をモノクロで静かに静かにひたすら主人公2人の内側に情感を込めて丁寧に画かれています。今更ながらこういう時代背景ではこういう愛の表現も致し方ないのかなと思いました。2人の感情を吐露する手段は歌とピアノであり、うまく2人の心を代弁していましたね。
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