ウィッチのレビュー・感想・評価
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もっとロバート・エガースの映画が観たい
ロバート・エガースの初長編!まじか?ってゆうクオリティのデビュー作。
ライトハウス、ノースマンは映画館で観たのでデビュー作も観たくって鑑賞。
ノースマンのときに、時代考証が徹底しすぎてて
衣装に使う糸にまで当時使っていたとゆうこだわりぷりの話聞いてたので
そんなロバート・エガースが魔女をテーマにした映画なんて期待しかない!
だったんだけど、期待以上の怖さと面白さ。
ルックが良すぎるから、陳腐さがなくて、
怖いよ…。山羊小屋の魔女が1番怖かった。
村はずれの荒野に1つの家族のみが出てくる
コンパクトな空間が牢獄のようになっている。
当時の宗教感における魔女のイメージをその時代のリアルを目指して映画にしている感じで。
その時代のリアルと今からこの時代を観るファンタジーの間にある何かがロバート・エガースの映画の魅力だと思ってる。ノースマンもそうゆう意味でめちゃくちゃワクワクした!
1番観たかったファンタジー像なので、これからの作品
が楽しみだし、ロバート・エガースが潤沢な資金で映画作ったらすごいものが観れそうで期待してしまう。
ウィッチでダークホラー、ライトハウスで狂気のアート映画、ノースマンで北欧神話大河とジャンルが広いのも今後どんな映画が見れるのかワクワク。
そもそも、初長編でこのクオリティは凄まじい才能。
幼さがの残るアニャ・テーラジョイの美しさもこの映画の魅力だけど、映る全てがパーフェクト。魔女が誰なのか、ほんとうにいるのかいないのか?双子はどこに消えたのか?
村山章さんのレビューで当時の怪奇現象の1つに幻覚作用のある食べ物があったとゆうのも、映画の物語に作用してるとゆうのを読んで
じゃあ、あそこは幻覚なのかもしれないとか、そもそも誰がそれを口にしているのか?など緻密に作られてるからこそ考えるのが楽しい。
観客の目線からのみ主人公のトマシンは、信用できる語り手として描かれてるから
映画への没入感がある。
配信で鑑賞
宗教観や死生観を考えさせられる内容
当時の魔女裁判の記録や民間伝承などから着想を得ているそうですが、かくも盲目的な信仰は人を思考停止させ、愚かにするという事実は、現代にも通底するから怖い。医学も科学も未発達で、この世界の理がほとんど何も分かっておらず、病や飢餓で死が日常的に身近にあった時代を生きる人々にとって、神に縋るしか心を保つ術が無かったのだろう。ただよく考えたらそれは日本人にも言えるのに、キリスト教のような一神教が根付かず、魔女狩りのような陰惨な事件も起こらず、仏教や神道すら冠婚葬祭の時くらいしか意識しない日本人のニュートラルな宗教観や死生観は特殊だなあと改めて思い至りました(笑)。まあ言える事は、やはり何も考えずに、とにかく神に祈ったり許しを請うていればそのうち救ってくれるだろうという他力本願な生き方では何も上手く行かないというのは確かだろう。
それにしてもキリスト教圏の人達は今作を観て、魔女の描写など明らかに悪魔的な存在は匂わせているのに、敬虔な信者の家族を見捨てる神様ってどうよ?的な内省的批判は無いのかなと(笑)。この期に及んで信仰心が足りないとか考えるんでしょうかね?
何とも陰鬱な内容ですが、出演者さんたちの鬼気迫る演技に敬意を表して★3つで
いろんな要素がいっぱい詰まった映画
とてもいろんな要素がいっぱい詰まった映画という印象で、凄く刺激的なのですが、凄く煮えきらない。
不思議な魅力を持った、でも後味の悪い映画でした。笑
最後まで、なぜ赤ちゃんがとつぜんいなくなったのか、という疑問がつきまとう。
いろんな可能性を考えるが、どれもスッキリ当てはまらないので悩ませられる。
群れて暮らさないとやっていけない非力な人間が浮き彫りにされているが、それならば後発の「ライトハウス」の方が、よくまとまっていて説得力があるかな、と思う。
でもいろんな要素がいっぱいつまってるという点では、興味深さの宝庫みたいな映画で、悪くはなかった。
卓越した美学で描く少女受難の反・宗教画
十七世紀といえばもはや近代であり、中世の魔女狩りからは時代も、そして場所も新大陸だから隔たっているが、入植者の篤い信仰心に基づく現実には、いまだ魔女も悪魔も実在していただろう。
本作はそんな現実に暮らす移民一家の悲劇を、彼らの世界観のままに、つまり宗教的心性の下に描いた作品である。
宗教観の違いから入植地集落を追放された一家は、自分たちで家を建て農地を開墾して暮らしているが、貧困に押し潰されかけている。そのような孤立した一家に、悪魔と魔女は徐々に手を伸ばしてくる。
一人目は生まれて間もない乳児である。長女トマシンが「いないいないバア」をして両手で顔を覆った瞬間、そこにいた乳児は忽然として消えてしまう。乳児は森の魔女に切り刻まれて、その血を魔女が身体に塗り付ける。
二人目は長男。悲嘆にくれる母を置き、トマシンと弟の長男は食料を得るために森に出掛ける。ところが不吉な黒兎が出現すると、馬も犬も騒いでどこかに逃げ去ってしまい、トマシンは気絶、弟は行方不明になってしまう。彼はやはり森の魔女に口づけされ、やがてほとんど人事不省の状態で帰ってくるが、最後に突然起き上がって神の栄光を称える文句を唱えては死んでしまうのだ。
残る家族は五人で、トマシンと双子の弟妹の三人には魔女の疑いがかけられるが、父親が彼らを家畜小屋に閉じ込めると、悪魔と魔女はいよいよ家の中に忍び込んでくる。
閉じ込められた三人の前には魔女が現れ、双子を連れ去る。朝、それを目撃した父親は、悪魔の化身である黒山羊に角で突かれ殺されてしまう。母親もまた悪魔に魅入られてトマシンを殺そうとし、逆に殺される。
残ったのはトマシン一人。すべてを失った彼女は、黒山羊にどうすればいいかと尋ね、最後には悪魔に魂を売り渡す契約に署名させられ、本物の魔女と化してしまうのである。
悪魔や魔女の実在を前提とするホラー映画なら、悪魔たちはもっと邪悪かつ凶暴になるだろうし、一家はもっと彼らを恐れていたに違いない。
また、悪魔や魔女は人間心理の投影に過ぎないという立場の映画なら、悪魔たちは決してその姿を画面に現わさないはずだ。
しかし、この映画はそのどちらでもない。登場人物たちは悪魔や魔女が存在すると信じ、その信仰のままに魔女は姿を現すのだが、恐ろしい超自然的な魔力を揮ったりはしない。彼らは人間世界の不幸を帰責するだけの、いわば信仰の枠内の存在なのである。
魔女が実際に登場するという意味ではホラーに類似しているが、信仰の枠内でしか悪を為さないという意味ではホラーではない。これを踏まえると、本作は一種の宗教ドラマ、少女の宗教的受難劇といったほうがいい。
冒頭のシーンを除いて陽が射すことはなく、どんよりした空の下や薄暗い家や森の中、重苦しい構図と恐らくは再現に拘った十七世紀当時の様々な生活用具の中で、次々に不幸が繰り広げられる。
通してみると、どこにも新しさはないのだが、どのシーンも美しくて見惚れてしまう。とくにトマシン役のアニャ・テイラー=ジョイは青磁のような美しさで、観客を惹きつけてやまない。こうした美学にこそ、本作の価値はあると思う。監督はいわば、一枚の反・宗教画を描いたのである。
いないいないバァと、あやしてる間に本当にいなくなった赤ん坊
裁判記録などを基にして、ニューイングランドの民話にインスパイアされて練られた脚本ということだが、どう考えても残った人間はいなさそうだし、誰の証言を参考にしたのかさっぱりわからない。
トマシン(アニヤ・テイラー=ジョイ)にはすぐ下の弟ケイレブと未就学児くらいの双子ジョナスとマーシーがいる。さらに赤ん坊のサムがいるのだが、彼が神隠しにあったように行方不明となる驚愕のエピソードが発端となる。
ある意味、狂信的なキリスト教信者であった父親のウィリアム。ピルグリムファーザーズの一員としてキリスト教布教のために渡米、入植したのだが、教会と対立したために人里離れた深い森のそばで暮らし始めたのだ。しかし、トウモロコシの栽培もうまくいかず、妻キャサリンが持ってきていた銀のコップをインディアンが使っていた狩猟用罠と交換する。その仕掛けにもなかなか獲物はかからなかった・・・という状況。
赤ん坊は諦めたが、双子たちはトマシンが悪魔に魂を売ったと詰る。やがて夫婦がトマシンを奉公に出そうと考えたので、弟ケイレブが連れていかれないようにと禁断の森へと馬を連れていき、トマシンもそれに従った。ところが今度はケイレブが魔女にさらわれて、呪われるという事態に(観客のみぞ知る)。それもトマシンのせいだと親に告げ口する双子。こいつらが子供のくせにむちゃくちゃ不気味なのだ。
悪魔に魂を売ったのはどっちだ?と、親をも疑心暗鬼にさせ、家族の絆もギスギスと混乱させる悪魔。ケイレブがせっかく帰ってきたのに祈りの言葉を忘れた双子。父親もトマシンを疑うようになってくる様子も面白い。あぁ、これじゃ一家全滅だよ・・・と思わせる終盤からはトマシンの決意が必然性を帯びて、哀しく切ない姿を描いていた。それにしても、裸になって契約のサインを済ませなきゃいけない悪魔との儀式。幼い双子に字は書けなかっただろうから、全ては黒ヤギさんの仕業だったと感じた。銀のコップが戻っている描写も一瞬あったのですが、もしかしたら父親も絡んでいたのか?などと、色んな解釈が出来そうです。ただ、空中浮遊はやりすぎな気がしたし、魔女裁判に対して否定的な要素がないところが減点対象。
少女トマシン。清純そうな魅力いっぱいの彼女だが、出演作はホラーばかりというのもいい。21世紀のホラークイーンとなるか?!
『ライトハウス』の予習のつもり
もちろんモロなシーンはないが、中々にエグ味のある映画だった。もともと火種は抱えていたといえるが、どんどんぶっ壊れていく家族、そして始まる家庭内魔女狩り。いたたまれない。好きな役者がSNSでの不用意な発言で炎上するのを傍観しているのは、こんな感じ? あれ、なんか色々考えてたら、結構な傑作の気がしてきたが。
日本人ですから宗教的なことや悪魔や魔女を怖がる感覚がよくわかりません。
悪魔は、悪は、悪意は、いつでもどこにでもある。
不気味な映画だ・・・
親が敬虔すぎるが故に信じてもらえなかったのかなあ、魔女だ悪魔だと冗談で言うだけで、両親共に本気にしてしまって。 冗談も通じない家族なのか、敬虔な信者にそういう冗談自体言っちゃいけないのか・・・娘より神を信じてどうするんだ・・・弟のケイレブだけはいつも味方だったけど、ひどい目にあっちゃって。 赤ちゃんが連れ去られて魔女がすぐに出てくるとは思いませんでした、一体何の仕業なのかわからないまま物語が進み最後にわかるのかと勝手に想像しちゃってました(笑)
『男女七人核家族物語』
自宅にて鑑賞。原題"The VVitch: A New-England Folktale(副題附きで珍しく邦題の方が短い)"。集団ヒステリーの事例として社会科学的にも悪名高いセイラムの魔女狩りを題材にした中で、A.ミラーの戯曲『るつぼ』を映画化した『クルーシブル('96)』が有名だが、物語はそれから遡る事62年前の1630年ニューイングランド州が舞台。疑心暗鬼と原理主義に囚われ、一家が崩壊する悲劇をオカルトチックに描く。彩度を抑えた素朴で濁った色調の画面と不安を煽る意味有り気なBGM。悪趣味と云われようが嫌いじゃない。70/100点。
・古き佳き迷信深い米国の田舎町に質素な暮らし、鬱蒼と茂る枯れた森と寒々しい曇り空、地味な画面が人間ドラマを際立たせ、ミスリードを誘う展開が不信感を募らせる。女性が主人公で、家族の崩壊と転生を描く意味で(本作より後に製作された)『ヘレディタリー/継承('18)』を髣髴させるが、彩度を抑えた画面の色調や落ち着いた語り口とどこか不穏で陰鬱な雰囲気が漂う点も本作によく似ており、人が浮いたり、全裸で行われる儀式等の描写や登場人物の心象の推移と云った展開等、クライマックスはそっくりである。
・本作が映画デビューで出世作ともなった長女“トマシン”のA.テイラー=ジョイ、あどけなくも魅惑的にも感じる笑顔と確かな演技力だが、彼女をどう見るかで本作の解釈が変わってくる。薪を割るしか能が無いと罵倒された父“ウィリアム(ウィル)”のR.アイネソン、不甲斐無い立振る舞いが板に附いていた。そして嘆き罵る以外、現状を改善しようとしないただ控え目なだけの母“キャサリン”のK.ディッキーが不和や不信の象徴として屋台骨となり、厚みを増し本作を支えている。
・エンドクレジット時に表示される様に、実際のお伽噺や民間伝承、日記、裁判記録、新聞記事等を参照し、シナリオに活かされいると云う。特にH.スクリムショウの長男“ケイレブ”が死の床での双子であるE.グレインジャーの“マーシー”及びL.ドーソンの“ジョナス”を含めた遣り取りは、植民地時代のマサチューセッツ州で起こったセイラムの魔女狩りの裁判記録を口語に直し、直接引用しているらしい。尚、この席で父“ウィリアム(ウィル)”のR.アイネソンが双子に激高したのは、当時、魔女や悪魔と契約した者は聖書や主の祈り、言葉を復唱出来無いと信じられていたからである。ちなみに本作にチラッと登場する魔女達が話しているのは、全てエノキア語である。
・ソフトのパッケージやポスター等の宣材にあしらわれ、本篇内にも何度か象徴的に登場する野兎だが、これは植民地時代のニューイングランドにおいて、兎は農場から牛乳を盗んだり、人々に悪影響を与える魔力を持つ動物と考えられており、魔女が遣いとして操っていたり、魔女自身が変身した動物と信じられていたのに由縁するのだそうだ。
・撮影は可能な限り、自然光を用い、全てを25日で撮り終えたと云う。
・鑑賞日:2019年1月20日(日)
Taste of butter. 怖いというより気持ち悪い。
なんだか陰鬱な感じでした。怖いっというより生理的に気持ち悪いと言ったが正しいかも。
もちろんアニャ・テイラー=ジョイが出てたんで観てみたのですが、もう最初の赤ちゃんが魔女に囚われてたシーンで結構嫌な感じでしたね。赤ちゃんが不幸になる話は苦手です。後、弟くん、魔女見たら逃げようよ、全力で。セクシーだからってフラフラ~っと近寄っていっちゃダメだよー!
現代の日本人なのでキリスト教の考えはよくわからないのですが、原罪とか言い始めたら生まれてくる事自体ダメじゃね?って思えてきます。父親が狂信的(というか単にコミュ力不足?)してたから村から追い出されてしまい一家にとっては宗教は悲劇にしかならなかったんですよねー。あまり宗教にハマるのは良くないですね。
でも悪魔が取引でバターの味はどうだって言ってるのは現代感覚でいうと意外に悪魔ってケチだなって思ってしまいます。そういえば藤子F不二雄の昔の短編で「昔の人間はちょっとした事で魂を売り渡してくれたのに、最近は贅沢になって苦労する」と悪魔が嘆くマンガがありました。
家族といる時は憂鬱そうだったのに最後魔女になったトマシンの恍惚とした、悲しげな笑顔が印象に残りました。イヤー、演技上手いわ~。アニャ・テイラー=ジョイは次代のホラークイーンになりそうです。
しっかし、何言ってるかスゴい分かりにくいなぁって思いながら見てたのですが、アメリカへの入植当時の言葉を再現してたんですね。例えるなら全編平安言葉の日本の時代劇見てるようなもの。そのこだわりが時代感をいっそう引き立てるのでしょうけど、モヤモヤが残る作品でした。
疑心暗鬼の魔女
よくある低予算ホラーかと思ったら、ジワジワ口コミヒット、批評面でも絶賛。
アメリカ公開時から気になってた一本。
魔女伝説、信仰心など容易く理解出来る題材ではないが、高い完成度に唸らされ、衝撃の展開に戦慄させられた。
終始漂う不穏なムード。
ダークな映像美、人里離れた森の中のロケーションが殊更素晴らしい。
この異様な作品世界に一気に引き込む。
赤子の謎の失踪から始まる、一家を襲う奇怪な現象。
何かしらの事件性で説明付くとタカをくくっていた。
自分の常識や想像力は覆され、通用しない。
ラストシーンなど現実か否か。一体自分は何を見せられているのか。
ラスト近くの“ある者”の登場は『哭声 コクソン』と通じるものを感じた。
不気味な音楽。
長男が森の中で出会った美しくも妖しい女。
時折挿入される意味深なシーン。
主を称えながら発狂しながら息絶える長男。
神経を逆撫でさせる二女と二男。
ヒステリックな母親。
強い信仰心がかえって横暴である父親。
不穏さ、不条理さが幾重にも交錯し、もはや恐ろしい。
最も恐ろしいのは、心の闇。
魔女と疑われた長女。
家族である筈なのに、娘の言う事を信用出来ず、一度疑ったらその疑いに囚われる。
疑心暗鬼。苦悩。狂気。転落。崩壊。
魔女は居た。
心の闇の中に。
この恐ろしく残酷な作品の中で唯一、アニヤ・テイラー=ジョイに魅せられる。
なんだよこりゃ…
僕と追放されて一緒に自給自足の生活をしてよ。
そしてあわれな一家は頭パラッパーな親父と貧乏生活を強いられました。
主人公が可愛くない。
時代がわからない。
国も地域もわからん。
火縄銃使ってるからかなりむかし
それでイギリスか?
これはホラーなのか?まるで怖くないけど
色彩が地味、終始画面が暗い。
なにやってんだこいつら?バカなの死ぬの?
と思ってたら主人公の女の子以外みんな死にやがった
僕は悪魔さ。僕と契約して魔女になってよ。
で森のたき火でドンジャラホイ?
わけわかんないです。なんでこんなの評価高いの?
あまりのつまらなさにイライラして見終わったあと柱に頭ぶつけそうになってしまった、くらくらしてまって。
キリスト教信者ならおもうところあるのかな、とにかく何も感じ入るところなし。
そういえば名作「エクソシスト」もかなり宗教的側面からの場面が多いがちゃんと娯楽性を考えてるし、いまみても何度みても恐いし面白い。
これのスタッフ、みる側のこと考えてるのかいな。
しっかし。
日本には神道という、いつから始まったのかもはっきりしない、なんとも説明しずらい
それでいて非常に興味深いネタがあるんだが、だれも題材として作品にしようとせんな。なかなか、難しいのかもしれんが。
西洋に普及してる宗教の題材なんてさあ。本音を言えば興味ない。
キリスト教が日本にあまり浸透しなかったのは、多神教の神道と相性が悪かったというのもあるよな。
悪いとこは真似したけどな、性に関して厳しいとことか。
いいとこは広まらなかった隣人を愛せ
みたいな慈愛の精神は広まらなかった。
ああ〜それにしても面白い映画がみてえよ〜勘弁してくれ〜
怖すぎる
1630年、ニューイングランド。ウィリアムとキャサリンの夫婦は、敬けんなキリスト教生活を送るために5人の子どもたちと森の近くにある荒地へとやって来た。しかし、赤ん坊のサムが何者かに連れ去られ、行方不明となってしまう。家族が悲しみに沈む中、父ウィリアムは、娘のトマシンが魔女ではないかとの疑いを抱き、疑心暗鬼となった家族は、狂気の淵へと転がり落ちていく。トマシンの弟ケイレブはトマシンと森に行って行方不明の末に戻ると狂気に囚われ死んでしまう。ウィリアムは双子とトマシンを納屋に閉じ込めるが、一夜明けると納屋が壊され、やぎに突き殺されてしまう。トマシンを悪魔と決めつけた母キャサリンはトマシンを絞め殺そうとするが、トマシンは彼女を殴り殺してしまう。一人になってしまったトマシンは山羊に話しかけると悪魔の声が聞こえそれに従い服を脱いで本にサインを扠せられる。最後はトマシンが焚き火を囲む謎の人物たちに会い歓喜の叫びのようなものを叫んでジ・エンド。
本作は民話などに着想を得て作られている。一つの寓話と言える。
キリスト教徒ではないのでピンとこない
ホラー映画は苦手だが、予告が面白そうだったのと魔女ものという題材にも興味があったので観ることにした。
主演の長女トマシンを演じたアニヤ・テイラー=ジョイはアルゼンチン育ちで母語は本来スペイン語らしい。
今年は彼女の出演作品である『スプリット』を先に観ているが、元々は『ウィッチ』が公開されて監督のナイト・シャマランが彼女を気に入って同作に起用したようなので、日本での公開は順番が逆である。
確かに『スプリット』の時よりも本作の方が幼い顔をしている。
(『スプリット』の展開は正直読めた。またブルース・ウィリスが登場した時点で次作で『アンブレイカブル』とコラボすることは容易に察しがついたが、ついにシャマランも自作のユニバース化をし始めたのかといささかうんざりしている。ハリウッドはなんでもかんでもユニバース化するつもりなのか?)
さて本作だが、登場人物が1家族だけで森の中という限られた空間の中で展開されるので、少人数の密室劇に近い印象を受けた。
また筆者がキリスト教徒ではないからなのか、魔女の恐ろしさにもピンと来なければ、森に神聖さは感じこそすれ極度の恐れは感じないのでやはりこちらにも思い至るものがない。
そのため何か起きると自然と犯人探しをしてしまう。前提はホラー映画なのだが、まるでオチのないミステリーを観ているようであった。
見方によっては虐げられたトマシンの心が一連の事件を起こしたと見ることもできるので、犯人はトマシンと言えるかもしれない。
弟のケイレブが何か叫んで死んだシーンでは、そんな急に叫ばれて死なれても…と思ってしまったし、父ちゃんが黒山羊に殺されるシーンでも、唐突に殺された間抜けな親父にしか見えなかったので、怖いというより若干おかしかった。
そもそも黒山羊を恐いと思わないので、山羊がしゃべるシーンも日本で相当売れたと思われる馬の頭の被り物を着けた人間が何か言っているのと同じように見えてしまって、怯えるトマシンにむしろ違和感を感じてしまった。
愛犬が腹を割かれて死んでいるシーンなどもあったが、全体的に視覚に頼り過ぎていて怖さよりも気持ち悪さをより強く感じてしまう。
本作でも描かれているようにキリスト教では女性を明らかに差別していたので、薬草に詳しいなどの自然科学の知識が豊富だったり、科学的知識があったり、そういった女性を醜い男の嫉妬から「魔女」に仕立て上げて処刑していたふしがある。
また密告が奨励されていたので、気に入らない女性も「魔女」の濡れ衣を被せて処刑したようである。
しかも火あぶりの刑は残酷だったらしく、本来は火を焚くと磔にされた人間は上がってくる煙で一酸化炭素中毒を起こして気を失いやがて死ぬところを、生きながら火に焼かれる光景を楽しむためにわざと気を失わないように工夫までするほどだった。
また「魔女」と白状させる拷問も過酷であった。
両の親指を万力で締め上げるのが第一段階、親指の骨が砕けてもみな我慢するらしいが、第二段階は水責めになる。
9リットルもの水を無理矢理飲ませて白状しなければさらに9リットル、それでも白状しなければ全てを吐き出させて同じことを繰り返す。
この拷問方法はその後、欧米各国で活用され、フランスでは1954年から1962年まで続いたアルジェリア独立戦争で、独立を叫ぶアルジェリア人に使用され、最後はギロチンで首を刎ねている。
アメリカはフィリピンの独立派に対して使用した。まず18リットルの水を飲ませて、白状しなければ尋問官が膨れた腹に飛び降りる。また時には海水も使ったため死亡率が高く、公聴会に160人中134人が死亡したという記録まで出されている。
ここまで残酷ではないが最近も水責めはまだ活かされていてグアンタンモ基地でアルカイダを尋問する際に使用されている。
顔にタオルをおいて水をかけて息をできにくくする拷問だが、『ゼロ・ダーク・サーティ』だっただろうか?筆者が観た映画の中にもそのシーンがあったはずである。
また北米大陸に入植した白人はインディアンを殺しまくっているので、そりゃあ森の神様も魔女に姿を変えて復讐するでしょ!自業自得!とも思ってしまう。
すっかり最近では欧米のマスコミの刷り込みのせいで、イスラム教徒というと野蛮で残虐というイメージになってしまったが、歴史的に見れば一番異教徒を殺しているのはキリスト教徒である。
しかも圧倒的で他の追随を許さない。
南北米大陸、オーストラリア、アジアの原住民をどれだけ殺したことか!
十字軍遠征の際もキリスト教徒はイスラム教徒の町に攻め込んで女子供を含めた全住民を殺すなどざらである。しかも殺し方も残虐だったりする。
十字軍は第1回でイスラム教徒の捕虜を全員処刑しているし、第3回でも身代金の不払いを理由にやはり捕虜全員を処刑している。
一方、対するイスラム教徒は名君サラーフ・アッデイーン(サラディン)の時代だったこともあって身代金不払いの捕虜まで全員解放している。
ただこの寛大さを悪用するルノー・ド・シャティヨンというフランス人もいて、解放されてはイスラム隊商を襲うことを繰り返していたので、さすがに怒ったサラディンに手ずから首を刎ねられている。
そして実は現在も冷静に事実に目を向ければ911テロの報復としてイラク・アフガンでどれだけ人を殺したことか、兵器が近代化されているから実感が湧かないだけで数だけ見ればどちらが残虐かは明らかである。
右の頬を叩かれたら左の頬を差し出すどころか、左右の両頬を叩き返した上に両手両足の骨を折るぐらいまでしているように見える。
全編を通してほぼ暗い色調の映像が占めているので、この一家の直面する生活の厳しさはうまく描写されていたが、時折登場する魔女も含めて恐ろしさは全く伝わって来なかった。
またキリスト教徒の偏狭さをデフォルメ化することには成功していたと思う。
今夏はアメリカで山火事が大規模化、長期化する事例が多く発生したが、インディアンは自然に対する知恵があったので、わざと小規模に火事を起こして大規模な山火事を防いでいたようである。
本作のように森を恐れているようでは自然との共存は難しいだろう。
そのように考えれば、本作の最後でトマシンが森の中に入って真の魔女になるのは自然と一体化したとも見えなくもないから不思議だ。
アメリカ人がこれからもアメリカ大陸で生きる以上、いい加減インディアンの知恵に耳を傾けることに気付くべきではないだろうか。
血生臭くてセクシャルなホラー
同じニューイングランドの魔女裁判を描いた映画に『クルーシブル』があるけど、この映画は『クルーシブル』のように人の疑心暗鬼だけで事件が起きるわけではなく、実際に魔女の存在を描き村から孤立した家族を襲っているホラー映画だった。
悪魔の呪い系のホラーは、悪魔のバックグラウンドが全く見えなくて、下手すると陳腐なホラーに見えてくるからそんなに食い入ることはなかったけど、この映画は魔女の存在も描きつつ家族の対立も描いていたりするので、どことなく食い入ってしまったけど、とにかく気持ちが悪い。
やたらと血生臭かったり、魔女が妖艶に長男を誘惑して生気吸い始めたら急にしわくちゃになったりとか、演出が気持ち悪い。
悪すぎて、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』よりも不気味だった。
他の方もレビューで触れていたけど、原題が『VVITCH』で、冒頭にタイトルが出てきたときはビッチ?と間違えて読んでしまった。(あのビッチはbitchだけど…)
結局悪魔と契約した長女が最後、裸で踊って魔女の一員になってしまうことにかけていたりするのかな?とか色々考えてしまいました( ̄▽ ̄;)
アスペクト比が4:3のスタンダードサイズだったけど、変に画面の狭さを感じさせないで自然を不気味に撮ったやり方は圧巻だった。
なぜテレビでもビスタになっていっているこのご時世でスタンダードで撮ったのか、その理由も気になる。
魔女になる
魔女は何かのメタファーなのかと思っていたが、ほんとに魔女になってしまった。あの時代に女性が自由に生きていくには魔女になるしかなかったのかもしれない。サバトも楽しそうだったし。
少なくともあの家族は辛い。双子がうるさくてさっさと魔女に食べられればいいのにとイライラした。結局どこいったのかな。
真実を突きつける女、性的魅力のある女は魔女なのだろう。
古い英語で話しているようで、英語がわかればまた雰囲気も違いそう。
ホラー+宗教=社会派!の秀作。
『ザ・ウィッチ(2015)』
原題 The VVitch: A New-England Folktale
※公開前にアップしようと思ってたのに遅くなってしまいました。
※後半ネタバレあります。
※長文です(笑)
(あらすじ)
1630年、ニューイングランド。宗教上のちょっとした意見の違いから、村を追放された敬虔なクリスチャン一家。その長女トマシン(アニャ・テイラー=ジョイ)は、子守の最中に末っ子の赤ちゃんを誘拐されてしまう。そこから一家は恐怖に支配され、トマシンを魔女だと思い込むようになる。
魔女裁判:セイラム事件で有名なニューイングランドには、多くの魔女伝説が残っています。
本作のサブタイトルにもある ”A New-England Folktale(ニューイングランドの民話)” を読んでみると、魔女が生まれた過程が詳しく書いてありました。
ニューイングランドは「巡礼者の始祖」ピルグリム・ファーザーズを乗せた、”メイフラワー号”が辿り着いた場所です。
つまり信仰の自由を求めた清教徒達が、辿り着いて住み着いた場所なのです。
しかし自由を求めた代償は大きく、彼らは長く厳しい冬と、原住民との戦いに明け暮れるこことなります。
厳しい最初の冬は、彼らの半数を死に追いやったようです。
そんな厳しい生活の中で、彼らは支え合って励まし合って生活したか?
答えはNOです。
本作にも出てくるように、宗教上の意見の違いで追放し、ちょっとでも変わった容姿や、言動をすると、それだけで迫害されました。
他人と違っていることは、この時代は悪だったようです。
彼らは古くからの迷信や前兆、予兆、に"絶対的な”信仰を持っていたので、空を読んだり、見慣れない現象で未来を決めつけました。
でも、その予想があたらず、不運に見舞われた時には、それは誰か……、つまり”魔女”のせいにしました。
魔女は、隣の気に入らないおばさんだったり、近所の綺麗なお姉さんだったり。告発する人の気分次第です。
厳しい生活の中で、いつ不幸に見舞われるか分からない恐怖、不安が、互いに告発しあう閉鎖的な村社会の中で、大きく膨らむ。
多くの魔女裁判は、このような鬱積した生活環境から生まれました。
本作ではこのようなお話が、まるでゴヤの黒い絵のように、禍々しく、美しく、描かれていました。
(以下ネタバレ)
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トマシンは魔女と疑われ、結果的に家族を失い、森へ向かいます。そこしか行き場がないように。そこには、血まみれで狂ったように踊る全裸の女性達がいます。
トマシン。英語表記はThomasinです。
キリスト12使徒の一人、トーマスと、sin(宗教的な意味での罪・原罪)が合わさっています。
このトーマスさん、調べてみると面白いですよ。
「なぜ疑うのか」
映画『哭声/コクソン』でも、ラストでそんな台詞がありましたね。
あ、次は『哭声/コクソン(2016)』の感想書きます!
そして考えるのです。
現代における魔女はなにか?
魔女はきっと作られるのです。
見せ方はうまい
恐怖映画はやっぱりはっきり見せないのが視覚的にいいね。不気味さが伝わってきた。魔女の存在を明確にするかどうかは難しいね。夢か現実かという展開が緊張感や恐怖を生むから、ラストのオチは微妙。
見ている映像は正しいのか、そうで無いのか、あやふやになっていく
面白かったです。
中心の登場人物である一つの家族は、皆がお互いを愛して、敬虔で、思いやりがあるのに、末っ子が行方不明になってから、ボタンを掛け違えてしまった様にどんどんすれ違い疑い合い、最後の悲惨な結末まで転げ落ちて行くのが見事でした。終盤の、何が本当で何が嘘か、見ている映像は本当に起こったことなのか分からなくなっていくのが、コクソンみたいだと思いました。
悲惨な状況に追い込まれて行くのに、悲壮な雰囲気もスリラーな空気も無いので、映画としてはとても見易いです。
魔女の疑いをかけられた長女が、最後は安住の地を求めて本当に魔女になってしまうのが悲しいけれど状況を考えたら納得。中世ではこんな人もいたのでしょうね。
信仰と本能、抑圧と解放。
1630年のアメリカ・ニューイングランド地方。
宗教観の相違から集落を追放され、人里離れた森の近くで
新生活を始めた清教徒の家族が、赤ん坊の失踪を
きっかけに、森に棲む魔女の恐怖にさらされるという物語。
いやはや、おっそろしい映画でした。
冒頭のヴァイオリンとコーラスの不穏な響きから怖いし、
赤ん坊の末路には序盤から背筋が凍る。そこから先も、
暗く冷え冷えとした色彩の映像と、淡々と底無し沼に
沈むかのようにずるりずるり悪化していく展開が恐ろしい。
灰色の空、青黒い森林、洞窟の暗黒、
鴉のついばみ、白山羊の赤い乳、黒山羊の金の眼、
双子の無邪気な悪意、徐々に精神を病んでいく母、
ケイレヴとトマシンの狂気じみた恍惚のおぞましさ……。
...
僕はキリスト教の考え方に詳しくはないので、
本作のテーマ云々を考察することは難しいが、
えもいわれぬ恐ろしさと共に感じたのは、
盲目的に何かを信仰することの危うさだ。
あの父親はとにかく厳格だったというか、己の信仰を
頑ななまでに実践し、それを家族にも課していた。
ことあるごとに子供達に罪悪について説いて聞かせ、
神への畏れや罪悪感で彼らを律しようとしていた。
だが、たとえ罪悪だと言われても、嘘をついたり情欲に
駆られたり怠けたい遊びたいと考えてしまうのが人間。
トマシンやケイレヴのような多感な時期の少年/少女
であれば、その教えに反感を抱き始めても当然だ。
ケイレヴは「罪をあがなう暇もなく死んだ幼子は
地獄行きなのか」と不安と疑問を抱いていたし、
トマシンに至っては家族、特に父母への不信感と
怒りを徐々に露わにしていった。
母はトマシンの勤労をひとかけらも信用して見せず、
父は「嘘は罪悪」と言いながら銀食器の件で嘘をついた。
彼は家族の前でトマシンを悪者にしただけではなく、
金策に失敗して娘の奉公の話を出したことになる。
家族間の不和は、魔女に襲撃のチャンスを与えた。
むしろ魔女たちはそれを狙っていたのだろう。
一家に魔女の襲撃を防ぐ手があったかは分からないが、
少なくともあの父親が家族に律した信仰――ここでは
いっそ価値観や教育と言い換えても良い――は、事態を
悪くする方向にしか作用していなかったように思える。
彼は頑なにならずもっと早く集落の誰かに助けを
乞うべきだったし、家族の意見や自分の気持ちに
もっと慎重に耳を傾けるべきだった。
仮に神の教えとやらが完璧でも、それを伝承する
人間自体は不完全なわけで、そこには矛盾や恣意や
邪心が介入して当然だ。個人の解釈差だって出る。
それを鵜呑みにしたり他者に押し付けてばかりは
危険だし不和を生むばかりだと、個人的には思う。
...
女性映画としての側面についても触れる。
冒頭からトマシンは、集落を追放される事への驚きと
不安を隠し切れていない。序盤の神への告解でも
彼女の無邪気で奔放な心根が垣間見え、他の家族
と彼女の感覚には隔たりがある事が分かる。
皮肉な話、家族が存在する間、トマシンは
決して本来の自分として振る舞えなかった。
しかし、家族が消え失せた事で、ついに彼女は
自身を解放できた。なんて陰鬱なハッピーエンド。
きっと魔女たちは初めからトマシンが“同類”だ
と踏んでいたのだろう。彼女らはトマシンを
家族から孤立させ、その精神に限界まで圧を掛け、
最後の最後に爆発させたのだ。
欲望の赴くまま赤ん坊や幼い子供にまで手をつける
魔女たちはもちろん邪悪だが、トマシンの末路を
そのまま当てはめるなら、彼女らもまた強力に
抑圧された精神がマイナスへ極端に振れ切った者達、
その時代の女性に対する抑圧的な価値観が発端で
生まれた、忌むべき存在だったのだろうか。
...
ひとつの価値観や生き方に囚われ続けること。
その価値観や生き方を他者にまで強制すること。
ともすれば信仰・信念が陥ってしまうそんな負の
側面の恐ろしさをまざまざと見せつけられた気分。
ええもう、秀作ホラーだと思います。
にしても、前評判通りアニヤ・テイラー=ジョイは見事だが、
ケイレヴを演じた演じたハーヴェイ・スクリムショウ君も
負けず劣らずの熱演。名前覚えといた方が良さそう。
<2017.07.26鑑賞>
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余談1:
原題『THE VVITCH』は
なぜ『W』ではなく『V』2つなんだろうか。
・V≒5人の子供なら、VV≒相反する子供達、
悪魔に魅入られて変貌した子供達のこと?
・VITCH≒BITCH(売女)=母親視点でのトマシン?
・VVであの家族が手を繋いで神に祈る姿を模した?
・単純に、当時そんな表記があったとか?
謎やねえ。
余談2:
本作、鑑賞時点では新宿でしか上映してなかったので
静岡在住の自分は鑑賞を諦めていたのだが、たまたま
近くへの出張が重なって夜に観に行くことができた。イェイ。
しかし、元は鹿児島のド田舎出身の自分には、
深夜の新宿はまるで迷路のようで怖い怖い。
あれえどこ行っても同じ風景に見えるよ怖い怖い。
森で迷子のケイレヴ気分。
魔法少女になりたいんです!!2016年全米を騒がせたVVなホラーをおっさんはこう見た!
魔女の作り方については、なにも決して新しいモノではなく、特に君たちのよく知っている作品としては、「魔法少女まどかマギカ 新編 叛逆の物語」というのもあるので、そのことについては触れない。
それら、えてして共通して言えるのは、悪魔とは結果として「そっと手を差し伸べる救済者」の存在と描かれている点である。
2016年全米を騒がせた本作だが、公開する劇場は新宿武蔵野館のみ。ある意味、悪魔の巣窟だが、実際そういう客層だったので、それはそれで楽しく鑑賞。
その意味では、魔女、と聞くとニヤニヤする君たちはぜひ観に行ったほうがイイ。
「ウィッチ」
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1630年、ニューイングランド。ウィリアムとキャサリンの夫婦は、敬けんなキリスト教生活を送るために5人の子どもたちと森の近くにある荒地へとやって来た。しかし、赤ん坊のサムが何者かに連れ去られ、行方不明となってしまう。家族が悲しみに沈む中、父ウィリアムは、娘のトマシンが魔女ではないかとの疑いを抱き、疑心暗鬼となった家族は、狂気の淵へと転がり落ちていく。
というのが、映画コムの紹介するストーリー。
しかし村を出た理由は怪しい。村の連中と対立しただけで、当時、セイレムの魔女裁判、という背景もあり、近辺のニューイングランドでもそのようなことはあったという前提でいうと、彼らは魔女だと、疑われていた可能性もあるし、魔女裁判にうんざりし、村を出た、ということかもしれない。
いずれにせよ、ここでは彼の「強い思い(こみ)」のみが語られるだけだ。
本作、よくキューブリックの「シャイニング」に似ている、という意見もあるが、「シャイニング」とは逆である。「シャイニング」はもともと狂った主人公が、そういう環境で、「目覚めた」だけであり、オカルトチックな描写はあっても、根本は彼自身の行動原理によるものであり、心霊現象は彼の妄想といってもいいようにできている。第一、キューブリックはオカルトを信じていない。
一方、本作ははっきりと、ルシファーと魔女の存在を描いている。
当時の人間としては、「黒山羊はルシファー」と知っていると思われるのだが、なぜ飼っていたのか、までは描かれていない。つまり、本作は、敬けんな信者が堕ちる話ではなく、敬けんであると思い込んでいる「すでに堕ちてた家族」の話とも取れるわけだ。
父親は薪割しかしないダメ親父。この親父の最期は、必要以上に割られた薪に埋もれて死ぬところは、本作の唯一の笑いどころ。だが彼にしてみれば、「自分のした仕事に埋もれる」という結果。
母親はまるで母親の役割をしない。この母親の最期は、最初に失った赤子が戻ってきたという幻覚を悪魔に魅せられ、カラスに乳首をつつかれる。だが、彼女にしてみれば、赤子に乳を吸わせているのである。
長男は、主人公である姉の胸元に欲情。結果、爆乳の魔女に誘われ、死の接吻を受け、素っ裸で恍惚とした表情で死ぬ。そう、彼もまた爆乳に抱かれ、キリストに赦しを得たという幻覚を見て死ぬ、という己の欲求を満した死。
双子の兄弟は、純粋無垢ゆえの残酷。それは常に現実からの逃避。黒山羊ルシファーとの会話を経て、魔女にいけにえとして宙に連れ去られる。
そんな家族の長女は
「悪魔からいかにスカウトされるか?」から、「いかに悪魔にスカウトしてもらうか?」に変わる。
みんな狂っていくのではなく、信仰に「狂っていた」結果、「幸福な」落としどころに落ち着くのである。
追記1
原題 VVITCH
タイトルがW(ダブリュー)ではなくVV(ヴイ)。
「V」は「ピースサイン」「ヴイ」「5」
一体なにを示すのでしょうね。魔法少女になりたければ、調べてみるといい。
追記2
セイレム魔女裁判については、映画「クルーシブル」という超傑作があるよ。そっちのほうが「ホラー」。
本作の森にいたのは、ウィノナか?(ただし爆乳ではなく、老婆の方)
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