劇場公開日 2015年10月24日

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「低評価も高評価もありうる。」ギャラクシー街道 lotis1040さんの映画レビュー(感想・評価)

0.5低評価も高評価もありうる。

2016年5月6日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

笑える

知的

寝られる

いまさらながらギャラクシー街道を見た。
一般的にはどうしようもないものというのが評価だろうし、私が一般的な目線で評価を与えてもきっと似たようなものになると思う。
しかしながら、私はそこで妄想を加味したい。
それは笑わせるということを敢えてしないということだ。
そして見せ場を作らないということだ。
それはイコール面白くない映画を作るということである。
これは映画に対する挑戦だ。あえなく敗れはしたものの映画と自分に対する挑戦とも捉えることができる。
いくつかの点で過去の三谷幸喜作品と本作では違いが出ているように思う。
まず、場面設定。これは過去の三谷作品に通じるものだ。
固定した舞台の中で織り成す人間模様。
演劇畑の三谷幸喜らしい固定された場面は、その中に詰め込まれた多くの情報を処理することによって物語が進展してゆく。不必要な人間が一人も登場しない。不必要な場合は、削ってしまうのが三谷の芝居といっていいだろう。
ところが、この作品の場合。登場人物は大めだが、話の筋に必要な人物はほとんどといって登場していない。
この物語に必要な登場人物は、究極には主人公夫婦だけで十分なのだ。
その二人には少し余るような情報量があるが、通常ならばこの二人にそれを委ねることによって場を盛り上げるのが本来のシナリオ技法といえるのではないかと思う。

次に誰もが指摘しているシモネタ問題である。三谷幸喜はかつてここまでエロ・下ネタに特化したことはないのではないだろうか?
エロは多少あったが、ひとつの作品の中にここまで盛り込むということをしてこなかった。
大幅に整形を変えたのだ。
大幅に変えたのはそこだけではない。この映画には極端な長回しがない。
間数本抜けているのでなんとも言えないが、三谷幸喜の映画の特徴として長回しというものがあったように思う。
三谷作品の長回しはその作品に優雅さや堂々とした風貌を与えていた。
今回の作品はこれがまるでない。
細かなカット割りによってまったく別の監督の作品に見えてくる。
長台詞も少ないので朗々と語る部分がなく、舞台に近い状態を作っているようにも見えない。ただ限定された場所に人がいるという程度で特に大きな盛り上がりもない。
唯一ラスト30分弱のあたりから盛り上がりを見せはするもののしょぼい。映画にする必要のないものだ。

とある舞台作家は、この作品を評して観客を馬鹿にしていると言った。
そのとおりだ。
この作品は観客を馬鹿にした作品だ。そればかりではなく、映画の作り手を馬鹿にしてもいる。
徹底した馬鹿に仕方。これがこの映画の本質だ。

彼が培ってきた舞台演出、戯曲それらを全て擲って、どうしようもないものを作るというコンセプトに則ったものがこの作品ではないかとふと考えた。
それは、彼自身のパンクだ。
アナーキーな魂がそうさせたのだ。
ひたすらに酷い三谷幸喜というものをいったい誰が望んだだろう?

才能の枯渇というレビューをいくつか見たがこれは才能の枯渇などではない。三谷幸喜の悪意そのものだ。
「つま先まで細やかに作られた和製ワイルダー、三谷幸喜は面白い」「映画ならではの空間の使い方」などというものを一切排除した。
三谷幸喜ならば、今までの自分の中にあるものでこの作品を面白く卒なく作ることができたはずだ。そして、本人もこの作品のインタビューで自分の中にあるものだけで書けたという発言をしている。
しかし、それは嘘だ。
宇宙に浮かぶハンバーガーショップの話を書くというだけで、そこにある今までの三谷幸喜を全て排除して作られた本当に悪い作品だ。
何故そうなったのか?

回答のひとつにとある登場人物の存在があるように思う。
私は、その存在を三谷幸喜自身ではないかと考えている。
その存在は様々な古今東西のシナリオに登場するキャラクターで、その存在はかなり重要な役割を果たすことになっている。
あるときはメンターとして話を進ませたり、またあるときは物語の中心にいるようなキャラクターだ。
だが今回、この作品において一見ほとんど役に立っていない。
台詞も最後に一言あるくらいで何もない。

これはいったいどういうことなのだろう?
三谷幸喜はこの役に何を持たせたかったのか?考えてみてわかった。
実はこの役だけではなく、一見関係のない殆どの役がただのデコレーションではない。
これは、この主人公夫婦の物語を見つめる人々の、言わば演劇を見つめる人々のメタファーだ。
そのとあるキャラクターが代表的に三谷幸喜を表現しているように思った。
三谷幸喜は、物語に強く干渉するわけではなくただそこにいる。それは映画を見ている観客と三谷幸喜の関係性に似ているように思う。
映画を見ている観客に三谷幸喜は触れることができない。
直接話しかけられれば、自分で説明もできる。この作品のどこがどんな風に面白いのか語ることもできるがそれは多くの場合ありえない。
本当はこの作品はこんなに面白いのだと大声で言いたい。しかしこのキャラクターは干渉することも許されない。最後に出てきて少しだけ言葉を発する。彼にとって監督とはそういうものなのではないだろうか?
周囲の評価が本当に自分の映画の評価なのかわからない。
舞台ならすぐに観客とリンクしているからリアルタイムに見えてくる。しかし映画はどうだろう?
監督は作品が公開された瞬間に自分のものではなくなる。
最後の遠藤さんのシーンもそういったものの隠喩かと思った。

そう考えるとよくできている。映画紹介サイトなどでのちのち見ることになるであろう評価を全て予想しながら作られたものだと考えるなら、評価を低くつけなければ嘘だ。監督が期待した通りの答えにならない。

lotis1040