劇場公開日 2013年10月26日

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「存在とは思考する自己である」ハンナ・アーレント つとみさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0存在とは思考する自己である

2024年3月7日
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鑑賞方法:DVD/BD

「サウルの息子」が衝撃的に面白く、今年はそれ以降ホロコースト関連の映画を追いかけている。
知らなかった世界の扉を開く行為に夢中になった、とも言えるだろう。
そんな中でも「ハンナ・アーレント」は「何故人類は残酷な行為に手を染めたのか」という問いに答えを示した哲学者を通して、新たな知見を得られた得難い映画だった。

この映画で重要なキーワードとなるのは「普通の人間」という言葉だろう。アイヒマンも普通の人間であり、彼の本質を看破したハンナもまた普通の人間である。
「ハンナ・アーレント」なのだから、彼女の日常を描くのは当然と言えば当然なのだが、アメリカで夫と暮らすハンナはごく普通の女性である。
気のおけない女友達がいて、夫に寄りつく女性を牽制してくれたりする。
友達を自宅に招いてお喋りしたり、倒れた夫に寄り添ったり、ごくごく普通。

一方のアイヒマンもまたごくごく普通の組織の構成員である。彼の主張は「命令だからその通りに行動した」というものだ。ある意味当たり前の事をした、ただそれだけだ、というものである。
アイヒマンの裁判での映像は記録映像で、ハンナが実際に目にしたものを私たちも見ている。果たしてアイヒマンは冷酷無比な異常者に見えただろうか。

ハンナの「アイヒマンは普通の人間」「時に平凡さが巨悪を成す」という分析が受け入れられなかったのは、主に感情論だ。
裁判のシーンでも被害者であるユダヤ人の証言はアイヒマンの有責を示すものではなく、「いかに自分が(または家族が)残酷な目にあったのか」が延々と語られる。
裁判に必要な証言とはおよそ呼べない情緒的な光景が繰り広げられる中で、ハンナとアイヒマンだけが「これは何の冗談だ?」と感じていただろう。

悪を成したのだから悪人であるべき、という主張は繊細過ぎるし感情的過ぎる。
感情を排して「何故人類は残酷な行為に手を染めたのか」を紐解こうとした時、感情論で向かってくる相手と同じ目線に立てないのは自明だ。
さらにハンナの主張は「善人であるあなたも巨悪を成す可能性がある」とあらゆる人に刃を向ける。

強烈な批判と友人たちの別離を受けてもハンナが折れなかったのは、「考えることを止めなければ正しい選択が出来る」という信念からだ。
そして「考える」という行為が人間の存在を人間たらしめているという矜持だ。
ラスト8分間のスピーチは、ハンナがその全存在をかけて紡いだ「人間への希望」である。

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つとみ