劇場公開日 2023年10月27日

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「崇高にして俗悪。人間の欲と業と愛憎を民族の歴史と直結して描き出す、混沌たる闇鍋映画の傑作!」アンダーグラウンド(1995) じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5崇高にして俗悪。人間の欲と業と愛憎を民族の歴史と直結して描き出す、混沌たる闇鍋映画の傑作!

2024年2月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

いやあ、なんともかんとも。
マジでとんでもない映画だな、こりゃ。
どう語れば、この作品の凄みが伝わるものか。
ちょっと途方にくれるくらいだ。

20年ほど前、会社の一年後輩が「自分の人生史上最高の映画」として、猛烈に熱く語っていたのを思い出す。クストリッツァに関しては、『黒猫・白猫』は封切りのときに劇場で観ているのだが、『アンダーグラウンド』のほうは未見。せっかくだし、そんなに面白いのなら映画館で改めてやってくれたらぜひ観に行くんだけど、とずっと思っていた。
そんでもって、昨年、遂に4Kリストア版のリヴァイヴァル上映が開始!
一瞬浮かれ立ったものの、仕事が忙しすぎて、けっきょく足を運べずじまい。
がっかりしていたら、今度、下高井戸でやるというじゃあありませんか。
というわけで、遂に満を持して行ってまいりました!

― ― ―

とにかく、月並な表現だが「凄い」映画ではある。
限界ぎりぎりまで、濃厚で。
崇高でありながら、俗悪で。
徹底的に笑わせながら、悲劇的で。

人間の「業」と「欲」と「浅ましさ」を煮詰めた結果として、
映画に「活力」と「エナジー」と「生命力」が漲っている。

終わらない乱痴気騒ぎは、哀しくも野太くて、
愚かではあっても、誰しも愛さずにはいられない。

国家の大きな物語を、個人の憎悪や嫉みや欲望が動かし、
歴史の大きな転換点を、一匹のチンパンジーが担う。
善意と悪意。卑小と尊大。語りと騙り。
ありとあらゆるちっぽけな人間の感情と表象の総体として、
国家の態様と歴史の概観が立ち現れる。

ここで描かれる物語は、
「人間の営みの物語」であると同時に、
「国家の物語」であり、「歴史の物語」でもある。
実は、その三者に境などないのだ。

― ― ―

『アンダーグラウンド』はカオスな映画だ。
「露悪的」な映画、といっていいかもしれない。

不必要なくらいに面白がらせてはくれるけど、
正体をつかませない、思ったように進まない。
話のあちこちに、意図的な関節外しや不愉快な転調があって、
やけにねちっこくフレンドリーで馴れ馴れしい映画なのに、
すっと腑に落ちるようには作られていない。

キャラに感情移入できそうだな、と思ったら、
すぐにろくでもないことをしでかして裏切られる。
物語が落ち着いてきたのかな、と思ったら、
唐突に不合理かつ非論理的な展開が待ち受ける。
登場人物どうしも常に裏切り合っているのだが、
当の監督のほうも観客を裏切ってはほくそ笑んでいる。

あらゆる要素が雑駁にねじ込まれ、煮立てられ、
得体の知れない「闇鍋」と化しているが、
その背後には冷徹な意志と綿密な計算がひそんでいるようにも思える。

一筋縄ではいかない。見た目通りではない。
笑いをまぶした気安さ、親密さ、陽気さと、
反吐が出るような陰鬱さ、絶望的な陰気さが、
いっしょくたになってぶちこまれている。
過剰に狂騒的で、むやみやたらに駆け足で、
常に「なんだかわからない」熱気を孕んでいる。

描かれているのは、人間の愚かさだが、
同時に、圧倒的な人間愛にもあふれている。
ただキャラに対して全幅の共感をもって
描かれてるかというと、そうでもなく
政治的風刺と歴史の寓意という枷を課せられ、
がんじがらめになっている。

すべての事象が「螺旋」を描きながら迫って来る。
まわる。まわる。まわる。
この映画では、円環の動きがすべてを支配する。
まわる三人組。まわる楽団。まわる戦車。
まわるラジオの取っ手。まわるリヴォルバーのシリンダー。
まわる火の噴いた車いす。

圧倒的な情報量が圧倒的な過剰さで押し寄せて来て、
頭がグルグルして何が何だかわからないままに、
趣味の悪い笑いとグロテスクと狂騒的なタテノリにノックアウトされて、
それでも猛烈に人間味に富んだ「素晴らしい」ものを観た気にさせられる。
どこまでも真摯で、どこまでも不真面目。
ちょっとこの映画体験は、他の何にも形容しがたい。
でも、一生忘れられない映画体験であることは間違いない。

― ― ―

たぶん、すべての「ベース」となるのは、
フェデリコ・フェリーニの世界だ。
幻想的な視覚性とカーニバル的な狂騒感。
濃密な寓意性と象徴性、映画としての強度。
筋が通っているようで通っていない不条理さ。
親近感は湧くのに距離感が縮まらない独特のテイスト。
映画の端々から、フェリーニの臭気が漂ってくる。

強固な思想性を背景にもつ壮大な「歴史絵巻」として、
フォルカー・シュレンドルフの『ブリキの太鼓』や、
ベルナルド・ベルトルッチの『1900年』あたりも、
たぶん全体としての骨格の参考にはしているのだろう。
とくに前者は設定そのものが歴史の寓意を成している点でとてもよく似ているし、後者は男女の愛憎劇がそのまま歴史に直結している点でとてもよく似ている。

そこに、マカロニ・ウエスタンの猥雑さや、
人生と音楽が直結するロマの狂騒的な民族性や、
サイレント映画に由来するスラップスティックの猛毒が加わって来る。
『アンダーグラウンド』の霊感源は、クセの強い映画の歴史そのものだ。

『地獄に堕ちた勇者ども』や『愛の嵐』のような、支配階級の性的倒錯と軍事体制下での風紀の紊乱が描かれ、『M★A★S★H』や『まぼろしの市街戦』のような、戦地でのブラックな笑いと憎めない狂気が描かれる(俺、クストリッツァって絶対『戦略大作戦』のことは大好きだと思う。そもそもあれたしかユーゴスラビアで撮影された映画だし)。舞い上がる札びらのショットは『現金に体を張れ』か。
あるいはテリー・ギリアムやジャン=ピエール・ジュネ&マルク・キャロを彷彿とさせるような「御伽噺のような地下生活」が描かれ、『冒険者たち』や『明日に向って撃て!』『はなればなれに』のような古式ゆかしい女一人男二人の恋のさや当てが描かれる。
クロがいつもブラスバンドを引き連れているのは、もしかしたら『昼下りの情事』のゲイリー・クーパーのパロディかもしれないし、ラストシーンは、もしかしたらテオ・アンゲロプロスの『シテール島への船出』のパロディかもしれない。
有名人のいるニュース映像に架空のキャラが紛れ込むネタは、直前の『フォレスト・ガンプ/一期一会』(94)でもやっていたが、影響関係はあるんだかないんだか。それより前からウッディ・アレンも似たようなことをしてた気もするけど(偽記憶かもしれない)。まあフッテージを使用した民族紛争ものはオタール・イオセリアーニなどもやっているし、僕の知らない元ネタはこれまでにいろいろあったはずだ。「空を飛ぶ花嫁」のモチーフや常在楽団のイメージには、マルク・シャガールあたりの絵画からの影響もあるかもしれない。
とにかく、すべての映画的知識がフェリーニ的な土壌に投下され、混ぜこぜにされて、騒々しいブラス・サウンド風味でいっしょくたに料理されている。
この膨大な質量と濃度のカオスを演出してみせたクストリッツァの胆力は、この作風を好む好まざるというのはあるにせよ、やはりたいしたものだというしかない。

― ― ―

本作のなかでも、中核を成すのが「戦争が終わったことを知らされないで地下生活を送る住人たち」というアイディアだ。
基となったのは映画の20年前に書かれていた戯曲で、クストリッツァはアイディアだけを生かして、戯曲の作家でもあるデュシャン・コヴァチェヴィッチとともに新たな脚本を書き上げたという。はたして横井庄一や小野田寛郎のことは知っていたのだろうか?
なんにせよここで描かれているのは、情報統制下で「ウソを真実と信じて幸福に生きている」社会主義国家の国民――支配階級に良いように使役される被支配階級の戯画である。

ヒットラーを信じナチスを奉じて連合国と戦ったドイツ国民。
ビン・ラディンを崇めてアルカイダに身を投じたテロリストたち。
プーチンに熱狂してウクライナ侵攻を支持するロシア国民。
トランプを神輿に担いで陰謀論にのめりこむQアノンの信奉者。
すべては似たり寄ったりで、それは戦中の日本もあまり変わらない。

「戦争が終わったことも知らないで地下生活を送っている」ときくと「滑稽でユーモラスでおバカ」に思えるかもしれないが、世界中の大半の国民は「大義名分を信じて戦争に加担した」過去があるわけで、実はそのへん似たり寄ったりというか、目くそ鼻くそというか、結局のところ大衆というものは、権力に騙されて搾取された挙句に加害者側に転ずるように「生来的に出来ている」のである。
一方で、クストリッツァは必ずしも「騙されている地下生活者」たちを「単なる無知で蒙昧な不幸な民」としては描いていない。むしろ、小さな地下世界をある種の「ユートピア」として捉え、圧倒的な活力と多幸感をもって生き生きと描きだしている。
時間軸までずれていくという綾辻行人の『●●館の殺人』みたいな話になっていてドギマギさせられるが、ある意味、日本でいうところの「隠れ里」や「マヨイガ」のような「閉じた桃源郷」感がある。
彼らを騙して使役しているマルコ(文民政治家というスタンスはチェコのハヴェルとかフランスのマルローとかいたけど、どのへんをモデルにしてるんだろう? チリのネルーダとか?)ですら、地上で政治家をやっているときよりも、地下に下りてみんなとわいわいやっているときのほうがはるかに愉しそうだ。
要するに、クストリッツァは「騙される国民」の愚かさとともに、考えることを放棄したがゆえの気楽さとかりそめの幸福をも、きわめてフェアに描き出しているわけだ。

近年反米色を強めて、親プーチンの姿勢を打ち出していたというクストリッツァが、ウクライナ侵攻についてどう考えているのかは、ぜひ伺ってみたいところでもある。

― ― ―

『アンダーグラウンド』は結果として、カンヌでパルムドールを受賞するに至ったし、今も多くの人から映画史上に残る傑作ともてはやされている。
僕自身、本作からは大きな感銘をうけた。
ただ、映画を十全に楽しめたかというと、正直理解できない部分やとっつきの悪い部分もたくさんあった。なぜかというと、本作は様々な要素が入り混じるカオスきわまる闇鍋映画とはいえ、本質的には「政治的寓意劇」であって、鑑賞と解釈においては、ユーゴスラビアの政治史と戦争史についての知識と理解が不可欠だと思われるのだが、僕にはこの東欧の戦中・戦後史に関する知識が完全に欠落しているからだ。
実際、『アンダーグラウンド』は一部の層から、猛烈な敵対的批評にされされてきたという。おもにフランスの批評家たちから「大セルビア主義」「民族主義者に迎合」と叩かれて、一時は映画監督廃業を宣言するまでの糾弾を食らったというのだ。
残念ながら、僕にこの件について言及することは難しい。何か書くといろいろウソを書いてしまいそうだ。
第二次大戦中にナチスに襲われて占領されたのは、まあわかった。
ただ、そのあとのパルチザンとソヴィエト共産党との関係、チトーの立ち位置、内戦に至るまでの民族紛争などについての知識が足りな過ぎて、映画が何をどうおちょくって、どんな寓意を秘めているのかがわからない。
一般論として地下世界が「社会主義体制下において囲い込まれて搾取されている民衆」の戯画として描かれているのは理解できる。でもこの映画には、本当はもっとユーゴの個別的な内情がヴィヴィッドに反映されているはずだし、見る人が見れば、セルビア人やクロアチア人などさまざまな人種が入り混じっていることだってわかるはずだ。
その意味では、東欧の文化と歴史、政治状況についてしっかり学んだあとに、もう一度じっくり鑑賞してみたい映画だし、どうもとっつきにくいのは、もともと5時間を超えるTVのミニシリーズとして撮られたものを劇場用に切り詰めたから純粋に筋が追いにくくなっているというのもあるっぽい。ぜひ次回は「完全版」で観てみたいものだ。

最後に……超どうでもいいことですが。
まさか「鹿」を「馬」と見間違えて「馬鹿」ってのは、東アジア圏以外でも通用するレトリックだったんだな(笑)。

じゃい