白いリボンのレビュー・感想・評価
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2000年代につくられた映画とは信じられないぐらい 50年代とかに...
2000年代につくられた映画とは信じられないぐらい
50年代とかに撮られた映画に見える。
憎悪は憎悪を育て、抑圧はより強い抑圧を産む、人間とは愚かだな。とゆう感想。
ハネケ好き。
配信で鑑賞
閉鎖的な村にいるかのような
第一次世界大戦直前の北ドイツの小さな村で起こる、様々な怪事件。最初に起こるのは、ドクターが馬に乗って\帰宅するときに、針金が渡してあって、それに馬が引っかかり落馬して大けがを負う。その後、牧師の子どもたちが村の出口の方に歩いて行き、帰るのが遅くなって夕食抜きになるが、事件に関与していることが示唆される。牧師は、罪を犯さなくなるまで白いリボンを結ぶことを宣言し、後でムチ打ちをすると告げる。子どもたちは、父が入ってくると直立、何も言えない権威者だ。次の事件は、小作人の妻が、製材所の床が抜けて死亡。板が腐っていたのを知っていて、何も教えなかったのは故意ではないか?と息子は憤るが、夫は、大事にしても妻が帰ってくるわけでなく、仕事や結婚、就職がご破算になることを恐れて息子をなじる。息子は、キャベツ畑を荒らすが、自らは名乗り出ない。その夜、男爵のところの息子、ジギが製材所で逆さに縛り付けられているのが発見される。キャベツ畑の件は、小作人の息子が名乗り出るが、ジギの件は誰も名乗り出ない。不思議なのは、誰がやったか本人はわかりそうなものだが、そこの描写は割愛されている。閉鎖的な環境では、権威のある家に対して物が言えないから子どもを虐待したのか?
牧師の息子、マルティンが危ない行為をして、神様に自分を殺す機会を与えようと試したと教師に告白。時系列からするとマルティンが、何らかの事件への関与をしているように見える。ジギの件のとばっちりで、教師が気にかけていた娘エヴァは、男爵から乳母の仕事を解雇され、教師の家へ泣きつく。
入院していたドクターが息子が会いに来ようとして途中で発見されたのを聞きつけ、退院を早めて戻ってくる。息子のルディは、父が帰ってきてもトイレに隠れて迎えようとしない。屈折した思いを感じた。この辺りから、牧師、男爵、ドクターら、父親が非常に権威的で陰険、父のやることは絶対的で口答えができないような雰囲気を顕著に感じた。牧師は、マルティンを問いただすが、哀れな少年と同じことをしたのかに、ハイと答える。マルティンは、寝ている時、紐で拘束されるようになる。
ドクターは、近くに住む中年の女であり子ども二人の世話と医療行為の手伝いをしている助産婦ワグナーとできている。家令のところの赤んぼが熱を出し、ドクターに診てもらう。冬なのに窓が開いていたと指摘している。誰かが窓をワザと開けていたかのようだ。教師は、エヴァの両親の所へ会いに行く。深夜に荘園で建築途中の小屋が火事になる。牧師の子どもたちが気づいて、父母に知らせようと騒ぐが、このことについては何も知らなかったようだ。男爵に対する嫌がらせとみられる。次の朝、小作人が首を吊って自殺している(ように見える)発見した息子は、一回気づかないふりをする。このシーンは謎。母に伝えようともしない。あまりにも表現があっさりしすぎていて戸惑った。
ドクターは、助産婦に「お前に飽きた。お前は、醜く、汚く、皺だらけで、息が臭い」「もう終わりにしよう」「他の女を思いながらお前と寝るのは・・・」「結局、お前がまた相手で反吐が出る思いがして」「相手は誰でもよかった。牝牛でもな」「私が無分別な態度をとったら」「とれよ。タダではすまない」と惨い言葉を投げつける。助産婦は、妻に酷い扱いをしていたこと、娘にも触れていること、妻を愛していたのは嘘であったことに触れ、汚い仕事をやり子供たちの面倒を見た自分を捨てたりできないはずと非難する。
小作人の棺が、ひっそりと馬車で運ばれる。誰も一言も話そうとしない。
新年を迎え、牧師の家では、牧師が白いリボンを外すことを子供たちに告げる。「私は、お前たちを信じている。」寒い間、村を離れていた男爵夫人とジギが戻ってくる。
教師と一緒に牧師が神学を教えに教室にくるが、子供たちは大騒ぎしていて、牧師から説教される。娘が先頭に立って騒いでいたことに触れ、去年、純潔、罪、わがまま、妬み、無礼、嘘、怠惰を避けるために白いリボンを結んだのにと不満を言うが、娘は失神する。
ドクターの家の2階では、深夜、ドクターと娘が関係を結んでいる。牧師の家では、説教された娘が父の書斎から鋏を取り出して、父が飼っていた小鳥を捕まえ、十字に串刺しにしてしまう。その後、熱を出して寝込んでしまう。
教師は、エヴァが会いたがっていると知り、馬車を借りて町まで行くが、会えず、家令の娘エルナから、看護婦の息子カーリが悲惨なことになるという夢を見た話しを聞く。
教師がエヴァを馬車に連れ出し、池でピクニックをしようと誘うも、エヴァは固辞する。逐一行動を報告されるので、変な噂が立つのを恐れてのことらしい。
牧師の子どもたちは、教会で罪を洗い流すお浄めを牧師から施される。この子供たちが何等か事件に関わっていることを示唆する場面にも感じた。助産婦の息子カーリが、行方不明になり、夜、森の中の木に縛り付けられいるのが発見される。彼は目隠しをされ、顔面を殴打されていた。失明の恐れすらある。手紙には、「お前たちの主、嫉妬深い神である私は、親の罪によって、その子、孫、曽孫の代まで罰を与えるだろう」と書かれてあった。
男爵は警察に通報し、刑事が取り調べをするが、夢を見たといったエルナも本当に夢であったと言い張る。ドクターが、カーリの診察に訪れるが、泣き叫ぶだけ。川辺で男爵の息子ジルと家令の息子2人が笛を作っているが、そのうち一人がジルを川に投げ飛ばす。もう一人がそれを助ける。牧師の家では、小さな息子が保護していた野鳥を死んだ小鳥の代わりに鳥かごに入れて持ってくる。家令は、家に帰ると笛を寄こせと息子を問い詰め、殴る蹴る。出さないと殺すぞとまで言い放つ。男爵の家に向かいかけたところ、息子が笛を吹き、家令は階上に上がり、息子をムチ打つ。男爵が家に戻ってくるが、妻は、子供たちを連れて、ここを出ていくと告げる。銀行家のイタリア人と恋におち、子どもも大好きだと。ここを支配しているのは、悪意や嫉妬や無関心や暴力よ。ジギの笛が限界よと。もううんざりなの、迫害だの脅迫だの復讐だの。この妻が言うことが、この村に起こっていたことなのだろう。そこに家令がやってきて、男爵は出ていく。サラエボ事件が起こったことを知る。
看護婦ワグナーが、教師に自転車を借りにくる。家令が馬車を貸してくれないと。カーリ事件の犯人がわかったから警察に行くと。陰口はもうたくさんと。ワグナーの家の窓から牧師の子どもたちがのぞき見しようとしている。教師は、カーリの面倒を誰が見ているのか心配になり、ドクターを訪ねるが当分の間休業の張り紙。牧師の家のクララとマルティンに話を聞こうとするが、何も知らないと口をつぐむ。教師が牧師に一部始終を伝える。二人が何か知っているのでは、ドクターの事件、ジルの事件のとき子供たちが関わっていそうなこと、エルナがカーリが乱暴される夢を見たのは、誰かの話を聞いたからではないかと牧師に話す。牧師は子どもたちが疑われたと思い、不快だと言い、刑務所に入れるぞと脅す。
助産婦が戻って来ないので、家令に断り、家に入るがカーリの姿もなかった。
暫くして村は、助産婦とドクターの噂でもちきり。カーリの父親はドクターで、二人の関係を隠すために助産婦を中絶させようとしてカーリが障碍者になったとか、ドクターの妻の死も怪しい、二人が手を下したのではなどなど。平気で人を殺せる二人が、村のすべての事件の犯人なのだと。悪事が露見する前に二人で逃げたことにされる。
やがて第一次世界大戦の火ぶたが切っておろされ、村は変革の期待で、日曜礼拝には全員が出席。今から全てが変わるのだと。徴兵が迫っているので教師はエヴァと晴れて暮らせることになる。
あらすじを追うとこんな感じだ。
もっとも確からしいことを言えば、犯人はこうなる。
①ドクターの落馬事件→牧師の子どもたち。おそらくマルティン。危ない行為、牧師の問いにハイと返事をしている。
②小作人の妻の死→男爵が製材所の床が危ないと知りつつ、伝えなかった。未必の故意。
③男爵の息子ジギへの虐待→小作人の父?妻の分の復讐。面と向かって男爵には歯向かえないので子どもを虐待。息子へのセリフが、少し匂った。息子たちでは平静を保てない。マルティンでは無理っぽい。
④荘園の火事→小作人の父。その後、問い詰められたのかひっそりと自殺している。
⑤カーリへの虐待→ドクターか牧師。ドクター→助産婦ワグナーとの関係が終わり、彼女との間に生まれたカーリが邪魔になった。カーリを診察した時、ずっと嫌がっていた。カーリから聞き、ワグナーが警察に訴えに行くが、権力でもみ消された。牧師→神に反逆する行為をドクターは犯している。その罪は、子どもであるカーリにも及ぶと考え、手紙に書いた。
大人たちは、権威者が絶対な閉鎖的な村では、表立っては何も言えない。権威者たちは、告発されないことをいいことに、皆、好き勝手なことをやっている。そこで、策略やら謀略で相手に復讐をしようとする。子供たちは、その大人の姿を見て、見えない所で情報を共有し、鬱屈した気持ちをより弱い者へ向ける。女たちは、陰険で不実な男たちに愛想をつかし、その許を去ろうとする。
北ドイツは、気候も寒々として暗く、陰鬱で、男たちも頑迷で秩序を重んじるような気質だと思う。そこに、地主制度、キリスト教、ドイツ医学が絡むから、余計に、権威だけが威張っているような末期の時代だったのだろう。本当の犯人は、監督は明示しようとしていない。主人公は、この北ドイツの第一次世界大戦への傾倒を産んだ、煮詰まった閉塞感なのだろう。犯人がわからないまま、次々と事件が起こるので、その村にいて自分も追体験しているかのような不安を惹き起こされる。得体が知れないモヤモヤ感が残り、つい詳細について考察したくなる映画であった。
いつでもハネケは意地悪い
入り乱れる登場人物と話の筋を把握する集中力が最大限に消耗されながら物語にハマってしまう理由は推理モノとして観てしまう面白さが、それは勘違いで回収できる伏線すら貼られてはいなかった、そんな類の映画ではなくモヤモヤしてイライラする胸糞悪い感情で一杯に爆発寸前、それがミヒャエル・ハネケの作品であり苛つきながらも癖になるのが毎度のことで!?
多分、そうだろう、こうだろうって位で謎にされている部分の真実は明かされない、とにかく皆が真っ黒で正義感丸出しの教師ですら行動が有難迷惑でイライラするし、まだ純粋な子供たちだけに救われる、少年、少女も残酷性が際立って普通の顔して大人になってしまう、外面の良い真っ黒な大人に。
タル・ベーラの『サタンタンゴ』みたいな雰囲気でイカれた村の危うい閉塞感に『ウィッカーマン』は言い過ぎか、子供を中心にしてしまったら『小さな悪の華』とか『妖精たちの森』だったり『プティ・カンカン』みたいにも、本作だけに限ったことではないが後味の悪いハネケに対する嫌悪感で胸糞悪くなりながら映画自体は楽しめてしまう、嫌な感じは拭えないまま。。。
日本の村に置き換えたら怖さMAX
大人も神様も目をつむるのだと
子供達も幼いうちから骨身に染みついていく。
抑圧されて鬱屈した気持ちは、より弱い存在を
傷つけることへ向かう。
傷つけられるものはそれだけ
価値がないから構わないんだと
言わんばかりだ。
こうした下地があってナチスのファシズムになっていくのだと
納得してしまう。
そして、第三者である教師も、それ良くない、おかしい、と
薄々感じつつも自分の生活から離れてしまえば
あっさりとそれについては忘れていく。
そうやって悪い体制は外へ漏れることもなくいつのまにか
手のつけられないほどに進んでしまう。
こんな状態は常に世界中にあるんじゃないか。
テロや内戦の起きてる国があると知ってるけど、
虐待やいじめや痴漢などがあるとしってるけど、
自分と直接関係ないと通り過ぎていつのまにか後戻りできない
事件などになっていく。
社会の縮図がここにある。
これは第一次世界大戦の前夜。
教師の感覚だと、なんだかよくわからないけど
ヤバイ感じがする、でもはっきりわからない、
確実に嫌な方へ向かってる気はする。
そんな当時の人々の感覚であったのかもしれない。
この村を日本の村と置き換えると背筋が寒くなる。
日本にだってなかったと言い切れないのではないか。
むしろ人間は簡単に悪い方へ流れてしまう。
真実無垢な心でいるには大人はどうするべきか、
社会をどうしていくべきか。
次々と見たくないことを突きつけてくる監督だ。
年老いた話者と白黒映像がもたらす異化効果
202303 555
202003 44?
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書籍『ミヒャエル・ハネケの映画術』より、一部
例えば、経済危機のように、時代の空気から主題を選び、それを例示する物語を構想する脚本家たちがいますが、私のやり方は違います。私の場合、まず何かに驚くか感動することが必要で、それが私の思考を突き動かしていきます。『白いリボン』に関しては、白黒の舞台の中で、北ドイツの、金髪の登場人物達で構成されたコーラス隊のことが思い浮かんだのです。バッハのコラールを歌う子どもたちが、日常生活の中で、自分たちの説いている思想を裏切る人々を罰していく。それが出発時のアイデアです。たぶん、これを育んだのは政治的な考えです。しかし、目的は政治的な映画をつくることではなく、物語を語ることでした。
北ドイツを舞台にする前は、教育問題に興味をもっていました。その分野や農民生活の本をたくさん読みました。こうした読書は私を夢中にさせ、何よりもこの物語を豊かにしてくれました。
(視覚的な様式を見つけることについて)アウグスト・ザンダーの写真は昔からよく知っており、それこそが到達すべき理想のようなものでした。だから、ポスプロの作業で、ロングショットも含めて、すべての顔をなぞってより鮮明にしました。非情に細かな作業です。例えば、ドクターである父親の落馬事故のあと、階段で娘のアンナが弟ルドルフを慰めようとしている冒頭のシーンでは、娘の顔を涙が一筋流れるのですが、よく見えなかったのでコンピュータで再処理しました。
(モノクロ映像を選択したことについて)この時代については、白黒写真を通してしか知られていないので、白黒映像で当時を再現することで最初から作品に説得力を持たせることができます。しかし、もうひとつの理由があります。異化です。白黒はあらゆる自然主義的なアプローチを封じる距離を作り出します。
自然主義から離れるというのは、私たちのような企画において一つの義務です。なぜなら、時代をかつてのように再現するというのは厳密にいえば不可能だからです。白黒映像は、私たちは擬似現実の中ではなく、創造物の中にいるのだということを絶え間なく思い出させてくれます。
話者を入れるアイデアは最初からありました。白黒の使用と同じ理由です。物語られる内容に対して、距離を作り出すことができました。
(断言されたあらゆる真実の相対化、について)私はいつも観客の不信をあおるように立ち回っています! とくに本作では、子どもたちに生じるかもしれない罪責について距離をもって考えることが最も重要です。大人になった彼らの全員が、必ずしも強制収容所でユダヤ人の大虐殺を行うわけではないのですからね。しかも、登場人物はそれぞれに大きく違っていて、全員がネガティブな存在というわけではまったくありません。
年老いた声音は、さらなる異化効果を生み出しています。話者は、ナチズムや、おそらくはバーダー=マインホフのようなさまざまな形の過激主義を体験しています。そのような新たなイデオロギーが未来に再来するかもしれないことへの警告として、この映画に現れます。
副題「子どもたちについてのドイツのある物語」を、ドイツ語圏以外では訳されないようにしたのは、外国の観客たちに、本作がドイツ固有の問題を扱っていると思わせてしまうのを恐れたのです。ドイツ語を知らない人々にも、この寓話が彼らの国でも同様に起こり得たのだと考えられるようにしたかったのです。
この副題はジュッターリーン体で表記することにこだわりました。この書体は、私の祖母が使っていて、1930年代初頭なで、ドイツとオーストリアで規範とされていたものです。今日、この書体は完全に廃れてしまいました。私はまだ読めますが、書くことはできません。
(作中で起こる悪事について)緊張を高めるため、観客が犯人捜しにやっきになるように、多様な事件や事故で、毎回、不意をつくことが必要でした。確信はなく、推測だけが積み重なっていくシチュエーションを思いつく必要がありました。しかも、偶発的な事故が起きていた可能性もあります。それらの事件や事故を混ぜ合わせることによって、すべてが必ずしも解明されるわけではない、この現実世界に近づけようと思ったのです。
(物語に音楽的なリズムをもたらすことに長けた感覚について)リズム感の問題で、私にはあるかないかなのです。説明するのは難しい。学生たちを見ていると、それがすぐにわかります。生まれながらに自分の脚本を構造化するセンスを持っている学生はたちまちにわかります。しかし、実践により習得される俳優の演出指導とは反対に、リズムというのは特殊な才能を必要とするのです。それは歌と同じで、うまく歌えるか下手かです。うまく説明できませんが、あるシーンを書くと、すでにスクリーンでどう表現すればいいか私にはわかっています。
教師が足踏みオルガンで弾いていて、男爵夫人に解雇されたエヴァに中断されたのはシューマンのピアノ曲です。それから、彼女を元気づけるために弾いたのは、バッハの《シチリアーノ》。
男爵夫人と家庭教師が、ピアノと大型のフルートを使って演奏したのは、シューベルトの歌曲《美しき粉屋の娘》の変奏曲の一節。
村の収穫祭の時のダンス音楽はみな、当時のその地方のダンス曲で、私たちは現地でその手書きの楽譜を見つけました。もともとヴァイオリンのソロ曲用だったのを、複数の楽器を使ったオーケストラ用への編曲という点だけは手を加えさせていただきました。
第一次世界大戦前の帝政末期、革命前夜ドイツを象徴的に描く
1 テーマ
映画の冒頭、語り手の教師が「あの奇妙な出来事こそが当時の我が国そのものなのだ」と、作品のテーマを提示する。
「我が国」とは、プロイセンを中心とする22の領邦国家と3自由市によって構成される連邦国家、ドイツ帝国のこと、年代は1913年で第一次世界大戦の直前である。
ドイツ帝国は国家統一の遅れにより工業化で英仏に大きな差をつけられていたが、プロイセンがフランスに勝利して1871年に帝国を成立させて以来、急速に工業開発等を進め、この頃には世界でトップクラスの経済力を獲得し、人口も大きく膨らんだ。
経済成長を享受しながらも帝政に対する不満はくすぶり、最終的には第一次大戦の戦況悪化の中で1918年のドイツ革命による帝政廃止、ワイマール共和政につながっていく。1913年とはひと言でいえば、帝政末期から革命に続いていく激動の時代だ。
このドイツ近代史の激動期を、同国の架空の村で起こる複数の事件を通じて描くことが作品のテーマである。
2 村の登場人物の意味するもの
主要な登場人物は、男爵、家令、小作人、医師、牧師、教師及び彼らの家族だが、彼らは当時のドイツ社会のさまざまな階級を象徴している。
具体的には男爵や家令は封建貴族、小作人は農民、牧師は僧侶、医師、教師はインテリを表す。
男爵は夫人と諍いが絶えない。欧州を支配し、諸国を切り分けて支配していた貴族階級も末期症状なのである。
小作人は男爵に不満を募らせており、貴族階級の支配体制は揺るぎつつある。
牧師はもはや人を導く力はなく、自分の子供にさえ背かれている。宗教界の弱体ぶりを示しているのだろう。
医師は倫理的に腐敗しきっており、教師は時代の流れになすすべもなく後追いするだけ。
最後に、牧師の娘クララをリーダーとする子供たちは現体制に不満を持ち、やがて革命を担う新世代である。
そして一歩足を踏み込めば、封建貴族も宗教界も知識人も農民もすべて内紛を抱えており、これらの隙をついて革命グループが陰謀を企て、社会不安を醸成していく…それが映画の描きたかったドイツ激動期の雰囲気なのだろう。
3 拭えない書割感
映像は美しいモノクロで当時の日常生活を豊かな質感で描いており、観客を惹きつける力がある。
しかし、入れ替わり現れる登場人物と次々に発生する奇妙な出来事に振り回され、何が何だか分からないままラストを迎える、といった感じで終わる。
よく分からないのでもう一度見直すと、上のような登場人物の役割が何となく伝わってくるのだが、いかんせん肝心のキャラクターたちに魅力が乏しいし、「出来事」も何故、どのように発生したのか説明もないまま、最後までもやもやと納得できない形で投げ出されるだけなのである。
そこで、登場人物たちに象徴の割振りをしてはじめて映画の意図が納得できる。ということは、頭の中で拵えた書割から脱していないのではないか、という気がする。
また、ほとんど何一つ明るさのない内容なのだが、ドイツ経済が拡大して生活が向上するという希望や、欧州列強に伍した喜びがまったく描かれていないのは何故なのか。逆にドイツ革命の予兆に明るさが見えないのは何故か。これは日本でいう自虐史観と同類なのかもしれないと思わされた。
もう最悪
これは批判じゃなくて、
本当に最悪なものしか描かれていないから
陰惨な事件と
クソジジイたち
すべてが隠され公にならない
リアルすぎて怖いのか、
一人一人の心理が怖いのか
あと、あんなに真っ向から人に「死ね」
などという大人が出てくる映画も珍しいですな
日常の不穏
ノンフィクション的な演出によって、 フィクションの世界にあえて鮮明な現実感を持たせようとしているかのようだ。 ミヒャエル・ハネケ監督の作品に特有の生々しいインパクトが、このモノクロ作品では特に際立って見えた。
医者が歳をとった妾を罵倒する場面など、観ていて不快になるほど惨たらしい。 しかし、作品中に登場するそうした類のシーンはいずれも、 実際に誰もが経験している日常の一コマではないかと思う。
力関係が上の男が、恨めしそうな表情で耐える女に向かい、憎悪を込めた蔑み言葉で傷つけようとしている場面。
確かあれは、両親の夫婦喧嘩で見たような…。
いやいや、あれほど酷くはなかった、と言いたいところだが、実はそう思いたいだけで、 日常生活における争い事の類いは、 まずあのシーンに等しい。 人は、都合の悪い現実を客観的に見せられると、無意識に心を逸らすものなのだ。
平和で清浄に思える日常生活、しかし、その底には、醜悪な生活の垢が澱む。
我々は自分の人生を、美しく、楽しく、幸せな面だけで彩られているようにしか見ないし、記憶しようともしない。 しかしその裏では、直視されず処理もされない生活の垢が溜まり続けていく。 そして、堆積した沈殿物は容易に巻き上がり始め、 やがて生活全体の透明度を失わせていくのである。
歴史の専門家が、「近年の世界を取り巻く状況は、第一次世界大戦前の状況に酷似している」と言い始めたのは、何年ぐらい前からだっただろうか。 以来、世界は確実にキナ臭さを増している。
この作品が描く小さな村の不穏な日常は、人間社会が不気味な運命へ落ちてゆく時の、リアルな前触れを写し出しているのではないだろうか。
あまり好きくありません。
暗いね。
時折り寝てしまう。
1913年のドイツの片田舎。
ある教師の回想で始まる。
地主のお前らに平和はない
の
言葉が、やらしいね。
子供達はなんか知ってるんかな?
教師、牧師も
なんか
嫌やな!
男たちのクズが止まらない
事件は起こるが犯人探しがテーマではない。
強権的に振る舞う町の名士である父親たちの、
抑圧的・暴力的な行為や思想が、
子供たちや人々に及ぼす影響とその過程を、
丹念に不快感たっぷりに描き出していく。
ドクターが助産婦に吐いた暴言は、
これまで観た映画の中でもトップクラスに酷い。
男たちの抑圧が強くなればなるほど、
子供たちの邪悪な悪戯の対象も、しだいに弱いものへと移行していく。
終盤、時制が第一次大戦直前であることが示される。
時代を支配していたこのような構造や空気が、
国々を勇んで戦争に突入させる引き金になったのか。
このあたりはわからないことが多いので、
色々と調べてみたいと思った。
今と関係ないとは決して思えない。
白いリボンは
白いリボンは無垢の意味だが、これは罪を犯した印。
第一次世界対戦の始まる前のドイツの北の小さい村の話。
嫉妬、DV, 近親相姦、暴力など、こういう環境が、ナチスを台頭させたんではないかと感じた。
もし教師とガールフレンドの二人がここに登場しなければ暗黒。
私はハマった派
前に劇場で見たけど、その時のイヤな気持ちを確認したい欲求が抑えられず、DVDを借りてしまいました。
期待通りの嫌悪感と消化不良で、変な意味で満足してしまいました。
また、一定期間おいてどうしてもみたくなる一本です。
ホラー映画が、かわいく見えちゃうほどの寒気
重いというよりも、
気味が悪いんですけど。。。
エンドロールが流れ始めて寒気しちゃったよ。。。
一言、
不気味以外の何物でもありませんでした。
余程、
ホラー映画のほうが怖くありません。
恐怖の対象が、
不明確なため、想像の中で、
負の妄想が、はち切れんばかりに
膨らんでしまいますので、精神衛生上も好ましくない。
“人間不信”
自分が人間でありながらも、
自分以外の人間を虐げる。ある意味、
自分が自分自身を特別扱いしてしまう。
もっと極端に言ってしまえば神格化してしまう。
生活環境の世界が狭く、
且つ田舎の村で孤立をしているため吐け口がない。
だから、一般的に見れば、
“悪”とされることをしてしまう。
さらに、性質が悪いのは、
“悪”と認識しながらも、当事者は、
“自分が悪を犯すのは赦されている(当たり前)”と自己肯定をしていること。
そんな、子供たちを、
大人は、せっかんをするだけで取り繕うとし、
大人の、都合のいいように子供たちを取り扱ってしまう。
まさに“負の連鎖”。
しかし、これもまた、
その大人は、それが“負の連鎖”を生んでいることに気づいていない。
◇ ◇
ここまでの感想は、
今作を鑑賞した上での、
自分なりの解釈も含まれています。
今作、ヒントっぽいものはありますが、
解答は一切提示されませんし、説明セリフなどという、
愚かしいものは、登場する気配すら感じさせてくれません。
だから、導入部にあたる序盤は、
色彩が、モノクロなのも手伝って、
気を抜くと、睡魔に飲み込まれてしまいます。
実際、お隣の女性、序盤気持ちいい寝息を立てていました。
しかし、終盤は、それとは対称的に口元をハンカチで抑え、
まるで、怯えるように、スクリーンを凝視しておりました。
無音の、エンドロールが流れ終え、客電が点灯したあとも、
しばらく、座席に座ったままでした。
“人の闇”っていうのかな。
色彩が、モノクロなだけに、
白と黒しかありませんから、闇が一層際立つんですよ。
幕引きも恐怖以外の何物でもないです。
私も、絶対に、こんな村は出て行きます。
そして、二度と、近寄ることはないでしょう。
★彡 ★彡
今作は、あくまでフィクションの位置づけですが、
現実世界に起きても、全くおかしくはないと思っています。
だから、余計に、薄気味悪くて、ゾッとしてしまうんです。
“白いリボン”
白は純粋、純潔の表れとも言いますが、
リボンが、結ばれた人間の中には、真っ黒な、
どす黒い、恨みつらみ、憎しみの色しか見えませんでした。
演出巧み。
役者もメインの1人、
学校教師は映画初出演とは信じられない好演。
子供たちも、まるでドキュメンタリーのような生々しさです。
カンヌのパルムドール作品だから、と
軽い気持ちで来ると、爆睡するか、精神的に
やられる可能性があります。コンディションを、
整えた上での鑑賞を推奨させていただきます!!
悪意の連鎖。
名画座にて。
2009年度カンヌでパルム・ドールを受賞した本作。
まぁ…この監督の作品は冷徹で暴力的な描写が目立つ?といえば
確かにそうなんだけど、今回は子供への体罰やリンチ(これも酷いか)
描写はまだ控えめ…でも、言動による暴力もけっこうなものだった。
人間の心にはこれほど悪意が芽生えるものか?と思ってしまうが、
タイトルの白いリボンに示されるように、こんな環境で抑制されれば
自ずと人間の心はねじ曲がり、そして子供達がナチス台頭時代へと
成長していくうすら寒い未来(の歴史)に納得せざるを得なくなってくる。
穏やかに見える農村に潜む異様な悪の気味悪さを謳っているのだが、
しかしここで描かれる事件には現代に繰り越されているものも多い。
利己的な権力を振り回す大人が子供達から崇拝されるはずがない。
一見おバカ?(すいません)にとれる傍観教師が語り部となる回想劇、
全編がモノクロでいかにも…な世界を作り出しているがその世界は
第一次大戦前夜の北ドイツの村から一歩も離れず、排他的な村の
存在を更に浮き彫りにする。不可解な事故や事件の背景は男爵家
への恨みが根幹かと思いきや、数多く描かれる家令や医者や牧師と
いう登場人物にもそれぞれフォーカスして見せるので、何が何だか、
わざと混乱させているようにも感じるし、或いは、必要あったのか?
とすら思えるシーンも数多く描かれる。観進めればおおよその展開、
いわゆる犯人探し(という目では観ない方がいいかもしれないけど)
の結末が分かってくるのだが、そんなことより、このままいけば…と
いう思いが強く圧し掛かってくる。子供達の目や態度を見れば、この
語り部教師ですら気づく恐ろしさが既に潜んでいるのが見てとれる。
とはいえ、最後まで曖昧に真相は…藪の中。
こうして傍らに潜む悪意はある時突然暴挙と化して表面に出てくる。
大概の人間はその兆候に気付かないふりして葬ってしまうのですね。
(だからこうなった、が残酷に観てとれる作品。繰り返される連鎖。)
生まれたての、悪意
「ファニーゲーム」「隠された記憶」などの作品で知られるミヒャエル・ハネケ監督が、カンヌ映画祭において初のパルム・ドールを受賞したミステリー作品。
清々しいまでに悪趣味を貫く作品である。
「混じりっ気なし、純粋無垢、無添加無着色、ぷるぷるつるんのタマゴ肌」な、どす黒い悪意が、物語の底辺をどろり、どろりと澱みながら流れ出し、2時間30分近い長尺の世界を支配する。
その陰湿な空気は、観客の中途半端な解釈であったり、物語への安易な接触を完膚なきまでに叩き潰してしまうほどの強烈な破壊力を存分に内包し、私達に突き付けてくる。上映終了後に感じてしまう劇場全体を覆い尽くす敗北感、脱力感の根源は、ここにあるとしか思えない。
閑静な、美しい景色を讃えた小さな村。その日常に唐突に忍び寄ってくる一つの悪戯。ハネケ監督はこの悪戯を皮切りに、随所にささやかな、それでいて気味の悪い悪意を村のあちこちに撒き散らし、物語の住民達を、同時に観客を疑心暗鬼に誘っていく。
これまでに発表してきた作品においても、解釈不可能な人間の心の機微を、程よいユーモアにくるんで料理してきたハネケ監督。だが、今作では剥き出しとなった負の感情を容赦なく、回り道無しに描き切っていく荒業に挑む。
物語もまたあって無いような抽象的な要素を積み重ねて、まさに観客を置いてけぼりにする覚悟で疾風の如く走り去っていく。悔しい。憎らしい。でも、格好良い。
生半可な覚悟で理解に挑むと、立ち直れないまでに心が殴り倒される本作。だが、ここまで悪趣味な世界を論じておきながら、ハネケの暴走世界に、無作法な荒っぽさに、私は魅せられてしまうのである。
生まれたての悪意は、麻薬の味がする。
145分間、居心地悪かった。
ふ~~~…と、鑑賞後に長い溜め息を付きました。
この居心地の悪さ…このべっとりとした感触……禍々しさの極地。
たまたま、ふらっと立ち寄った農村が、まさかこんなに陰鬱で鬱屈で、抜け出そうとしてもなかなか抜け出せず、145分間足留め喰らってやっとこさ逃げ出した気分、とでもいうか。
滞在中も滞在後も、決して心の靄が晴れることはないです。
なのに、こんだけの悪意を内包しておきながら、それが表層に剥き出されることは終ぞない。表面に、僅かに、滲み出るだけ。
片鱗をチラチラ覗かせたと思うと、またナリを潜める。再び、更なる悪意が来訪。
その繰り返し。
その息苦しさを味わいながら、145分間の拘束が続く訳です。
そして、やっと訪れる終焉。
「白いリボン」というタイトルに込められた真の意味。
コトの真相とでもいうか。
ラストにそれを理解、目の当たりにした時です。
アナタもきっと、長い溜め息を付くことでしょう。
ただ…その真相が具体的な像で以って姿を現すことは、最後まで無いのですけど。
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