劇場公開日 2018年7月22日

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「女系家族に生きる、偉そうで、弱くて、やがておかしきダメ男たち。あっという間の濃密な5時間超!」ファニーとアレクサンデル じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5女系家族に生きる、偉そうで、弱くて、やがておかしきダメ男たち。あっという間の濃密な5時間超!

2023年2月5日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

いやあ、濃厚な、5時間超。
超重量級だったが、観に来た甲斐はあった。
やっぱり、世界的な傑作と言われている映画は、迫力がちがうね。

最初のクリスマス編は、いつまでこんな退屈なドキュメンタリーまがいのパーティーシーンを観させられるんだってだいぶ辟易したけど、オスカルパパが子供たちに椅子の小噺を始めたあたりからぐっと引き込まれ、カールおじさんの笑えるゴミっぷりに圧倒的に魅了され、あとは息つく間もない前半の残り2時間半。
後半に入っての第5章は、まさに時を忘れて見入ってしまった。

とにかく、ドラマが濃い。
シチュエーションが濃い。
演技が濃い。
長さにそぐうだけの、コクと濃度が、
もうハンパない。

ー ー ー ー

今までに映画館で観た「インターミッションあり」の映画で
よく覚えているものをいくつかあげておくと、
まずは、なんといっても『1900年』のリヴァイヴァル上映。
こちらも5時間半。今はなき、渋谷東急での上映だった。
あと、『七人の侍』。画面いっぱいに出る「休 憇」の文字に圧倒された。
ヴィスコンティの『ルートヴィヒ』は、確か文化村だったか?
それから、『ドクトル・ジバコ』と『アラビアのロレンス』の再映。
『サウンド・オブ・ミュージック』と『ウェストサイド物語』にも休憩が入るはずだが、映画館で観たのが小学生のときで、いまはもうどうだったか思い出せない。

昔『1900年』を観たときは、結構腰がガチで破壊されたと思ったが、
あの頃と比べると、映画館の座席の座り心地は格段に改善された。
しょうじき、今回は屁でもなかったな……。
あと2時間は観てられたよ。
(といいつつ、続きで上映された『沈黙』は観ないで帰っちゃったんだけど。結構居残ってたご老人もいたから、連ちゃんで観たんだろうなあ。みなさん、僕より年長なのにすげえ胆力だ。)

ー ー ー ー

映画について僕に語れることは、あまりない。
たとえば、これまでに観たベルイマン映画で言えば、『仮面/ペルソナ』や『鏡の中の女』ほど難解で形而上的な映画ではないし、『野いちご』や『処女の泉』よりもドラマ性は強い気がする。
基本は、第一次大戦前の北欧の中産階級家庭を描いた群像劇なので、ありのままに鑑賞すれば、もうそれで十分なのではないかと思う。
監督としても、自身が最後に撮る映画として、半自伝的な映画を製作するというのが動機としては大きかったはずで(アレクサンデルが少年時代のベルイマンにあたる。実際、彼の義父は厳格な牧師で、正義の名のもとに苛烈なしつけを行った)、あまり構えずに、その壮大な時代性の再現と濃密なドラマをありのままに愉しめば、それでいいのではないか。

話の大きな枠組みでいうと、この物語は「女権的/女系の血族」のなかで生きる、さまざまな「出来の悪い男たち」の態様を陳列していくようなところがある。
強い女たちが支えているからこそ、男たちはダメになっていくのか。
男たちがどうしようもないから、女たちが強くなっていくのか。
女たちが一見「服従」しているようにふるまうから、男たちは増長するのか。
レビュアーさんのどなたかが、『渡る世間は鬼ばかり』を引き合いに出されていたが、たしかにそのへんの物語構造は、実のところ本当によく似ているように思う。

ダメ男の極北にいるのが、継父のエドヴァルドだろう。
エクダール家が「おばあさま」に支配されているのと違って、ヴァルゲルス家ではエドヴァルドが専制君主のようにふるまっているが、家族全体に昏い影を投げかける死神的存在として、裏からこの家を支配しているのは叔母のエルサだ。他の構成員も母、妹、メイドとすべて女性で、この「女ばかりのなかで一人だけ男」という家族構成は、キャラクターの元となった監督の義父エリックのそれを踏襲している。
一見、彼は善良で篤実な紳士に見えるし、実際に本人としては善良で篤実なつもりなのだが、彼の心のなかには絶対的な不寛容とサディズムがひそんでいる。
ふだんは聖職者としてのペルソナと威厳でなんとか抑え込んでいるが、「子供」というある種の「暴君」(理屈では従わせられないうえ、道徳で縛られない行動をとり、大人を「試してくる」存在)を前にすると、その「タガ」が外れてしまう。

ダメ男の典型とでもいうべきが、アレクサンデルの叔父カールだ。
これだけどうしようもない人間を、これだけ真正面から、こんなにもえげつなく描ききる胆力をもつ映画監督が世の中にどれくらいいるものだろうか。
あまりに強烈すぎて、僕なんかは最後には、カールおじさんに愛着まで湧いてきてしまったくらいだ。腺病質で、文句ばかりで、常に外部に責任を求め、いらだちを暴言の形で嫁にぶつけながら、猛烈に奥さんに依存しているダメな文豪みたいな男で、奥さんがダメンズ・ウォーカーで本当に良かったって感じ。ただ、このふたりはまさに「破れ鍋に綴じ蓋」で、共依存が強いせいで浮気などせずに「仲良く」やっている気配もある。

逆に、もうひとりの叔父グスタフは、性的に放埓で、その言動は狒々親父そのもの。
平気な顔で家の女中をお手付きにしたあげく、孕ませてしまい、それを認知するだけでなく、家族の一員として女中ごと迎え入れる。奥さんはこの破廉恥な男の所業を全て大きな心で許容するばかりか、意外に性生活なんかも持続していて、こちらもなんだかんだで仲がよさそうだ。
グスタフは頭が弱くて直情径行だが、どこか憎めない愛嬌のあるダメ人間として描写されており、カール同様観ていてだんだんと「このキャラなら許されちゃうのかな?」みたいな気分になってくる。

では、アレクサンデルのお父さんであるオスカルはどうか。
彼は温厚で、家族思いで、劇場支配人兼主演男優としても頑張っている。
少なくとも「ダメ人間」ではない。ただ、彼は「弱い」男だ。
まずはとにかく、身体が弱い。何度も発作の症状を見せ、家族からも「あまり長くない」と思われている。そのうち実際、第二章にはいったら、ハムレットの父役を演じる練習中に倒れて還らぬ人に。
それから、気が弱い。受動的な人間だ。頭はいいがいつも受け身で、自分からは動こうとしない。それは幽霊になってアレクサンデルの前に姿を現すようになってからも変わらない。
あと、おそらくなら「精力」も弱い。観ていてなんとなく感じるのだが、どうやら女優の奥さんは旦那を人として愛してはいても、夜のお勤めが果たせないので、「外で」いろいろやっている気配がある。加えて、アレクサンデルの本当の父親かどうかもけっこう怪しい。なにせ、キリスト降誕劇だとオスカルはヨセフ役やってるし。
エミリーが、オスカルの死後にエドヴァルドと再婚するのも、オスカルの「弱さ」に対してのエドヴァルドの「強さ」、「受動性」に対しての「なんでも指図して導いてくれる主導性」に惹かれてしまったからではないか。

本作に登場するなかで、唯一「まとも」で「頼りになる」のが、イサクとその甥たちだが、彼らはある意味「魔術師」のような異能の存在で、全面的に信用できる連中なのかと言われると怪しい部分が多々ある。
実は本作は、家族ドラマを模した、ある種の「擬似宗教戦争」劇と解釈することも可能だ。
「スウェーデンに土着的なキリスト教」を代表するエクダール家と、「厳格なプロテスタント」を代表するヴェルゲルス家(エドヴァルド)、そして「ユダヤ人の神秘」を代表するヤコビ家(イサク)。
この三者が絡み合って話が進んでいくなかで、土着的キリスト教(クリスマス・パーティのきらびやかさに象徴される)が、厳格なプロテスタント(あの牢獄のような質素な部屋!)と深い軋轢を生じて、そこにもともと土着キリスト教とは親和性があった(=ヘレナとイサクの慕情)ユダヤ教が神秘的で魔術的な力で介入し、プロテスタント側からある一家を救い出すという流れでも読める、ということだ。

ー ー ー ー

本作を観ていてもうひとつ気になるのが、「オカルト」に関する部分だろう。
「霊感」のあるアレクサンデルが、父親の幽霊や、エドヴァルドの元で亡くなった先妻と姉妹の亡霊を視る、というのは、この物語のなかでもかなり特異な要素だ。
一義的には、ベルイマン自身が少年時代は霊感が強くて幽霊が「視えた」といっているのだから、単純に実際に「視えている」というルールで観ればいいわけなのだが、このルールがあるからこそ、本作が『ハムレット』的な要素をサブストーリーとして取り入れられている点は見逃せない。

ついこの間観た『ノースマン』でも『ハムレット』の物語が祖型の一つとして導入されていたが、本作でも、「先王が亡くなり、その実子が継父に疎まれ、母親を奪われた形となって、先王の亡霊に導かれるかたちで復讐を遂げようとする」という『ハムレット』の「骨」の部分は、そのままストーリーに取り込まれている。
もちろん、アレクサンデルの父親オスカルは、少年の眼前で『ハムレット』の上演中に倒れたわけで、それが強烈なトラウマとなって、ふだんの生活でも「父王の亡霊」を視るようになったというのは十分にありそうな話だ。
また、本作における『ハムレット』の導入を、「エディプス・コンプレックス」の精神分析的文脈から解釈することも大いに可能だろう。

アレクサンデルが、エドヴァルドの死んだ先妻と娘たちの亡霊を「視る」というのも、実際に彼には「視えた」と考えても別段構わないし、過酷な幽閉生活のなかでストレスを極限まで募らせたせいだと考えてもおかしくはない。ただ、この「視える」という部分を積極的に「認めて」こそ、終盤でユダヤ人の両性具有者(?)イスマエルが放つ「呪」がエドヴァルドを襲う部分にも一定の真実味を見いだせるとはいえそう。ラストにわざわざ、神秘主義者でもあったストリンドベリの戯曲の話を持ち出してくるのも、なかなかに意味深だ。

ー ー ー ー

まあ、中身以上にインパクトがあるのは、やはり「演技」と「演出」かも。
前に『魔術師』や『仮面/ペルソナ』の感想を書いたときにも触れた気がするが、ベルイマン演出の引き出しには、間違いなく「ホラー」の要素があって、観客の一番「刺さる」ところにグサッと刺さる「怖い」演出をしてくることがままある。
今作でも、オスカルの葬儀の夜に、昼のあいだは気丈にふるまっていた妻のエミリーが何度も何度も絶叫しつづける心臓に悪いトラウマシーンや、エドヴァルドの家に移ってからのエルサおばさんの不気味きわまる描写、いかにも幽霊譚らしい死んだ先代一家の登場とゾンビメイク、イサクの迷宮のような館を埋め尽くす怪奇な人形の群れ、燃え上がるエルサおばさんのショックシーンなど、随所に「ホラー的演出」の冴えを見てとることができる。

演技でいうと、やはり一家の大黒柱であるゴッドマザー、ヘレナおばあちゃんを演じるグン・ヴォルグレンがすさまじい。背の低さや見た目のぽやっとした感じは、少しエディット・ピアフに似ているか。日本で同じ役を今やるなら、大竹しのぶかなといった感じ(そういやピアフも大竹しのぶがやってたなw)。とにかく、巧い。迫力と威厳があり、しかも慈愛に満ちている。
叔父たちの奇矯な変人演技、エドヴァルドの冷徹なサディズムと感情の爆発、エミリーの絶叫や泣き笑いなど、端役に至るまで本当にみな演技が上手で、その背後にはしっかりした演劇文化の土壌があることが感じられる。アレクサンデル役の子役の、びっくりするくらい透き通った肌とつややかな唇、深みのある青い目も一見忘れがたい。

あと、あの幽閉されていたユダヤ人のイスマエル(操りテーマの本格ミステリの真犯人みたいな美青年)を、女性(スティーナ・エクブラッド)が演じていたのは観ていてすぐ気付いたのだが、寝たきりのエルサおばさんの演者名見てみたら、ハンス・ヘンリック・レールフェルトって書いてあってびっくり。なにこの人、男優さんじゃないか(笑)。 ベルイマン、融通無碍すぎる!
試みに名前で検索をかけてみたら、ロン毛で鬚モジャの巨デブのオッサンの写真が出てきて大笑い。でも……たしかに、この顔はエルサおばさんだよ!!

じゃい