劇場公開日 1996年3月9日

「約束された場所で、はじめまして」(ハル) 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

3.0約束された場所で、はじめまして

2021年9月15日
iPhoneアプリから投稿

何から何まで鼻につくほどトレンディ。と言い切ってしまえばそれまでだが、そこにはインターネット黎明期の何かが起こりそうで起こらない予感のようなもの、そしてそれに対する漠然とした希望のようなものがまだ存在していた時代の空気がそのまま封じ込められている。田中康夫『なんとなく、クリスタル。』を読むような気分で視聴した。

作中ではしつこいくらい村上春樹もとい『ノルウェイの森』が意味深長なオブジェクトとして登場する。確かにハル、ほし、ローズの三角関係はワタナベ、直子、緑の三角関係に、電子メールという(当時は)利便性と不便性を同量に抱えた伝達手段はワタナベと直子のもどかしい手紙のやりとりにそれぞれスライドさせて考えることができるが、だから何?というのが正直なところ。

とはいえ不安定なツールだけを頼りに丁寧に切実にコミュニケーションを重ね続け、その途上に待ち受けるさまざまな障害や試練をも乗り越えた果てにハルとほしが「はじめまして」へと辿り着くラストシーンにはそれなりの感慨がある。

この映画が撮られた1年後に、村上春樹は『アンダーグラウンド』というノンフィクションを上梓した。これは、地下鉄サリン事件を題材に、それに巻き込まれてしまった「普通の人々」へのインタビューをまとめたものだ。当時のマスコミや世論はサリン事件を画策したオウム真理教やその信者たちといったセンセーショナルな部分ばかりを取り上げたが、村上春樹はむしろそこにおいて「被害者」として背景化していた「普通の人々」にスポットを当てた。

デビュー作『風の歌を聴け』以降ある種自閉的な作風を固持してきた彼が、このような社会の人々へ耳を傾ける「コミットメント」の姿勢を示したことは一つの大きな転換だった。

コミットメントとはコミュニケーションの継続に他ならない。そこでは軋轢があり、誤解があり、破綻がある。しかしそれでも決してコミュニケーションを諦めない。数多の困難を乗り越えてこそコミットメントは初めて功を奏するのだ。

ハルとほしは電子メールのやり取りを諦めなかった結果としてあの幸福なラストシークエンスに辿り着くことができた。それは村上春樹が不断のコミュニケーションの結果として『アンダーグラウンド』を書き上げられたことと同じなのだ。

因果