ルノー : ウィキペディア(Wikipedia)

ルノー・ド・ルシー(Renaud de Roucy, 920年ごろ - 963年5月10日)またはラジェノルド・ド・ルシー(Ragenold de Roucy)フランス、シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏マルヌ県ランス(Rheims, 現在のランス)大司教区のサン=レミー(Saint-Remy, 現在のサン=レミ, Saint-Remi)修道院教会(現在は小バシリカ)に埋葬された年が963年となっているので、ルノーが967年に死亡したことは有り得ないとされる。ここに埋葬された重要人物の埋葬リストの閲覧が可能である。注:ランスのサン=レミ大聖堂(フランス語版):「Rheims」は「Reims」の古い綴りである。ルノーが埋葬された当時、この教会はランスの大修道院に属していた。また、看板には「Saint-Remi」ではなく「Saint-Remy」という古い綴りが使われている。は、10世紀のランス及びルシー伯。923年から925年の間にロワール渓谷を略取し、オワーズを越えてブルゴーニュに侵入した、ラジェノルドという名のノルマン人ヴァイキングの指導者、もしくはその関係者であったとされる。

生涯

ルノーは943年頃、西フランク王ルイ4世と一緒にフランス史に現れ、ヴェルマンドワ伯エルベール2世(943年没)との戦争において王を支援した。戦いの後もルノーは王に仕え続け、945年にサンス伯に封じられた。

945年頃、ルイ4世はルノーに戦いの報酬として、自分の継娘にあたるアルベラード・ド・ロレーヌアルベラードは、ルイ4世の妃ジェルベルジュ・ド・サックスと、死別した前夫ロートリンゲン公ギゼルベルトとの間の娘である。と結婚させた。さらにランスとランの間にあるルシー(フランス語版)の領地を与えて要塞を築く義務を負わせ、947年から953年にかけてこれを実現させた。

この間、ルノーは875年ごろシャルリューに設立されたベネディクト会修道院の創建のための寄付に関する特許状に署名している。

946年、ランス大司教であったユーグ・ド・ヴェルマンドワ(フランス語版)は国王ルイ4世によって退位させられ、後任にアルトー(フランス語版)が任命された。ルノーはランス伯となり、教区の権能は新たなランス大司教アルトーに委ねた。

954年、ルイ4世の死後に王位を継承したロテールに仕えた。

963年5月10日、以下のまだ幼い遺児を残してルノーは死去した。

  • ジスルベール(951年 - 1000年頃)(フランス語版) - ルシー伯及びランス副伯
  • ブリュノン(フランス語版)(956年頃 - 1016年) - ラングル監督(フランス語)
  • エルマントルド(958年 - 1004年頃) - 初婚でマコン伯オーブリー2世(982年没)と結婚し、死別後にブルゴーニュ伯オット=ギヨーム(1026年没)と再婚
  • 名前不明の娘 - サンス伯フロモン2世(1012年没)と結婚『Genealogia Comitum Flandriæ(フランドル人の系譜)』では、名は記されていないが次女の存在が示されている。エドゥアール・ド・サン=ファールとジャン=ノエル・マテューは、マテュー=マクシミリアン・カンティンの指揮の下、1058年の特許状(年代は間違っている可能性がある)を基にジゼルベルト(Giselberte)という名前を提案した。

ルシー伯ルノーは、ランスのサン=レミ聖堂(フランス語版)に埋葬された。

参考文献

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出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/07/25 13:10 UTC (変更履歴
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