山本有三 : ウィキペディア(Wikipedia)

山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年〈明治20年〉7月27日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、政治家。本名:山本 勇造(やまもと ゆうぞう)。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。

人道的な社会劇作家として名を成し、『嬰児殺し』『坂崎出羽守』『同志の人々』などを発表。その後、小説に転じて『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを書き、理想主義の立場から人生の意味を平明な文体で問いかけた作風で広く読まれた。

第二次世界大戦後は貴族院勅選議員。のち参議院議員として新仮名遣い制定など国語国字問題に尽力した。

来歴

呉服商の子として栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)に生まれる。跡取り息子として裕福に育ち、高等小学校卒業後、父親の命で一旦東京浅草の呉服商に奉公に出されるが、一度は逃げ出して故郷に戻る。上級学校への進学を希望したが許されず、結局、家業を手伝うことになる。

この頃、佐佐木信綱が主宰する短歌の結社「竹柏会」に入会し、新派和歌を学んだ。また『中学世界』や『萬朝報』『文章世界』に投稿して入選している荒正人「作家と作品  山本有三」『日本文学全集 山本有三集』集英社。その後、1905年に母の説得で再度上京。正則英語学校、東京中学に通い卒業生紹介 東京高等学校公式サイト、1908年(明治41年)に東京府立一中を卒業。1909年(明治42年)9月一高入学。同級だった近衛文麿とは生涯の親交を暖めた。1年の留年を経て一高を中退し高橋英夫『偉大なる暗闇: 師岩元禎と弟子たち』63ページ、東京帝国大学文科大学独文学科選科に入る。

在学中から『新思潮』創刊に参加し、修了後、早稲田大学ドイツ語講師として働きながら、1920年には戯曲『生命の冠』で文壇デビュー。真実を求めてたくましく生きる人々の姿を描いた。一高時代落第後に同級となった菊池寛芥川龍之介らとは文芸家協会を結成し、内務省の検閲を批判する一方、著作権の確立に尽力した。1932年(昭和7年)には新設された明治大学文芸科の科長に就任。しかし、1934年(昭和9年)に共産党との関係を疑われて一時逮捕されたり、『路傍の石』が連載中止に追い込まれたりし、日増しに政府・軍部の圧迫を受けるようになった。1933年6月3日、共産党に資金を提供した疑いで検挙された『司法研究』28輯9「プロレタリア文化運動に就いての研究」。1941年(昭和16年)には帝国芸術院会員、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)には日本文学報国会理事に選ばれている。

1936年、三鷹市(当時は東京府下)の洋館に移り住んだ。1926年築の、当時としては珍しい鉄筋コンクリート2階建で、前所有者から買い受けた「占領とは何か 接収された山本有三邸が伝える実情」産経新聞ニュース(2022年4月13日)2022年5月2日閲覧。自作の小説、戯曲を執筆するだけでなく、子供向けの『日本少国民文庫』(全16巻)の編集も担った。編集主任には、以前から親交があり、当時は失業中だった吉野源三郎を登用した。そのうちの一冊で、現在も読み継がれる『君たちはどう生きるか』の1937年初版は、吉野と山本の共著となっている。また太平洋戦争下の1942年夏には、子供が自由に蔵書を読めるようにと、自宅を「ミタカ少国民文庫」として開放した山本有三 三鷹の日々/記念館で企画展 書簡など約60点/「君たちはどう生きるか」吉野源三郎との絆示す『読売新聞』朝刊2018年11月4日(都民版)。

戦後は貴族院勅選議員に勅任され、国語国字問題に取り組んで「ふりがな廃止論」を展開したことでも知られる。憲法の口語化運動にも熱心に取り組んだ。1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙では全国区から出馬して9位で当選。参議院議員を1期6年間務めて緑風会の中心人物となり、政治家としても名を残したが、積極的な創作活動は終生変わらなかった。1965年には文化勲章を受章している。他の叙勲は幾度か辞退していたが、1972年に国会議員の功労として銀杯一組を賜った早川正信『山本有三の世界 比較文学的研究』165ページ、和泉書院、1987年。

1974年1月5日に国立熱海病院(静岡県熱海市)に入院し、1月11日に高血圧症から肺炎による急性心不全を併発して死去。戒名は山本有三大居士岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)347頁。命日の1月11日は、1月11日の数字の並びと有三の「三」の字にちなみ、一一一忌(いちいちいちき)と呼ばれている。

家族

父・山本元吉は、宇都宮藩士(足軽の小頭)だったが、明治維新後、裁判所書記などをした後、呉服屋で修業を積み独立するも失敗。かつぎ商人となって苦労の末、素封家や富商、三業地(花街)などの固定客を相手に、外商を主にした呉服業を栃木町で営んだ山本有三(1) 千葉日報(2014年02月6日)。1907年に脳溢血で死去。姉がいたが、夭折したため一人っ子だった。

1917年に母の勧めで最初の妻と結婚するも離婚山本有三(2)千葉日報社(2014年02月20日)。1919年3月に、本田増次郎と井岡ふでの娘・井岡はな(1897-1930)と再婚し、有一(1921-1930年)、朋子(1925-2007年)、玲子(1927年-)、鞠子(1928-2010年)の四子をもうける 本田増次郎Web記念館 馬込文学マラソン(2015年3月7日)。妻のはなは両親が未入籍だったため私生児で、5歳の時に結核で母を亡くした後、母方の祖母や親族の間を転々とし、跡見女学校を卒業。21歳の時に同校学監の跡見李子(ももこ)の紹介で10歳年上の有三と結婚した 美咲町著名人。

『破船』事件

夏目漱石門下の久米正雄とは親友だったが女優木下八百子を巡って険悪となり、久米が漱石長女筆子の愛を巡って松岡譲と争ったいわゆる『破船』事件の際には、久米を陥れようと企んで、久米を女狂い、性的不能者、性病患者などと誹謗中傷する怪文書を、筆子の学友の名を騙って夏目家に送りつけた一面があった。怪文書の筆跡は明らかに女性のものだったが、有三が起草した文章を夫人に清書させたと、久米も松岡も筆子も考えていた関口安義『評伝松岡譲』小沢書店、1991年。しかしながら久米と筆子の件は夏目門下生と親族以外は知らされておらず、山本がこの件を知っていたとは考えにくい。また、松岡は以前にも似た悪戯を久米にしている。

主な著作

主な著作については、山本有三記念館編「著作表」『みんなで読もう山本有三』(笠間書院、2006年)pp.216-225を参照した。

戯曲

小説・物語

随筆・評論・談話

著書

  • 『生命の冠』戯曲集 新潮社、1920年
  • 『欲生』叢文閣、1920年
  • 『坂崎出羽守』戯曲集 新潮社(現代脚本叢書)、1921年
  • 『女親』稲門堂書店(戯曲叢書)、1922年
  • 『塵労』金星堂、1922年
  • 『同志の人々』戯曲集 新潮社、1924年、のち岩波文庫
  • 『嬰児殺し』戯曲集 改造社、1924年
  • 『途上』新潮社(感想小品叢書)、1926年
  • 『熊谷蓮生坊』現代戯曲選集 春陽堂、1926年
  • 『生きとし生けるもの』文藝春秋社、1927年、のち角川文庫・新潮文庫
  • 『西郷と大久保』戯曲集 改造社、1927年、のち角川文庫
  • 『波』朝日新聞社、1927年、のち岩波文庫・新潮文庫・講談社文庫
  • 『女人哀詞』戯曲集 四六書院、1931年、のち角川文庫
  • 『山本有三全集』改造社(日本文学大全集)、1931年
  • 『風』朝日新聞社、1932年、のち新潮文庫
  • 『女の一生』中央公論社、1933年、のち新潮文庫
  • 『瘤』短篇集 改造社、1935年、のち岩波新書
  • 『心に太陽を持て 胸にひびく話 - 二十篇』新潮社(日本少國民文庫)、1935年、のち新潮文庫
  • 『日本名作選』新潮社(日本少國民文庫)、1936年、のち新潮文庫
  • 『世界名作選』1-2 新潮社(日本少國民文庫)、1936年、のち新潮文庫
  • 『真実一路』新潮社、1936年、のち新潮文庫・角川文庫
  • 『戦争と二人の婦人』岩波書店、1938年
  • 『山本有三全集』全10巻 岩波書店、1939–41年
  • 『不惜身命』創元社、1939年、のち角川文庫
  • 『路傍の石』岩波書店、1941年、のち新潮文庫
    • 『新編 路傍の石』岩波書店、1941年、のち新潮文庫
  • 『米百俵 隠れたる先覚者小林虎三郎』新潮社、1943年、のち新潮文庫
  • 『道しるべ』実業之日本社、1948年
  • 『山本有三文庫』全11巻 新潮社、1948–50年
  • 『竹』細川書店、1948年
  • 『無事の人』新潮社、1949年、のち新潮文庫
  • 『山本有三作品集』全5巻 創元社、1953年
  • 『山本有三文庫』全7巻 中央公論社(中央公論社作品文庫)、1954-1955年
  • 『海彦山彦』角川文庫、1956年
  • 『濁流 雑談=近衛文麿』毎日新聞社、1974年
  • 山本有三全集』全12巻 新潮社、1976-1977年
  • 『兄弟・ふしゃくしんみょう』旺文社文庫、1979年

翻訳

  • 『名誉』ヘルマン・ズーダーマン原著、赤城正蔵、1914年
  • 『死の舞踏』ストリンドベルク原著、洛陽堂、1916年
  • 『シュニッツレル選集』楠山正雄共訳、新潮社、1922年
  • 『情婦殺し』シユニツツレル原著、新潮社、1926年

文学碑

  • 山本有三文学碑(栃木県栃木市平井町) - 山本有三が1960年に栃木市名誉市民に推挙され、それを記念して建立されたもので、1963年3月9日に除幕式が行われた。碑には「たったひとりしかない自分を たった一度しかない一生を ほんとうに生かさなかったら 人間うまれてきたかいが ないじゃないか」という『路傍の石』の一節が刻まれている山本有三文学碑 - 栃木市観光協会(2021年8月24日閲覧)。
  • その他にも栃木市内に数多くの文学碑がある。

記念館

三鷹市山本有三記念館
東京都三鷹市が1996年に開館した記念館で、山本有三が1936年から1946年まで居住した家を元に一般公開している三鷹市山本有三記念館 | 公益財団法人 三鷹市スポーツと文化財団(2021年8月24日閲覧)。三鷹市指定有形文化財。
山本が愛したこの西洋式の屋敷と庭園は戦後、GHQによって接収されて米軍高級将校宅として使われることになったため、山本は後ろ髪を引かれる想いで転居を余儀なくされた。GHQは1946年、自分たちが住むのに適した西洋式住宅の接収候補約700をリスト化し、山本は接収を避けようと文部省や読売新聞社社長の馬場恒吾などを通じて働きかけたが、山本邸は「U.S.House No.843」」としてキャンプ・ドレイク勤務の米軍幹部が使うことになった。賃料は安く(東京都内の公立小学校教員の初任給が2000円の時代に月額496円)、1951年12月に接収が解除された山本邸はペンキが塗られ、家具も破損・紛失していた。
山本は返還された屋敷に住むことはなく、国立国語研究所の分室として使われ、1956年に東京都へ寄付されて図書館になった。1965年、三鷹市広報紙への寄稿で山本は、接収がなかったなら三鷹市民として留まっていただろうと述懐している。
山本有三ふるさと記念館
山本有三の故郷である栃木県栃木市に1997年に開館した記念館山本有三ふるさと記念館 - 栃木市観光協会(2021年8月24日閲覧)。山本の遺品などを所蔵、展示している。
建物は明治初期の建築で、2階建ての2棟の見世蔵が南北に棟続きになって構成されている。建ったのは南棟が先。北棟の1階は土間と帳場の形を残している。いずれも国登録有形文化財。

語録

  • 「右の靴は左の足には合わない でも両方無いと一足とは言われない」名言格言集
  • 「裸より強いものはない」著書『竹』(軍隊や国の交戦権を否定した日本国憲法を擁護して)

出典

参考文献

  • 三鷹市山本有三記念館編『みんなで読もう山本有三』笠間書院、2006年 ISBN 4305703378

関連項目

  • 日本における検閲
  • 路傍の石文学賞
  • 路傍の石幼少年文学賞

外部リンク

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