ポール・ムニ : ウィキペディア(Wikipedia)
ポール・ムニ(Paul Muni, 1895年9月22日 - 1967年8月25日)は、アメリカ合衆国の俳優。マーロン・ブランドが最も尊敬した俳優と言われている。
略歴
オーストリア=ハンガリー帝国・ガリツィアのルヴフ(現在はウクライナ領リヴィウ)でユダヤ系の家庭にメシレム・マイエル・ヴァイゼンフロイント(Meshilem Meier Weisenfreund)として生まれる。彼が7歳の時に家族でアメリカに移住した。両親はイディッシュ演劇に出演する俳優であり、彼も12歳の時からイディッシュ語舞台に立っていた。29歳でブロードウェイに進出、英語での舞台に立つようになる。1929年にFOXと契約、出演した『The Valiant』でアカデミー賞にノミネートされる。その後企画への不満などからブロードウェイに戻るが、1932年にハワード・ホークス監督たっての希望で同監督のギャング映画『暗黒街の顔役』に主演、凄みの利いた演技で一躍スターダムにのし上がる。同年ワーナー・ブラザースと契約し、1936年の『科学者の道』でアカデミー主演男優賞を受賞。彼はこの作品でヴェネツィア国際映画祭の男優賞も獲得している。その後舞台と映画の両方で活躍、1956年にはトニー賞を受賞。1959年の『The Last Angry Man』で5度目のアカデミー賞ノミネートの後、引退した。
人物
生涯に出演した映画作品は僅か25本に過ぎないにもかかわらず、アカデミー賞だけでも5回ノミネートされているのは特筆に値する。これは彼の演技に対する真摯な姿勢と、細心の注意を払った役作りの賜物と言われている。だが、それだけに性格的には気難しい一面もあり、撮影現場で度々得意のバイオリンを演奏し、場を和ませることがあった一方で、赤い服を着ている人を見ると決まって激怒した、というエピソードも伝えられている。なお、1941年に契約上の問題からワーナーを離れたが、彼が演じる予定だったと言われる『ハイ・シェラ』のロイ・アール役を演じてスターになったのが、ハンフリー・ボガートである。
主な出演作品
公開年 | 邦題原題 | 役名 | 備考 |
---|---|---|---|
1932 | 暗黒街の顔役Scarface | トニー | |
仮面の米国I Am a Fugitive from a Chain Gang | ジェームズ・アレン | ||
1934 | 彼の第六感Hi, Nellie! | ブラッド | |
1935 | 国境の町Bordertown | ジョニー・ラミレス | |
黒地獄Black Fury | ジョー | ||
1936 | 科学者の道The Story of Louis Pasteur | ルイ・パスツール | アカデミー主演男優賞 受賞ヴェネツィア国際映画祭男優賞 受賞 |
1937 | 大地The Good Earth | 王龍 | |
ゾラの生涯The Life of Emile Zola | エミール・ゾラ | ||
1939 | 革命児ファレスJuarez | ベニート・フアレス | |
静かなる抵抗We Are Not Alone | デヴィッド・ニューカム | ||
1942 | 暁の勝利Commandos Strike at Dawn | エリック・トレセン | |
1943 | ステージドア・キャンティーンStage Door Canteen | 本人 | |
1945 | 楽聖ショパンA Song to Remember | ユゼフ・エルスネル | |
その他
妻でイディッシュ女優のベラ・フィンケル (Bella Finkel) は、指揮者マイケル・ティルソン・トーマスの祖父でニューヨークのイディッシュ劇場の設立者ボリス・トマシェフスキー (Boris Thomashefsky) の妹エマ (Emma Finkel) の娘である。ベラの父である俳優のモイシェ・フィンケル (Moishe Finkel) は、別の男に走った妻エマを銃で撃って大怪我をさせると、その銃で自殺した。
外部リンク
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/07/10 02:08 UTC (変更履歴)
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