二川文太郎 : ウィキペディア(Wikipedia)

二川 文太郎(ふたがわ ぶんたろう、1899年6月18日 - 1966年3月28日)は、日本の映画監督、脚本家である。脚本家としての名は紫之塚 乙馬(しのづか おつま)、駒田 通(こまだ とおる)である。阪東妻三郎主演、無声映画史上の傑作と呼ばれる『雄呂血』の監督として知られる。

来歴・人物

1899年(明治32年)6月18日、東京市芝区三崎町(現在の港区三田4丁目)の葉茶屋の家に生まれた。本名は滝沢 吉之助(たきざわ きちのすけ)。3歳下の弟は映画監督の滝沢英輔(本名・憲)『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「二川文太郎」の項(p.345)を参照。同項執筆は岸松雄。、孫はイラストレーターの原田治である。

中央大学経済科を中退し、1921年(大正10年)4月、横浜・山下町(現在の中区元町)の大正活映撮影所に入社、ハリウッド帰りの映画監督トーマス・栗原に師事、助監督と俳優を経験した。同年11月に獏与太平に率いられて内田吐夢井上金太郎江川宇礼雄らとともに京都入り、牧野省三の牧野教育映画製作所(等持院撮影所)に入社した。翌1922年の牧野監督の『実録忠臣蔵』に出演したのち、撮影部、整理部、脚本部を経て、1923年(大正12年)、24歳のときに『蜃気楼』で監督としてデビュー、同作は8月23日に公開された。

1925年(大正14年)、阪東妻三郎プロダクション製作、マキノ・プロダクション配給作品、阪東妻三郎主演、マキノ省三総指揮、寿々喜多呂九平オリジナル脚本による大作『雄呂血』の監督に抜擢された。同作は同年11月20日、浅草「大東京」ほかで公開され、大ヒットとなる。ハリウッドの巨匠ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督は、同地の日本映画専門館に毎日のように通い、同作のなかで何百人が斬られるのかを数えたという。

1955年(昭和30年)12月21日公開の『復讐浄瑠璃坂』を最後に引退した。56歳のときであった。

1966年(昭和41年)3月28日に死去。満65歳没。妻は女優の鈴木信子である。没後の5年を経た1971年に『雄呂血』のプリントが発見され、上映会が行われ、以降NHKでもたびたび放映された。

おもなフィルモグラフィ

出演
監督

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  • 『蜃気楼』 : 1923年 - 監督デビュー作
  • 『快傑鷹』 : 1924年
  • 『逆流』 : 1924年
  • 『雄呂血』 : 1925年
  • 『照る日くもる日』第一篇・第二篇 : 1925年
  • 『江戸怪賊伝 影法師』 : 1925年
  • 『墓石が鼾する頃』 : 1925年
  • 『新版大岡政談』 : 1928年
  • 『怪談累ヶ淵』 : 1930年
  • 『巷説・濡れつばめ』 : 1936年
  • 『復讐浄瑠璃坂』 : 1955年 - 引退作・遺作

関連事項

  • 大正活動映画 (トーマス・栗原、谷崎潤一郎
  • 牧野教育映画製作所 - マキノ映画製作所 (牧野省三
  • 阪東妻三郎プロダクション (阪東妻三郎
  • 松竹下加茂撮影所

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/07/08 11:13 UTC (変更履歴
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