日枝久 : ウィキペディア(Wikipedia)
日枝 久(ひえだ ひさし、1937年〈昭和12年〉12月31日 - )は、日本の実業家。フジサンケイグループ代表。
株式会社フジテレビジョン取締役相談役、株式会社フジ・メディア・ホールディングス取締役相談役、株式会社産業経済新聞社取締役相談役、公益財団法人彫刻の森芸術文化財団理事長、彫刻の森美術館館長、美ヶ原高原美術館館長森英恵の後任、公益財団法人日本美術協会会長、公益財団法人東京都歴史文化財団理事長、東京文化会館館長などを務めている。
1980年5月に株式会社フジテレビジョン2008年10月、株式会社フジテレビジョン(旧法人)が認定放送持株会社に移行し、商号を「株式会社フジ・メディア・ホールディングス」に変更。新設分割によりテレビ放送事業を新設の「株式会社フジテレビジョン」(新法人)に継承。編成局長に就任し、後発局だった同社を首位に押し上げ、黄金時代を牽引した。1988年から13年にわたり同社代表取締役社長を務め、2001年には同社代表取締役会長兼CEOに就任。2008年10月には日本初の認定放送持株会社への移行を実現させ、株式会社フジ・メディア・ホールディングス代表取締役会長兼CEOに就任。放送事業を核に幅広い事業を展開する日本を代表するメディア・コングロマリットへと成長させた。
2003年から2006年まで社団法人日本民間放送連盟会長を務め、「地上波放送のデジタル化」と「放送と通信の連携」という新たな課題に果敢に取り組み、その舵取り役を担った。
来歴
生い立ち
東京府生まれ顕彰状 日枝久氏 – 早稲田大学 Thu, 01 Apr 2010。四人の姉がいる。2歳のとき父が死去した。小学校から大学までボーイスカウトでスカウティングを経験する。東京都立杉並高等学校、早稲田大学教育学部社会学科を卒業した。
フジテレビとの出会い
中学時代のある日、ガールフレンドの誕生日会に参加した日枝は、そこで当時実験段階だったオシロスコープを目にした。理工学部の学生だった彼女の兄から「もうじきここにニュースもスポーツも映画も音楽も映るようになるんだよ。テレビの時代が来るんだよ」と教わった。
大学では教職課程を履修しており、当初は教員かジャーナリストを志望していた。教育実習先の小学校で、職員室の雰囲気に嫌気がさし、教員になることを迷う。同じ頃、1960年7月の夏休みのある日、日枝はぶらりと大学に行き、イチョウの木の下のベンチでまどろんでいた。偶然通りかかった就職課の先生から「君はマスコミ志望だったよね。開局したばかりのフジテレビが実習生を募集している。就職には関係ないけど、勉強になるから行ってみないか」と声を掛けられた。これがきっかけとなり、フジテレビの実習に応募した。
報道・労働組合・編成
1961年4月、株式会社フジテレビジョンに入社する。配属部署は希望通りの報道部だった。1963年11月の鶴見事故の取材、同月のケネディ大統領暗殺事件の衛星中継や、1966年3月に富士山付近で発生した英国海外航空機空中分解事故の取材に従事した。政治部記者のとき、テレビは国会の記者クラブに入れてもらえず、常駐カメラマンの映放クラブに入っていた。
中本逸郎、横澤彪らと共に1966年5月、フジテレビ労働組合を結成し(岡田太郎委員長・嶋田親一副委員長・黒神洋二書記長。結成数時間のうちに582人が加入)、25歳定年制だった女性社員の待遇改善などを要求した(1972年同定年制廃止)。
しかし鹿内信隆社長と同じ日経連出身の石川士郎報道部長に睨まれ、1966年編成部に異動した。上司との交渉により1年で報道に戻るも、すぐまた編成に行き、1968年4月「3時のあなた」を企画担当として立ち上げ、司会に高峰三枝子、山口淑子を起用した。
1968年7月、周囲の推薦により労働組合書記長に就任した。同じ第三期執行部に村上光一、尾上規喜がいた。報復人事として当時不人気だった広報に左遷される。1969年10月、書記長を退任し、社内横断のプロジェクトチーム「番組企画センター」メンバーに選ばれた。組合活動により人事異動で不本意な部署に次々と飛ばされたが、腐らず懸命に働いたと日枝は回想する一方、それほど不利益になっていないという評価もある。
1970年、広報から編成に戻る。1972年2月あさま山荘事件の時は、編成デスクとして強引にCMを外して中継を続けた。1974年11月に編成部副部長、1978年11月には営業部ネット営業部長になり、電通と関係を深める。
編成局長
1980年5月、鹿内信隆会長が視聴率低迷や営業不振を理由に強化本部長を兼務。長男の鹿内春雄を代表取締役副社長に任命し、強化本部長の職務を代理統括させると宣言した。この「80年改革」で、日枝は42歳で編成局長に抜擢された。
編成局長就任の条件として挙げた「視聴率表を貼り出すのをやめる」「制作部門のプロダクション化など合理化をやめる」「番組の企画を社長にまであげるのはやめて、現場に任せてほしい」を実行。社内を明るくしよう、楽しくしようという狙いの下、社内外に向けて「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズを打ち出した。
1982年3月には「ニューテレビ宣言」を提言する。この中で、編成が作るタイムテーブルこそがテレビ局の商品であり、局全体の力や勢い、イメージが反映されるとし、「テレビは編成が肝要」という考え方を打ち出した。これにより、テレビ観に大きな変革がもたらされた。従来テレビ界では番組制作者が重視されてきたが、フジテレビは編成機能を強化し、次々と高視聴率番組を生み出していった。番組観の革新をもたらし、既存の枠を超えた「タレント」という新たな業種も登場した。また、報道局所管のアナウンス室が編成制作局に移管され、女子アナのバラエティ番組での起用が当たり前となり、後の女子アナブームに繋がった。
破天荒な春雄との二人三脚によりフジテレビの黄金時代を牽引する。1982年から1993年まで視聴率三冠王を他に譲らなかった。さらに、フジサンケイグループの総力を挙げたメディア・ミックス展開により、『南極物語』(1983年公開、製作総指揮)、『ビルマの竪琴』(1985年公開、企画)、『子猫物語』(日本1986年公開、北米1989年公開、製作)などの映画や、『夢工場'87』などのイベントを成功に導いた。1983年6月、取締役編成局長、1986年6月には常務取締役総合開発室担当に就任した。
フジテレビジョン社長、会長兼CEO
1988年4月16日、鹿内春雄会長が急性肝不全により死去した(享年42歳)。春雄邸で行われた仮通夜で日枝は、涙を隠さず号泣したとされる。4月19日午後、春雄の生前の意向に従い信隆は社長人事を日枝に内示。遺志を継いだ日枝は1988年6月、生え抜き初の代表取締役社長に昇任した。
春雄の急死から間もなく、鹿内信隆は鹿内家の世襲体制を維持するため、娘婿の佐藤宏明を養子に迎え、「鹿内宏明」としてフジサンケイグループ会議の三代目議長に据えた。1990年10月28日、信隆が死去。フジテレビは1980年代の勢いを引き継ぎながらも、次第に停滞の兆しを見せ始める。宏明はメディア業界での経験が皆無でありながら、現場に過度に干渉し、場当たり的な指示を繰り返したため、社内の混乱を招いた。その影響もあり、フジテレビは視聴率での優位性を徐々に失い、1994年には日本テレビに三冠王の座を譲ることとなる。1992年7月、日枝は産経新聞社の羽佐間重彰社長らとともに宏明を追放し、フジサンケイグループのガバナンスの適正化を図る。
1997年8月8日にはフジテレビを東証一部に上場させ、パブリック・カンパニー化を実現させた。2001年6月、フジテレビジョン代表取締役会長兼CEOに昇任した。2003年4月から2006年3月まで日本民間放送連盟会長を務めた。2003年7月にフジサンケイグループ代表に就任する。2004年から2010年までの7年間、フジテレビは視聴率三冠王に返り咲いた。
2005年1月17日、フジテレビはフジサンケイグループの再編を目的として、ニッポン放送に対する株式公開買付(1株5,950円)を発表した。その最中に突如として堀江貴文率いるライブドアが東京証券取引所のToSTNeT-1を利用した時間外取引によりニッポン放送株式の35%を取得した。法廷闘争や北尾吉孝率いるソフトバンク・インベストメント(現在のSBIホールディングス)のホワイトナイト参画を経て、フジテレビ、ライブドア、ニッポン放送の三者は和解した。フジテレビはニッポン放送を完全子会社化し、フジサンケイグループの事業持株会社となった。
フジ・メディア・ホールディングス会長兼CEO
2006年、小泉政権において通信・放送の在り方に関する懇談会(通称「竹中懇」)が開かれた。メディア・コングロマリット化の推進やそのためのマスメディア集中排除原則の緩和が議論され、2007年に放送持株会社が認められた。2008年10月1日、フジテレビは認定放送持株会社に移行し、商号を「株式会社フジ・メディア・ホールディングス(FMH)」に変更した。同日新設分割により設立された「株式会社フジテレビジョン」の初代代表取締役会長兼CEOに就任した。
認定放送持株会社体制への移行を前に日枝は「メディア・コングロマリットって、要するにワンソース、マルチユースを徹底する組織でしょう。編成局長の頃からやりたいと思っていました」と語り、発足後のコーポレートサイトでは「わが国を代表する『メディア・コングロマリット』の形成を目指してまいります」と宣言。FMH発足後はサンケイビルの完全子会社化やグランビスタホテル&リゾート(旧・三井観光開発)の買収など、強固なポートフォリオの構築と事業領域の拡張を推進した。関西テレビ放送の持分法適用関連会社化や仙台放送の連結子会社化など、フジネットワーク系列局の再編と経営基盤の強化にも取り組んだ。
フジ・メディア・ホールディングス取締役相談役
2017年6月、フジ・メディア・ホールディングス(FMH)とフジテレビジョン両社の代表取締役会長兼CEOを退き、両社の取締役相談役に就任したフジテレビ・日枝会長が退任へ…取締役相談役に - YOMIURI ONLINE、2017年5月10日 11時23分配信、同月11日閲覧ニッポン放送社長、日枝久フジテレビ会長退任に「新しいグループになっていくのかな」 - デイリースポーツ、2017.5.10配信、同月12日閲覧。
2023年7月、森英恵の後任として、彫刻の森美術館及び美ヶ原高原美術館の館長に就任した。
2025年2月27日、FMHは、日枝が取締役の人事や報酬などについて助言や提言を行う経営諮問委員会の委員を同日付で辞任したことを発表した。同日行われた定例取締役会の終了後、取材に応じたFMH金光修社長は、経営諮問委員の辞任について、日枝が「二つ返事」で了承したと述べた。さらに、日枝が「先週末に自宅で転倒して、腰椎圧迫骨折になって入院をしている」ことを明かした。
略歴
- 1961年4月 - フジテレビジョン(現在のフジ・メディア・ホールディングス)入社
- 1980年5月 - 株式会社フジテレビジョン 編成局長
- 1983年6月 - 株式会社フジテレビジョン 取締役編成局長
- 1986年6月 - 株式会社フジテレビジョン 常務取締役総合開発室担当
- 1988年6月 - 株式会社フジテレビジョン 代表取締役社長
- 1989年6月 - 株式会社サンケイビル 非常勤取締役(現任)
- 1991年6月 - 北海道文化放送株式会社 非常勤取締役(現任)
- 1992年6月 - 株式会社産業経済新聞社 非常勤取締役
- 1992年6月 - Executive Chair, Fujisankei Communications International, Inc.
- 1993年6月 - 株式会社産業経済新聞社 取締役相談役(現任)
- 1993年6月 - 東海テレビ放送株式会社 非常勤取締役(現任)
- 1993年6月 - 株式会社テレビ西日本 非常勤取締役(現任)
- 1994年6月 - 関西テレビ放送株式会社 非常勤取締役(現任)
- 2001年6月 - 株式会社フジテレビジョン 代表取締役会長兼CEO
- 2003年4月 - 一般社団法人日本民間放送連盟 会長
- 2003年7月 - フジサンケイグループ代表(現任)
- 2005年7月 - Executive Managing Advisor, Fujisankei Communications International, Inc.(現任)
- 2008年10月 - 株式会社フジ・メディア・ホールディングス 代表取締役会長兼CEO
- 2008年10月 - 株式会社フジテレビジョン 代表取締役会長兼CEO
- 2017年6月 - 株式会社フジ・メディア・ホールディングス 取締役相談役(現任)
- 2017年6月 - 株式会社フジテレビジョン 取締役相談役(現任)
- 2018年3月 - 岡山放送株式会社 取締役相談役(現任)
- 2023年7月 - 彫刻の森美術館・美ヶ原高原美術館 館長(現任)
人物
ボーイスカウトに小学生で入隊し、菊スカウト進級を経て、大学生で隊長に昇進。就職後も育成会員として長年登録している。2010年に財団法人ボーイスカウト日本連盟が公益法人へ移行した際には、奥島孝康理事長の打診により日枝は副理事長を引き受けた。第15回日本ジャンボリーには制服を着て参加し、「制服を着たのは 50 年ぶりだったでしょうか。感動しましたね」と語っている。
編成局長を務めていた1980年代、トレードマークの豪快な笑い方から親しみを込めて「ガハハおじさん」と社員たちに呼ばれていた。同じころ「(プロ野球の)ナイター中継のせいで番組が度々休止になる」という理由でバラエティ番組『オレたちひょうきん族』の人気コーナーであった「ひょうきん懺悔室」に出演させられ、明石家さんま、ビートたけしらに水を被せられた。
小泉政権下で総務大臣を歴任した竹中平蔵は、堀江貴文との対談の中で「私が総務大臣のとき、キー局の社長全員と一対一で話したんですよ」と振り返り、「15年ぐらい前で、まさに『通信と放送の融合』の話が出始めていた頃で。“テレビはどうしていくんですか?”と持ちかけたところ、ちゃんと理解してくれたのが日枝(久)さんだけでしたね」と評している。
交友関係
安倍晋三とは度々会食し、夏季休暇には連日共に山梨県でゴルフをするなど緊密な関係にあった安倍晋三在任時の首相動静より。安倍はフジテレビやニッポン放送の番組に多数出演し、産経新聞本紙・僚紙の独占インタビューにも積極的に応じていた。2022年7月、暗殺された安倍の遺体が東京・富ケ谷の自宅に到着した際には、唯一の民間人として、高市早苗、福田達夫ら政治家と出迎えた。翌年衆議院議員となった安倍の甥にあたる岸信千世は、フジテレビ報道局員として勤務していた官邸テレビ支配進行 首相の甥がフジ入社、麻生氏甥はTBS在籍 - NEWSポストセブン 2014年3月20日。他にも加藤六月、産経新聞社出身の森喜朗とは盟友関係にあるなど、政財界に幅広い人脈を有している。
栄典
2010年2月25日、高麗大学校よりマルチメディア・マルチチャンネル時代に日本の放送産業発展をリードし、日韓間の文化コンテンツ産業発展などに寄与した功労が評価され、2010年2月25日に名誉経営学博士号が授与された高麗大学、日枝久氏に名誉経営学博士号を授与 - 聯合ニュース(2010年2月25日17:22:KST アーカイブ)。。
同年4月、母校の早稲田大学よりその卓越した指導力と先見性を持った経営戦略の展開によって株式会社フジテレビジョンを牽引し、放送、制作事業はもとより、同社を映像音楽、生活情報、広告、出版など幅の広い事業領域を持つ、我が国を代表するメディア・コングロマリットへと押し上げた実績が評価され、名誉博士号を授与された2010年度学部入学式 四氏に名誉博士学位を贈呈しました - 早稲田大学ニュース(2010年4月1日)。。
2013年11月3日付で旭日大綬章を受章した平成25年秋の叙勲 旭日大綬章 内閣府 。2014年にはイギリスから大英帝国勲章ナイト・コマンダー章を授与された日枝フジテレビ会長に英がナイトの称号授与 2013.11.26 12:39 MSN産経ニュース。
2023年10月12日、中華民国(台湾)から「傑出したメディア関係者」として、日台の「友好協力関係に多大な実績を挙げた」ことが評価され、紫色大綬景星勲章を授与された。
- 2010年2月25日 - 高麗大学校名誉経営学博士
- 2010年4月1日 - 早稲田大学名誉博士
- 2013年11月3日 - 旭日大綬章
- 2014年1月21日 - 大英帝国勲章ナイト・コマンダー章
- 2023年10月12日 - 中華民国紫色大綬景星勲章
役職
フジサンケイグループ関連の役職
出典:
- フジサンケイグループ 代表
- 株式会社フジ・メディア・ホールディングス 取締役相談役
- 株式会社フジテレビジョン 取締役相談役
- 株式会社産業経済新聞社 取締役相談役(非常勤)
- 株式会社サンケイビル 非常勤取締役
- 株式会社共同テレビジョン 非常勤取締役
- 北海道空港株式会社 非常勤取締役(FMHが出資)
- 公益財団法人彫刻の森芸術文化財団 理事長
- 彫刻の森美術館 館長
- 美ヶ原高原美術館 館長
- 公益財団法人日本美術協会 会長(代表理事)
- 株式会社TOKYO TOWER 非常勤取締役フジサンケイグループ各社の出資により設立され、当初の本店所在地は有楽町のニッポン放送本社内に置かれていた。グループ外の企業ではあるが、設立から現在に至るまでフジサンケイグループの放送系企業が加盟する「中央ラジオテレビ健康保険組合」に加盟している。
- 公益財団法人新日本フィルハーモニー交響楽団 副理事長
フジネットワーク(FNS)関連の役職
- 北海道文化放送株式会社 非常勤取締役
- 東海テレビ放送株式会社 非常勤取締役
- 株式会社NST新潟総合テレビ 非常勤取締役
- 関西テレビ放送株式会社 非常勤取締役
- 岡山放送株式会社 取締役相談役(非常勤)
- 株式会社テレビ西日本 非常勤取締役
その他役職
- 一般社団法人東京臨海副都心まちづくり協議会 理事長
- 公益社団法人全国公立文化施設協会 会長(代表理事)
- 公益財団法人東京都歴史文化財団 理事長
- 特定非営利活動法人国際連合世界食糧計画WFP協会 顧問
- 一般財団法人日本ウズベキスタン・シルクロード財団 評議員日本ウズベキスタン・シルクロード財団 本財団の目的と事業
- 公益財団法人ボーイスカウト日本連盟 顧問
- 公益社団法人全国公立文化施設協会 会長
家族
妻の加寿子は1941年生まれで、青山学院女子短期大学を卒業した。
注釈
出典
関連項目
- 東京都出身の人物一覧
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