林房雄 : ウィキペディア(Wikipedia)

林 房雄(はやし ふさお、1903年(明治36年)5月30日 - 1975年(昭和50年)10月9日)は、日本の小説家、文芸評論家。大分県大分市出身。本名は後藤 寿夫(ごとう ひさお)。戦後の一時期の筆名は白井 明。戦後は中間小説の分野で活動し、『息子の青春』、『妻の青春』などを出版し舞台上演され流行作家となった。

略歴

父が酒に溺れたため、家業の雑貨商が破産。このため母が紡績工場の女工として家計を支えた。1916年(大正5年)、旧制大分中学校(現・県立大分上野丘高校)入学後は、銀行家の小野家の住み込み家庭教師として働きながら苦学し、1919年(大正8年)、第五高等学校に入学してからも小野家の援助を受ける。東京帝国大学法学部中退。

  • 1925年(大正14年) - 『科学と芸術』を発表。
  • 1926年(大正15年) - 京都学連事件で検挙・起訴(禁固10か月)。『文芸戦線』に小説『林檎』を発表しプロレタリア文学の作家として出発する。
  • 1927年(昭和2年) - 日本プロレタリア芸術連盟分裂、中野重治・鹿地亘・江馬修らは残留し、脱退した青野季吉・蔵原惟人・林房雄らは労農芸術家連盟を創立。志賀義雄に恋人を取られ、その失恋をもとにした「酒盃」を『改造』に発表『あるおんな共産主義者の回想』福永操、れんが書房新社, 1982 p100。
  • 1928年(昭和3年) - 『プロレタリア大衆文学の問題』発表。
  • 1929年(昭和4年) - 『都会双曲線』発表。
  • 1930年(昭和5年) - 日本共産党への資金提供を理由に治安維持法違反で検挙。のち起訴され、豊多摩刑務所に入る。公判中に転向する旨の上申書を提出する林房雄ら法定で転向声明『東京日日新聞』昭和8年11月29日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p551 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)。大堀繁子と結婚、高円寺に暮らす。
  • 1932年(昭和7年) - 出所して鎌倉に転入。『青年』発表。「新潮」で『作家として』で転向を表明。
  • 1933年(昭和8年) - 小林秀雄、武田麟太郎川端康成、深田久弥、広津和郎、宇野浩二らと同人誌『文学界』を創刊。(〜1944年(昭和19年))。長男・英彦誕生。
  • 1934年(昭和9年) - 静岡県伊東に転居(政治家・小泉三申の別荘であった)。二男・昭彦誕生。
  • 1935年(昭和10年) - 『浪漫主義者の手帖』を著し、マルクス主義からの離反を主張。『壮年』発表。神奈川県鎌倉郡鎌倉町浄明寺宅間ヶ谷(現・鎌倉市浄明寺2丁目8)に転居。川端康成を隣家に誘い、12月に川端が引っ越してくる。
  • 1936年(昭和11年) - 『プロレタリア作家廃業宣言』発表。
  • 1937年(昭和12年) - 松本学・中河与一・佐藤春夫らと新日本文化の会を結成。日中戦争(日支事変・支那事変)への作家の従軍に参加(このほか、吉川英治吉屋信子尾崎士郎、岸田国士、石川達三らが従軍)
  • 1938年(昭和13年) - 『文学と国策』を発表。
  • 1939年(昭和14年) - 『西郷隆盛』を発表。1970年(昭和45年)に完結。
  • 1941年(昭和16年) - 『文学界』3月に『転向について』を発表(横浜湘風会機関誌『湘風』から転載)。
  • 1943年(昭和18年) - 小林秀雄と満州・中国を旅行。
  • 1947年(昭和22年) - 「小説時評」で坂口安吾らを「新戯作派」と名付ける。
  • 1948年(昭和23年) - 戦争協力により、文筆家として公職追放ほかには、火野葦平尾崎士郎ら数百名が政治的発言や行動を禁止された。
  • 1952年(昭和27年) - 妻の繁子が鎌倉浄明寺の自宅にて自殺。かねてより林の女性関係などに悩んで鬱状態にあり5度の自殺を試みていた『毎日年鑑』1953、p258『岡田茂吉全集: 著述篇』岡田茂吉、「岡田茂吉全集」 刊行委員会、1994、p561『自傳的交友錄・實感的作家論』平林たい子、文芸春秋新社、1960、p58-62。林は、『息子の青春』などで描いた理想的な家族関係について、精神を病んだ妻の回復や幸福な家庭再建への願望を込めて執筆したといった趣旨をうかがわせる発言を行った。
  • 1953年(昭和28年) - 『文学的回想』を発表。愛人だった中野好子(赤坂氷川町の貸席『なかの』経営者で三味線奏者)と再婚『毎日年鑑』1955、p291『林房雄論』三島由紀夫、新潮社、1966、p124。「悪妻物語」(京橋出版社)など9冊を刊行。
  • 1963年(昭和38年) - 三島由紀夫『林房雄論』が発表される。『中央公論』に『大東亜戦争肯定論』を発表。大きな物議を醸した。『朝日新聞』の月一回『文芸時評』を担当する(〜1965年(昭和40年))。
  • 1966年(昭和41年) - 三島由紀夫と対談した『対話・日本人論』を出す。
  • 1972年(昭和47年) -『悲しみの琴―三島由紀夫への鎮魂歌』を発表。
  • 1975年(昭和50年) - 胃癌のため死去服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)23頁。享年72。墓地は鎌倉報国寺にある。

三島由紀夫との交流

三島由紀夫と林の出会いは、1947年(昭和22年)6月27日「新夕刊」編集部であった。当初より三島は、林に好感を持ち、親交を続けた。林への書簡で、自身の文学論や高見順ら左翼的文壇人への憤慨などを吐露する。三島は同じ東京帝国大学法学部出身でもあった林を、常に尊敬し1963年(昭和38年)に『林房雄論』三島由紀夫『林房雄論』(新潮社(限定版)、1963年)、『作家論』(中央公論社、1970年10月。中公文庫、1974年、新版2016年)に収録。を書く。三島は、1966年(昭和41年)に対談『対話・日本人論』三島由紀夫・林房雄共著『対話・日本人論』(番町書房、1966年)が実現したときには感激したという。1969年(昭和44年)に、対談『現代における右翼と左翼』三島由紀夫『尚武のこころ 三島由紀夫対談集』(日本教文社、1970年10月)に収録。を行っている。

だが『対話・日本人論』の時点で、天皇観を巡り、意見の相違がやや現れた。林が、「天皇にも人として過ちはある。(中略)天皇に逆賊と言われたら甘んじて刑死すべきです。恨んではいけない。」と、主張したのに対して三島は、「僕は天皇無謬説なんです。(中略)僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんです。(中略)天皇は現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる。いまあまりにも現状肯定的ホームドラマ的皇室のイメージが強すぎるから、先鋭な革新の象徴としての天皇制というものを僕は言いたいということです。」と語った。最終的には林も三島のその考え方に同意し、「革新のシンボルになります。これからも必ずなります」と賛同している。

三島は、自決寸前の1970年(昭和45年)9月には、徳岡孝夫に、「林さんはもうダメだ。右翼と左翼の両方からカネを貰っちゃった」と言い、失望の色を隠さなかったという。ただし、これについて徳岡は、後年に回想記『五衰の人-三島由紀夫私記』徳岡孝夫『五衰の人』(文藝春秋、1996年。文春文庫、1999年。文春学藝ライブラリー(文庫)、2015年)にて、三島は「楯の会」の活動で思い詰めていたが故に、林側の事情と行動を誤解したのではないかと推測している。

林は、1971年(昭和46年)1月24日に築地本願寺で行なわれた三島の本葬・告別式に際し、弔辞で、「満開の時を待つことなく自ら散った桜の花」、「日本の地すべりそのものをくいとめる最初で最後の、貴重で有効な人柱である、と確信しております」と述べてその死を悼んだ。「憂国忌」の道筋をつけた。

晩年は闘病生活を送りつつ、何冊か関連著作(三島事件の「追悼本」)の執筆・編纂・出版にあたり、月刊誌『浪曼』(1972年11月号-1975年2月号)発行にも参与、民族派の論客としても活動し続けた。皇統論や西郷隆盛語録などを執筆した。

大東亜戦争肯定論

『大東亜戦争肯定論』は、『中央公論』1963年(昭和38年)9月号から1965年(昭和40年)6月号にかけ連載され、単行判は番町書房(正・続)2冊(のち新版全1巻)で刊。様々な再刊『林房雄著作集』、『林房雄評論集』、を経て、2001年(平成13年)に夏目書房で再刊(普及版も刊)、夏目書房の倒産(2007年(平成19年))により再度入手困難となった。2014年(平成26年)に中公文庫で初めて文庫再刊された。

林はあえて、敗戦占領下にGHQにより使用を禁じられ、占領終了後もタブー視された「大東亜戦争」という名称を用いた。

「肯定論」の中心をなす主張は、幕末の弘化年間(1845年-1848年)以来の日本近代史を、アジアを植民地化していた欧米諸国に対する反撃の歴史である「東亜百年戦争」と把握している点にある。そして、1945年(昭和20年)8月15日に終わった大東亜戦争はその全過程の帰結だった、としている。さらに、その過程(朝鮮併合、満州事変、日中戦争など)における原動力は経済的要因ではなくナショナリズムであったとし、それの集中点は「武装せる天皇制」だった、とも提起している。

翻訳

著作

    • 改訂版・文藝春秋、1943年
    • のち角川文庫(上・下)
    • 『青年』講談社ロマン・ブックス、1964年。新書判
    • ※「文明開化」で改訂再刊
  • 「繭 獄中記 白夫人の妖術」が『日本文学全集 66 林房雄・檀一雄集』に収録(集英社、1969年、新版1975年)
  • のち角川文庫
  • のち角川文庫
  • のち新潮文庫
  • のち新潮文庫
    • 巻末に追悼文集
    • 新書判:下巻に追悼文集
  • 『朝日新聞』で連載
  • 挿画:古沢岩美
  • 以下のみ刊行(全5巻予定)
    • 「1 大東亜戦争肯定論」、「2 日本よ美しくあれ・東西南北・文学的回想・戦後の履歴書」
    • 「3 獄中記・転向について・勤皇の心」
  • 横山まさみち作画で劇画化(新版:講談社+ガイドワークス など)
    • 解説:尾崎秀樹
    • 解説:竹田恒泰
    • 解説:宮崎正弘晩年の編集担当者だった。
  • 序文:川端康成
  • 以下のみ刊行全8巻予定、未刊は「3 日本よ美しくあれ」、「5 日本への直言」、「7 文芸時評」、「8 悲しみの琴」
    • 「1 緑の日本列島」、「2 文学的回想」
    • 「4 吉田茂と占領憲法」「随筆池田勇人」の改訂再刊。池田・林は、共に第五高等学校の出身。、「6 大東亜戦争肯定論」
    • 上記と同じ版型
    • 解説:渡部昇一
    • 解説:原口泉
  • 序文:保田與重郎
  • 「青年」は『日本の文学40 林房雄 武田麟太郎 島木健作』(解説・付録対談は三島由紀夫。中央公論社、1968年、普及版1974年)、および『現代日本文学館28 林房雄 島木健作』(文藝春秋、1969年、解説:河盛好蔵)に収録。解説:尾崎秀樹
  • 評伝:河盛好蔵、解説:富岡幸一郎
:* 上記を文庫化、解説:保阪正康
  • 他に「神武天皇実在論」を収録。富岡幸一郎と島田雅彦の解説対談。
  • 解説:桶谷秀昭

共著 および対談

    • 解説:富岡幸一郎
  • 保田與重郎、飯守重任、筑波常治、葦津珍彦、浅野晃、田中忠雄、嘉悦康人、村松剛、勝部真長、藤島泰輔黛敏郎と対話。
  • 中心になって編んだ作家作品論、冒頭に村松剛と対談、のち『日本文化を考える 村松剛対談集』(日本教文社、1979年)に収録。

訳書

外部リンク

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