ドーン・アダムス : ウィキペディア(Wikipedia)
ドーン・アダムズ#ロビンソン (下) p.304#野口「ドーン・アダムス」と濁らない資料もある(#大野 (2005) p.179)(, 1930年9月21日 - 1985年5月7日)はイギリスの女優。1950年代にはメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)の作品を中心に映画女優としてハリウッドで、1960年代から1970年代にかけてはイギリスのテレビ界で活躍した。チャールズ・チャップリンの1957年の作品『ニューヨークの王様』ではヒロインを務め、スペンサー・トレイシーやデヴィッド・ニーヴンといった名優とも共演を重ねた。
生涯
1930年9月21日、サフォークのに生まれる#Glamour。生後間もなく一家はイギリス領インド帝国のカルカッタに移るが、カルカッタに移ってのち母が亡くなり、以降は母方の祖父母に育てられることとなった。ドーンは5歳になってからイギリスに戻る。妻に先立たれた父親は1942年10月にで女優のアーリーン・ジャッジと再婚するが、その生活も1945年7月で終わる。ドーンは物心ついてから父親に女優になることを打ち明けたあと、王立演劇学校に進んで女優の道を歩み始めることとなり、1949年に初舞台を踏む。舞台デビュー翌年の1950年、若年ながら小劇団を率いて巡業していたドーンはMGMにスカウトされ、1951年のレイ・ミランド主演の映画『夜から朝まで』のドッティ・フェルプス役で銀幕にデビューした#NYT『夜から朝まで』での共演者の中には、のちのファーストレディであるナンシー・デイヴィスがいた(#Imdb)。。MGMでのドーンは『雨に唄えば』(1952年)のテレーザ、『月蒼くして』(1953年)のシンシア・スレーターおよび『聖衣』(1953年)のユニアといった役柄で出演する#Imdb。私生活の面では1954年にロッカセッカ公ドン・ヴィットリオ・エマヌエーレ・マッシモと結婚し、ローマに移り住んでいた。翌1955年1月10日には長男ステファノ・マッシモを出産する。
この間、ドーンはチャップリンの『ライムライト』のヒロインであるテリー役のオーディションを受ける#大野 (2005) p.176。テリー役にはクレア・ブルームが選ばれてドーンはその座を逃したが、その存在はチャップリンの記憶の中に残っていた。チャップリンは1954年に、のちに『ニューヨークの王様』として結実する、祖国を追放されニューヨークに滞在する国王を題材とした作品の製作を発表し、ヒロインである若い女性広告エージェントであるアン・ケイ役の人選に取りかかった。当初、この役にはヴォードヴィル芸人の孫でもあったケイ・ケンドールの起用が考えられ、チャップリンの妻のウーナや片腕のジェリー・エプスタインがその考えに同調していた。ところが、ケイの出演作の一つである『』を見たチャップリンは気が変わり、ケイの起用はなくなった。代わってチャップリンがヒロイン役として目星をつけたのがドーンであった。チャップリンはドーンに電話で直接出演交渉し、さらにドーンがの1953年1月以降のチャップリン邸(#ロビンソン (下) p.299)を訪問して、正式にヒロインとして選ばれることとなった。完成した『ニューヨークの王様』は、チャップリン自身がその犠牲となったマッカーシズムを皮肉り、ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーなどといった若い世代の映像作家に多大な影響を与えた#大野 (2005) p.178,180。ドーンも、金に窮する国王をコマーシャルや整形手術などに誘う広告エージェントの役を好演した。イギリス映画である『ニューヨークの王様』はさておいて、この時期のドーンの出演作は前述のMGM時代の作品も含め、ハリウッドのモラルから多少逸脱するものが多かったが、ニューヨークを中心に一定以上の支持を集めた。
1960年代以降のドーンは『』(1960年)のヒロインなど定期的な映画出演の傍らでテレビドラマにも進出。私生活でも1966年3月に次男ノエル・ショーン・パトリック・アダムズを出産するが、ノエルは生後半年で気管支炎により亡くなってしまった。1971年4月23日にはロンドンでマッシモと離婚する。2年後の1973年、長男ステファノが映画プロデューサーのアイヴァン・フォックスェルの娘と婚約し、ドーンはこの婚姻に賛成の意を示した。その翌年の1974年、ドーンはジミー・ホワイトと再婚した。1980年代に入ってからは癌を患い、代替医療のためにフロリダに行ったりした。1985年3月から4月にかけてはアメリカ滞在中に3週間ほど昏睡状態に陥り、意識が回復したのちロンドンに戻った。それから間もない1985年5月7日、ドーン・アダムズはロンドンの病院で54年の生涯を終えた。
主な出演作品
インターネット・ムービー・データベースのデータによる。
映画
公開年 | 邦題原題 | 役名 | 備考 |
---|---|---|---|
1951 | 夜から朝までNight Into Morning | ドティ・フェルプス | |
1952 | 雨に唄えばSingin' in the Rain | テレサ | クレジットなし |
1953 | 悲恋の王女エリザベスYoung Bess | ケイト・ハワード | |
月蒼くしてThe Moon Is Blue | シンシア・スレイター | ||
聖衣The Robe | ジュリア | ||
1954 | 宇宙への挑戦Riders to the Stars | スーザン・マナーズ | |
寝台の秘密Secrets d'alcôve | ジャネット | ||
1955 | 海底の争奪Il tesoro di Rommel | ソフィア | |
1956 | 第五戦線・遠い道Londra chiama Polo Nord | メアリー | |
1957 | チャップリンのニューヨークの王様A King in New York | アン・ケイ | |
1958 | 潜航電撃隊The Silent Enemy | ジル・マスターズ | |
狂った本能L'île du bout du monde | ヴィクトリア | ||
1959 | 逆襲の河I battellieri del Volga | イリーナ・タチアナ | |
気分を出してもう一度Voulez-vous danser avec moi? | アニタ・フロレス | ||
1960 | 怪人マブゼ博士Die 1000 Augen des Dr. Mabuse | マリオン・メニル | |
ジキル博士の二つの顔The Two Faces of Dr. Jekyll | キティ | ||
激しい夜Les menteurs | ノーマ・オブライエン | ||
1961 | 恋のラストチャンスFollow That Man | ジャネット・クラーク | |
1963 | 翼のリズムCome Fly with Me | ケイティ・リナード | |
1964 | 黒いチューリップLa Tulipe noire | Catherine de Vigogne | |
星空Ballad in Blue | ジーナ・グラハム | ||
1966 | 続・殺しのライセンスWhere the Bullets Fly | フェリシティ・ムーンライト | |
1970 | バンパイア・ラヴァーズThe Vampire Lovers | 伯爵夫人 | |
1971 | 哀愁のパリSapho ou La fureur d'aimer | マリアン | |
1973 | 墓場にて/魔界への招待・そこは地獄の始発駅The Vault of Horro | Inez | |
テレビ
- (1953)
- (1955)
- (1955)
- (1963 - 66)
- (1970 - 71)
- (1971 - 73)
- (1976)
- (1983)
注釈
出典
参考文献
サイト
印刷物
関連項目
- チャールズ・チャップリン
- メトロ・ゴールドウィン・メイヤー
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/07/31 23:41 UTC (変更履歴)
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