鈴木俊継 : ウィキペディア(Wikipedia)
鈴木 俊継(すずき としつぐ 、1934年1月8日 - 没年不明)は、日本のテレビ演出家。演出家となる前は鈴木 孝次(すずき こうじ)名義で俳優として活動していた。妻は円谷プロダクションのスタッフだった宍倉徳子。関東学院大学中退。
来歴
1952年に東京映画製作の劇場映画『春の囁き』で俳優としてデビュー。その後、東宝に移籍するが役に恵まれず、映画監督の岩城英二に誘われてテレビドラマの助監督に転身した。
TBSのテレビドラマ『いまに見ておれ』(1964年)で共にADを勤めていた満田かずほに誘われ、円谷特技プロダクション作品に参加。『ウルトラQ』『ウルトラマン』での助監督を経て、『ウルトラマン』第32話「果てしなき逆襲」と第33話「禁じられた言葉」で監督としてデビューした。続く『ウルトラセブン』では円谷英二に推薦され、満田と共に製作の中心的存在となった。以後も特撮テレビドラマを中心に活動し、コマーシャルや企業パンフレットの製作なども行っていたという。
『恐竜探険隊ボーンフリー』(1976年)以後の映像関係での活動は確認されていない。すでに故人とされるが、晩年は映画関係者とは疎遠になっていたため、死去の時期や経緯は不明である。
人物・作風
- 温厚な人物であったとされ、俳優の山村哲夫がスタッフと対立して辞めようとした際には、直接電話をかけて説得にあたったという。
- 監督としては堅実な作風で、脚本に口を挟むようなこともなかったとされる。しかし、『ウルトラセブン』第26話「超兵器R1号」では、ラストシーンをカットしろというプロデューサーに激しく抗議する一面もあったという。
- 『ミラーマン』(1971年)主演の石田信之は、鈴木について「優しくて、みんなに気を使っていた」と述べている。
監督作品
- ウルトラシリーズ
- ウルトラマン(1967年)
- ウルトラセブン(1967年 - 1968年)
- ウルトラファイト(1970年)
- ウルトラマンA(1973年)
- 快獣ブースカ(1967年)
- 怪奇大作戦(1968年 - 1969年)
- チビラくん(1970年 - 1971年)
- ミラーマン(1971年 - 1972年)
- トリプルファイター(1972年)
- ファイヤーマン(1973年)
- ジャンボーグA(1973年)
- スーパーロボット レッドバロン(1973年 - 1974年)
- 鉄人タイガーセブン(1974年)
- 電人ザボーガー(1974年)
- スーパーロボット マッハバロン(1974年 - 1975年)
- 少年探偵団(1975年)
- コードナンバー108 7人のリブ(1976年)
- 恐竜探険隊ボーンフリー(1976年)
出演作品
- 春の囁き(1952年)
- 総理大臣の恋文(1953年)
- 太平洋の鷲(1953年) - 少年航空兵B
- ゴジラシリーズ
- ゴジラ(1954年) - 毎朝新聞記者
- ゴジラの逆襲(1955年) - 防衛隊員
- 女性に関する十二章(1954年)
- 泉へのみち(1955年)
- 獣人雪男(1955年) - 栗原
- 青い果実(1955年)
- 花嫁会議(1956年)
- 鬼火(1956年)
- 空の大怪獣 ラドン(1956年) - 通信員
- 地球防衛軍(1957年) - 防衛隊員
- 大怪獣バラン(1958年) - 漁夫B
- 潜水艦イ-57降伏せず(1959年)
- 女が階段を上る時(1960年)
- 電送人間(1960年)
- 独立愚連隊西へ(1960年)
- 暗黒街撃滅命令(1961年)
- 妖星ゴラス(1962年) - 操縦員
- クレージー作戦 くたばれ!無責任(1963年)- プールのチンピラ
注釈
出典
参考文献
- 大全シリーズ(双葉社)
- 洋泉社MOOK 別冊映画秘宝(洋泉社)
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/12/07 22:29 UTC (変更履歴)
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