ジャン=ガブリエル・アルビコッコ : ウィキペディア(Wikipedia)
ジャン=ガブリエル・アルビコッコ(Jean-Gabriel Albicocco、1936年2月15日 カンヌ - 2001年4月10日 リオデジャネイロ)は、フランスの映画監督であり、写真家で撮影監督キント・アルビコッコの息子である。ヌーヴェルヴァーグの監督のひとりである。
来歴・人物
1936年2月15日、フランス・アルプ=マリティーム県カンヌに生まれる。親の職業と環境のおかげで幼いころから写真に興味を抱き、父のラボで最初の写真作品を現像した。12歳のとき、自分の作品をモナコ公国の王子に見せる機会もあった。やがてパリに居を移し、カメラオペレーションを父に学んだ。
1953年、わずか17歳のとき、のちに『アイドルたち』(1968年)で有名になるマルクO監督のデビュー作『クローズド・ヴィジョン』の撮影を任される。ピエール・ブロンベルジェ製作、マルセル・ジボー監督の短篇などの撮影を数本手がけながら、翌1954年、習作短篇『Ténèbre』を18歳で初演出。1956年、ジュールズ・ダッシン監督の『宿命 Celui qui doit mourir』(1957年)の助監督を経験。同年、『Ciel bleu(青空)』、『Les Essais(エセー)』という2本の商業的な短篇を監督する。兵役に徴収され、軍の映画局に勤める。除隊後、アメリカの短篇テレビシリーズ『Bonsoir』(1959年)を演出。これは各話、フランスの新人監督が演出したもの。
1960年、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』(1960年)に出演した21歳の女優マリー・ラフォレと結婚。彼女を主演に『金色の眼の女』(1961年)を監督し、25歳にして長篇監督デビューを果たす。翌1962年には第16回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品作『アメリカのねずみ』を妻を主演に撮るが、やがて離婚してしまう。1967年に5年ぶりの長編映画『さすらいの青春』をブリジット・フォッセー主演で監督するが、そこにマリー・ラフォレの姿はない。
長篇デビュー作を含めた3本はいずれも新進プロデューサーのジルベール・ド・ゴールドシュミットの製作による。1957年に「カイエ」派のピエール・カスト監督の『ポケットの中の愛』に出資した人物である。
1968年5月19日、5月10日から開催されている第21回カンヌ国際映画祭の行われている宮殿に、ジャン=リュック・ゴダール、クロード・ルルーシュ、フランソワ・トリュフォー、クロード・ベリ、ジャン=ピエール・レオ、ロマン・ポランスキー、審査を放棄した審査員ルイ・マルらとともに乗り込み、上映と審査の中止を求め、映画祭を粉砕した。3日後の5月21日には、パリで労働者と学生によるゼネストが起き、いわゆる「五月革命」へと発展してゆく。
1969年、ピエール・カストとブラジルをテーマにしたドキュメンタリー作品で共同作業をする。1971年には代表作となる『』やオムニバス映画を含めた3本が公開されるが、その後、映画監督・撮影監督といった仕事をぷっつりと辞めてしまう。35歳の年であった。
2001年4月10日、ブラジル・リオデジャネイロ州リオデジャネイロで死去。。フランス映画監督協会の設立メンバーであり、1980年代には、在ブラジルフランス映画産業会の代表であった。
フィルモグラフィー
- クローズド・ヴィジョン Closed Vision 1953年 撮影監督 監督マルクO
- La Dôt de Sylvie 短篇 1953年 撮影監督 監督アルマン・シャルティエ
- Croissance de Paris 短篇 1954年 撮影監督 監督マルセル・ジボー
- Ténèbre 短篇 1954年 監督 ※初監督作
- Ballade parisienne 1954年 撮影監督 監督マルセル・ジボー
- Une lettre pour vous 短篇 1955年 撮影監督 監督アンドレ・ヴチュスト
- 宿命 Celui qui doit mourir 1956年 助監督 監督ジュールス・ダッシン
- Pas de grisbi pour Ricardo 1956年 助監督 監督アンリ・ルパージュ
- Ciel bleu 短篇 1957年 監督
- Les Essais 短篇 1957年 監督
- Bonsoir 短篇テレビ映画シリーズ 1957年 監督 アメリカ映画
- Madame se meurt 短篇 1961年 撮影監督 監督ジャン・ケロール、クロード・デュラン
- Némausus 短篇ドキュメンタリー 1961年 監督 撮影監督キント・アルビコッコ
- Une histoire de chiens 短篇ドキュメンタリー 1961年 監督
- 金色の眼の女 La Fille aux yeux d'or 1961年 監督・脚色 撮影監督キント・アルビコッコ 仏伊合作 ※長篇デビュー作
- アメリカのねずみ Le Rat d'Amérique 1962年 監督・脚本 撮影監督キント・アルビコッコ 仏伊合作 ※第16回カンヌ国際映画祭コンペティション出品
- Records et vacances 短篇ドキュメンタリー 1964年 監督
- さすらいの青春 Le Grand Meaulnes 1967年 監督 撮影監督キント・アルビコッコ
- Bandeira Branca de Oxalá 1969年 共同脚本 監督・脚本ピエール・カスト
- Macumba 1969年 プロデューサー 監督ピエール・カスト
- Le Cœur fou 1971年 監督・脚本
- Le Petit matin 1971年 監督・脚本 共同脚本ピエール・カスト 撮影監督キント・アルビコッコ、音楽フランシス・レイ
- [[:fr:Faire l'amour : De la pilule à l'ordinateur|Faire l'amour : De la pilule à l'ordinateur]] (別名Faire l'amour - Emmanuelle et ses sœurs、およびL'Amour au féminin) オムニバス 1971年 監督 撮影監督キント・アルビコッコ、参加監督トマ・ファントル、左幸子、グンナール・ヘグルンド
外部リンク
- Jean-Gabriel Albicocco - IMDb 英語
- Jean-Gabriel Albicocco - BiFi 仏語
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/11/20 23:58 UTC (変更履歴)
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