ジェームズ・キャラハン : ウィキペディア(Wikipedia)

カーディフのキャラハン男爵レナード・ジェームズ・キャラハン(英語:、1912年3月27日 - 2005年3月26日)は、イギリスの政治家。財務大臣、内務大臣、外務・英連邦大臣、首相を歴任した。労働党の「巨人」と称された他にも「サニー・ジム」や「ビッグ・ジム」の愛称があった。なお首相に就任する前に「グレート・オフィス・ステート」と呼ばれる3ポスト(財務大臣・内務大臣・外務大臣)を経験したのは、20世紀ではキャラハンが初めてであった。

生涯

生い立ち

1912年3月27日にイングランド南部のポーツマスに誕生する。父親を早くに亡くしたため、中学校を卒業後に16歳で税務署職員として働き始める。すぐに組合活動を始め、24歳で全国税務職員組合の副書記長となる。その後、1945年7月に労働党の庶民院議員となり、運輸政務次官時代は鉄道国有化に関わる。

ウィルソン政権時代

1963年1月に労働党党首のヒュー・ゲイツケルが急死すると、右派の一部の支持を得て党首選挙に立候補する。結果は最下位に終わったが、1964年にウィルソン内閣が発足すると、大蔵大臣として閣僚入りした。ここでキャラハンは国際収支赤字に苦しむポンドの防衛に対応することとなるが、これに失敗してポンド売りが殺到してしまう。

1970年6月に内務大臣を退任した後は、1974年3月に外務大臣に就任する。ここでイギリスのヨーロッパ共同体(EEC)残留問題に対応する。閣内は残留賛成派と反対派で真っ二つに割れたが、キャラハンとウィルソン首相は残留賛成派であった。結果的にこの問題は庶民院の投票と国民投票を経てEEC残留が決定する。

1976年3月16日にウィルソン首相が突然辞任を発表した直後の同年3月23日には、ローデシアのスミス政権に対して黒人の多数支配に移行することを求め、アフリカの白人独裁政権が終焉に向かうきっかけを作った米、ローデシアに圧力 英国と共同歩調『朝日新聞』1976年(昭和51年)4月28日、13版、7面。

首相就任

1976年イギリス労働党党首選挙には、キャラハンを含め6人が立候補する乱戦となったが、第2回投票・決選投票を経て4月5日にキャラハンが新首相に任命された。在任中は「イギリス病」によってイギリス経済は不振を極め、ストライキやインフレにより社会不安が増大した。また、労働党は党内抗争により左右両派が激しく対立し、キャラハンは行政サービスの低下に対して、有効な対策を打ち出すことができなかった(不満の冬も参照)。

1979年3月28日に野党がキャラハンに対する不信任案を提出するが、これが311対310の1票差で可決してしまう。労働党は5月3日の総選挙に大敗を喫し、「鉄の女」マーガレット・サッチャーが率いる保守党との政権交代を余儀無くされた。以後の労働党は1997年5月にトニー・ブレア政権が発足するまで長らく政権から離れることとなる。

退任後

1987年11月に一代貴族として「南グラモーガン州カーディフ市のカーディフのキャラハン男爵」に叙せられた。晩年は各国の元首脳らによる「OBサミット」に参加し、核廃絶活動などに参加した。2005年3月15日に夫人を亡くし、同年3月26日にイングランド南部のイースト・サセックスの自宅にて92歳で死去した。

家族

1938年7月にと結婚して、1男2女をもうけた。

  • 第1子(長女)(1939年11月18日 - )労働党の政治家として王璽尚書、貴族院院内副総務などを歴任した。
  • 第2子(次女)ジュリア・エリザベス(1942年 - )
  • 第3子(長男)マイケル・ジェームズ(1945年 - )

栄典

爵位

1987年11月に以下の一代貴族爵位を新規に叙された。

  • 南グラモーガン州カーディフ市のカーディフのキャラハン男爵(1987年11月5日の勅許状による連合王国一代貴族爵位)

勲章

  • ガーター勲爵士(KG)(1987年)

その他

  • 法学博士号(サセックス大学名誉学位)(1993年)
  • 法学博士号(ウェストミンスター大学名誉学位)(1996年)

外部リンク

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