廣瀬量平 : ウィキペディア(Wikipedia)
廣瀬 量平(ひろせ りょうへい、1930年(昭和5年)7月17日 - 2008年(平成20年)11月24日)は、日本の作曲家。
人物・来歴
北海道函館市で、日魯漁業(現・マルハニチロ)に勤める父・理喜男と、レストラン五島軒店主の若山徳次郎の長女・柳の長男として生まれる。1943年(昭和18年)市立函館中学校(現市立函館高等学校)に入学するが、翌年父の転勤に伴い樺太豊原市へ引越し、樺太庁立豊原中学校に転入。1945年(昭和20年)3月函館に戻る。終戦後、北海道立札幌第一高等学校(現北海道札幌南高等学校)へ転校。1948年(昭和23年)、北海道大学予科文類に入学、この頃から作曲を始める。教育学部へ進み、1953年(昭和28年)に卒業後、上京。1955年(昭和30年)に東京藝術大学作曲科に入学。1961年(昭和36年)に同専攻科を修了。在学中、池内友次郎、島岡譲、矢代秋雄らに師事。1977年(昭和52年)から1996年(平成8年)まで京都市立芸術大学音楽学部教授を務め、その後同大学音楽研究科長、音楽学部長を歴任。ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院講師(1997年)、ドイツ・エッセン音楽大学講師(2003年)、国立音楽大学講師(1977年 - 1979年)、同志社女子大学大学院講師(1997年 - 2001年)、東京芸術大学講師(1991年 - 1998年)も務めた。
1984年(昭和59年)から1988年(昭和63年)まで日本現代音楽協会委員長。2000年より2004年まで、京都市立芸術大学伝統音楽研究センターの提唱者にして初代所長。のち同大名誉教授となる。2005年(平成17年)より京都コンサートホール館長となり、死去するまで務めた。
2008年11月24日、肝不全により京都市内の病院にて死去。。
作品分野について
- フルート作品においてはフルートオーケストラという編成の創生期から、精力的に作品を発表している。1979年の「ブルー・トレイン」の画期的成功を皮切りに、15曲以上にのぼる。
- リコーダー作品においては、「ラメンテーション」「メディテーション」をはじめ既に現代の古典としての扱いを受けている。特にヨーロッパ地域では、音楽大学の入試に使われたり、コンクールの課題曲になったりと、スタンダードナンバーと言えるほどである。
- 「尺八とオーケストラのための協奏曲」は、音楽之友社の高校音楽教科書浜野政雄ほか『新編 高校の音楽3』音楽之友社、1996年1月、平成7年2月15日文部省検定済教科書にて、邦楽器をオーケストラに取り入れた画期的例として、詳しい曲紹介が掲載されている。
主な作品
管弦楽
器楽曲
邦楽器楽曲
合唱曲
映画音楽
子どものための歌
放送音楽
舞台音楽
- 舞踊音楽「鬼」(1970年)
- 癩王のテラス(三島由紀夫作 1974年)
- 舞踊曲「万葉の女」(1976年)
- 季節はずれの長屋の花見(吉永仁郎作 俳優座 1993年)
その他
賞歴
エピソード
- 藝大時代の廣瀬の下宿上階には、新婚の遠藤周作夫妻が住んでいた。遠藤が酔っぱらって帰宅が遅くなると、遠藤夫人は寝てしまって扉を開けない。そうすると遠藤が小石を窓に投げ廣瀬を起こして、扉を開けてもらっていた。(遠藤周作「落第坊主の履歴書」)この件、遠藤周作がフジテレビ『小川宏ショー』に出演した際、廣瀬は「ご対面コーナー」の対面者として出演している。
- 市立函館博物館には、縄文時代のものとして石笛ではないかと思われる出土品が展示されていたが、誰も鳴らしたことはなかった。廣瀬はそれを手に取り、実際に吹き鳴らし、笛であることを証明した。(1976年1月25日付朝日新聞全国版)
- 青森三内丸山遺跡で出土した、穴あきのこぶし大のヒスイ玉についても石笛の可能性を示唆し、笛演奏家の上杉紅童と渡青し、上杉氏の手により石笛であることを実証した。
- 廣瀬が作曲した「はこだて讃歌」は、函館市のゴミ収集車が流すメロディーとして使われていた。大型外航船が函館に入港する際は、同曲が流されている。
- 「吹奏楽のための祝典序曲」は、宇都宮競馬場の重賞ファンファーレ(カネユタカオー記念など)に使われた。
注釈
出典
関連項目
外部リンク
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