田中聖二 : ウィキペディア(Wikipedia)
田中 聖二(たなか せいじ、1977年1月1日 - 2005年4月15日)は日本のプロボクサー。鳥取県鳥取市出身。第29代日本スーパーフライ級王者。金沢ボクシングジム所属。鳥取城北高等学校卒業。
来歴
デビューから王座獲得まで
高校時代は、野球部に所属。高校卒業後、プロボクサーを目指し単身大阪に渡り、金沢ジムに入門。
1997年7月31日、プロデビュー(4回判定勝ち)。
その後、7戦目まで6勝(1KO)1分という順調な成績を残すが、1998年11月9日に、後の日本ライトフライ級王者興梠貴之に6回判定負けで初黒星を喫したのを皮切りに3連敗。
2001年には元世界ランカーの藤原康二、元日本ランカーの福山登との引き分けを2つ挟んで5連勝するが、同年11月2日に後のOPBF東洋太平洋フライ級王者で世界挑戦も経験する小松則幸に7回負傷判定負け。さらに、2002年8月20日には元WBC世界スーパーフライ級王者でもあるWBCインターナショナル同級王者ジェリー・ペニャロサに挑み、8回TKO負け。
2004年11月27日、25戦目にして日本王座初挑戦。横浜文化体育館で日本スーパーフライ級王者有永政幸に挑み、10回判定勝ち。王座獲得に成功した。
ラストファイト
2005年4月3日、日本王座初防衛戦。IMPホールで6戦目の新鋭名城信男と対戦した。田中と名城はともに大阪市内のジムに所属していることもあり、お互い出稽古をするなど頻繁に合同練習を行っていた。
挑戦者・名城は前年8月、2度の世界挑戦経験を持つ本田秀伸とのノンタイトル戦に10回判定勝ちし、世界ランク入りを果たしていた。
王者・田中は試合当日、同年1月に結婚したばかりの妻に「今から試合に行きます。必ずベルトを持って帰ります。勝つ、勝つ、必ず勝って帰ってくる」とメモを残して自宅を出た。
試合は最終・10回TKOで敗れ、王座陥落。試合終了と同時にリングに崩れ落ちたが、すぐ意識を取り戻す。新王者・名城に「やっぱり強かったよ」と言い、お互いに握手し健闘を称えあった。田中はそのまま自分の足で歩き、控え室まで戻ったが、控え室でスタッフに頭痛を訴えた後、意識を失い緊急入院。搬送先の病院で急性硬膜下血腫と診断され、7日に開頭手術を受ける。
その後、一時期容態が安定したが、2005年4月15日19時頃に容態が急変。意識を取り戻すことなく、同日20時43分に死亡した。同月18日に大阪・平野区で行われた告別式には、世界王座を獲得して間もない元スパーリングパートナーの長谷川穂積、同じ金沢ジムの徳山昌守、石田順裕、小島英次ら約200人が参列した。
2005年12月、第1回関西MIB賞・特別賞を授与され、2005年度プロ・アマチュア年間表彰選手選考会でも特別賞に選出された。
田中を破った名城はその後、WBA世界スーパーフライ級王座を2度獲得。たびたびWBAのチャンピオンベルトを携えながら田中の墓前に赴き、勝利を報告している。
戦績
プロボクシング:26戦16勝(4KO)7敗3分
獲得タイトル
- 第29代日本スーパーフライ級王座(防衛0)
関連項目
- 男子ボクサー一覧
- ボクシング日本王者一覧
外部リンク
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2025/01/14 23:38 UTC (変更履歴)
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