沢田豊 : ウィキペディア(Wikipedia)

沢田 豊(さわだ ゆたか、1886年1月10日日本人の足跡-沢田豊(元は産経新聞 2001年4月20日) - 1957年9月3日 :)は、ドイツを中心に、ヨーロッパで活動した日本人のサーカス芸人 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧、曲芸師。

経歴

愛知県葉栗郡大野村(現・一宮市浅井町大野)で、医師の三男として生まれる。1891年の濃尾地震により浅草の祖父の元に身を寄せる。浅草で玉乗り曲芸の「横田一座」を見て、家出をして一座に加わり、16歳だった1902年に(14歳だった1900年とする記述もある - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧)、横田一座の一員としてロシア帝国統治下のウラジオストクに渡り、さらにサンクトペテルブルクを含むロシア各地を巡業した。1904年、日露戦争が勃発した際、一座はヤルタにいたが、そのまま抑留された。その後、一座はコンスタンチノーブルからギリシャ、エジプトを経てイタリアに至り、以降ヨーロッパ各地で興行を行なった。

横田一座は1907年に、ドイツの新興サーカス団と契約し、沢田は青竹の上に頭だけで倒立する技などによって評判を呼び、スターとなった。また、ドイツ人女性アグネスと結婚し、やがてふたりの間には6人の子どもたちが生まれた。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、横田一座は敵国人として一時拘束され、一座は解散となってしまう。沢田はしばらくの間、スイスのチューリッヒで電気技師として働いた。

第一次世界大戦後、沢田はサラザニから呼び戻され、子どもたちとともに「サワダファミリー」として曲芸を披露した。1934年からはサラザニの南米巡業に参加し、その後の日本公演の企画も出ていたが、それは実現せず、興行主サラザニの急死を受けてサーカスがドイツに帰国した後、1936年に沢田はサラザニの息子から解雇されてしまう。

その後、沢田一家は、キャバレーのショーなどで活動を続けたが、第二次世界大戦でドイツが敗北した後、ベルリンを占領したソビエト連邦軍によって、日本人であった沢田は家族とともに満洲の新京へ強制送還された。その後、沢田一家は混乱した時期の中国におよそ3年ほどとどまり、1948年にドイツに戻った。その後も沢田一家は曲芸の興行を1953年まで続けた。

晩年の沢田はゲッティンゲンに、妻子とともに住んでいたが、1957年9月3日に心臓衰弱で死去した。

その後

沢田の次男である日系ドイツ人マンフレッド・ユタカ・サワダ(1919年生)は、1990年に日本の新聞を通してルーツ探しを行い - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧、翌1991年に、横浜市の「野毛大道芸ふぇすてぃばる」に招かれて来日した。

1993年には、サーカス研究家である大島幹雄による、沢田の評伝『海を渡ったサーカス芸人 コスモポリタン沢田豊の生涯』が出版された - ヨミダス歴史館にて閲覧。

関連文献

  • 大島幹雄『海を渡ったサーカス芸人 コスモポリタン沢田豊の生涯』平凡社、1993年

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/11/26 19:45 UTC (変更履歴
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